03. 天上の宮殿

 清浄なる白金の光の下で彼は一人まどろんでいた。

 水晶と真珠石で作られた天宮から天界を見渡せば、どこまでも長閑な風景が広がっている。真綿のように白く柔らかい雲花の大地には、所々に神殿や精霊、天人族達の住居が建ち並んでいる。そこで生活を営む者達の顔はみな晴れやかだった。

 その様子は如何に世界の統治が長く正しく在り続けたかを如実に物語っていた。

 けれども、彼の心の内には不安が過ぎる。自分はいつから夢見心地で座っていたのだろう。いつまでこうして在り続けていられるだろう。

 王者は頭を振った。

 幸福に浸り切れない。悪い癖である。どんな時でも気を緩めないと言えば長所にも聞こえるが、彼には真っ白な世界にただ一点黒い染みを落とす闇のように思えてならなかった。

 まるで自身の不完全さを象徴するような――。

「天帝」

 いつの間にか背後には旧知の神が立っていた。

「何を考えていた?」

 気遣わしげに尋ねる。差し出された手が頬に触れようとした時、天界の王は荒々しくそれを払った。

 相手は一瞬驚いたような顔を見せたが、やがて悲しそうに目を伏せた。

 それを見た天帝はほんの刹那良心の呵責に駆られたが、すぐに威儀を正して相手を睨み付けた。

 ――闇神ユリスラ。

 元は《幻》という《元素》の《顕現》神であった。しかし、先代闇神のウリスルドマが斃れた際に《闇》の《元素》も受け継ぎ、今は幻神と闇神を兼任している。

 また、《幻》と《闇》は共に天帝ポルトリテシモの《天》や先帝光神プロトリシカの《光》と対立する《元素》でユリスラは邪神と定められていた。

「闇神よ、此度は自らが来たのか。お前の忠実な下僕達はいつも侍神の雛達を貶め、我が治世を脅かそうとするな。神ではない侍神ならさぞや誘惑し易かろうが、斯様なままごとに与するは下賎な魔族か低位の邪神ぐらいだと思っていたぞ」

「私も初めはここに来るつもりはなかった。お前に会うつもりもな。しかし――」

 闇神は腕を組み壁に凭れ掛かった。

「あの女がいる」

「あの女? ……ペレナイカのことか? まあ、彼女が火界から出てくるのは珍しいかな。今期の侍神選定の目玉さ」

 火神ペレナイカは天帝に並ぶ上位神だ。普段は「火界」という《火》の《元素》が形成した世界に住んでいるが、現在は辞任した侍神の後任を求めて天界に滞在していた。

 だが、闇神は頭を振って否定した。

「違う。私が言っているのは――」

 その名に天帝は沈黙した。静謐な空間に相応しい静けさが戻ってくる。

 拳をぎりりっと握り締める音が乾いて響いた。

「――どうして……」

「知らない」

「貴様も奴と同じ邪神であるというのにか?」

「一緒にするな。『邪神』なぞという括りは天界側が勝手に決めたことだろう。彼女は異質だ。私が所在を知り得たのも、〈星読〉の種族――黒天人族が教えてくれたからさ。彼の女神と浅からぬ因縁を持つ者達。ずっと探っていたのだろうよ。執念だな」

「私の所には、報告は上がっていない!」

「未だにあれと関係を持っているのではないかと、疑われたくはなかったのだろう」

「後で発覚して、疑いの増す方が尚のこと悪いではないか」

 天帝は舌打ちした。

(この男にしては抑え気味だな。気掛かりなことだ)

 闇神は胸の内でそう呟いた。

《天》の顕現たるポルトリテシモは移ろい易い空模様の様にくるくると表情を変える、そんな男だった。

 そう、昔は――。

「侍神候補の中にも黒天人族がいるようだな」

 天帝に問われて視線を向ける。

「ああ、確か第三王女だった筈だ」

「ほう、よく知っているな。護ってくれと泣き付かれたか? 夜空の闇に集う彼等は随分とお前を慕っているようだ」

「……私の口からそれを言えと?」

「そうだな。言えぬであろう」

 天帝の言葉を肯定すれば黒天人族は邪神に与した罰を受け天界を追われることになるだろう。

 情深く聡明な闇神はそれを良しとはしなかった。

「彼らを処罰するのか?」

「自覚あってのことではあるまい」

「自覚がなければ何をしてもいいのか?」

「そういう訳では……って、お前が言うか。それに下手な手を打てば、返って奴の術中に嵌りかねない。口惜しいが黒天人族の動向に関しては、現段階ではお前に頼るより他はないよ」

「そうか」

 拍子抜けする程、すんなりと怒りを納めた天帝を見て、闇神は遣り切れない思いで目を閉じた。

 いつからだろうか。彼の言葉が自虐の色を孕むようになったのは。

 遥かな昔――まだ二人が周囲の目を盗み、深い友情を結んでいたあの頃、彼はもっと傲慢なほど自信に満ち溢れて光り輝いていたのに。

「ポルトリテシモ」

 名を呼ばれ、天帝は驚いたようにゆっくりと顔を上げる。

 久しく耳にしなかった、天帝でも天神でもない呼び方だった。その響きと暖かい声音に驚く程、心が騒ぐ。

 優しい旧友は静かに、歌うように語り掛けた。

「お前は無能な王ではないよ。だから、そんな風に自分を追い詰めるな」

「ユリスラ……」

 実に自然に相手の名も紡がれる。こちらも長らく口にしてはいない。

 闇神は天帝の口からその名を聞くと、柔らかく微笑んだ。



   ◇◇◇



「そう、シーア姫がそのようなことを……」

 長い白髭を蓄えた老人は考えごとをするように俯いた。

 シーアは天宮の要人というこの老人が護衛の武官達を引き連れて遣って来たのを確認すると、早々に医務室を去っていった。

 取り残されたアミュは彼等から軽い事情聴取のようなものを受けた。

「その、これから私はどうなってしまうのでしょうか? もう、家に帰れないとか。その、もう死んでしまってるとか……」

 人は死ねば天の国に行くのだと村の神官は語っていた。ならば、アミュは既に死んでいるということなのだろう。

 しかし、老人は髭をふわりと揺らして笑った。

「いいえ。貴女はまだ生きていますよ。ただ、元の世界に帰してもらえるかは、私にもちょっと分かりません。シーア姫は貴女が侍神候補者に選ばれたのだと仰ったそうですね」

「はい。あの、『じしん』って何でしょうか?」

「ああ、そうですな。地上人は知らないでしょう。侍神とは神々をお側で支える副官。秘書のようなものと思ってもらえれば良い。候補者は必ず神族以外の種族から選定されますが、侍神となれば神族に次ぐ地位と神力を授かります。そろそろ天界に候補者を集め終わり、選定が開始されるというところなのですよ」

「それは、天人様になるということですか?」

 老人は少し悲しそうに溜息を吐いた。

「いいえ、それは全く違います。天人族とは天帝ポルトリテシモ神にお仕えする人族の総称です。私やシーア姫もそう。ですが、我々はただ天界に住むだけの人間であって、侍神ではありません。侍神は一柱の神にたった一人の特別なお相手。眷族は侍神よりも遥か足元にいるだけの存在に過ぎないのですから」

「……」

(――まったく理解できない。)

 困惑の表情を浮かべる少女に老人は苦笑した。

 純朴で繊細なだけの子供だ。侍神の大役を務めるには何とも心もとない。

 それでも、このアミュという娘はただの「侍神候補者」ではなく、恐らくは「侍神内定者」なのだろうと老人は考えていた。

「心配はいりません。シーア姫の言葉通りに貴女が真実、侍神となる為に天界に招かれたのなら、その知識と能力は徐々に身に付いてゆくことでしょう」

 近年では天界が「資格あり」と認定した候補者を定期的に集めて必要な教育を施し、その中から更に各々の神がこの者はと思う一人を任命する方法が主流となっているが、侍神制度が施行された初期の頃のように、天界を介さず神が直接侍神を選定するという例も未だに存在している。

 分析が終了していない為、誰の仕業かはまだ不明のままだが、残留していた神気から見てもアミュを天界に送りつけてきた者はおそらく神族だろう。そして、この時期に神族が侍神選定とは無関係な人間やただの候補者を送りつけてくる理由が思いつかない。

 だが、内定者なら理解できる。

 アミュを選定したその神は無力な地上人の少女に他の候補者と同等の地位と知名度、教育を与えてやりたかったのだ。或いは、単純に天界の承認が欲しかっただけなのかもしれない。

「あの、私はこれから……」

「そのご判断は天帝がなさろうかと。しかし、それまではこの部屋に拘束されてもらうことになります。先程、侍神候補者と申し上げましたが、それはあくまで現状からの推測に過ぎません。詳細が判明するまで、申し訳ありませんが、貴女の立場はまだ『侵入者』なのです」

「……」

 それを聞いたアミュは青褪めた。元々、小刻みに震えていた身体をがたがたと大きく揺さ振る。

「分かっていますよ。侍神候補者であろうとなかろうと、貴女の意思で天界に来たのではないのだということはね。ですから、天帝も無体なご処置はなさらぬでしょう。安心してお待ち下さい」

 それでも、アミュは安心などできる筈がない。

 暗い表情で俯いた、その時だった。

「リシャ爺様、入っても良い?」

 扉を少し開いてひょっこり頭だけを出したのは、煙るような金の巻き毛に花飾りを結わえた、目が痛くなる程の眩しい美少女であった。

「メリル様! こちらは関係者以外立ち入り禁止ですぞ」

 老人は先程までとは打って変わって、きつい調子で叱り付けた。

 金髪の少女もむっとして答える。

「まあ、私は白天人族の王女よ。この天界に私が入ってはいけない場所などがあって良い筈がないわ。ところで、こちらに新しい侍神候補者の方がいらっしゃるのですって?」

「どこでそれを……」

「部屋の外はその噂で持ちきりよ。まあ、やっぱり居るのね」

 荒々しく溜息を吐いて、リシャ老人は背後の武官を睨んだ。武官達は気まずそうに視線を逸らす。

 メリルと呼ばれた少女は構わず、アミュの寝台の前へ進み出た。

「随分と遅れて来られたのね。何か問題でもありましたの? ああ、お身体の調子が悪くていらっしゃるのね。可哀想に」

「……あの……」

「ああ、こういう場合はまず自分から名乗るのが礼儀ね」

 黄金の少女は胸の前でぱんっと手を合わせて華やかに微笑んだ。

「私はメリル・カンディアーナ。天帝ポルトリテシモの下僕にして日神カンディア様にお仕えする白天人族の第六王女です。そして、貴女と同じく侍神候補者の一人でもあります」

「侍神……白、天人?」

 確か、シーアは黒天人と名乗っていた。

 黒と白――対立する色。仲が悪そうだ。雰囲気もまるで違う。

 シーアはしっとりと落ち着いた大人であったが、このメリルはとにかく元気で明るい印象を受ける。まるで、夜と昼がそのまま形になって現れたようだ。

 突然の出来事で戸惑うアミュに、初対面のメリルは可愛らしく首を傾げた。花飾りから垂れ下がる翠と紅の宝石が擦れてしゃらっと鳴った。

「貴女のお名前は?」

「――私は……」

 言い淀むも急かされて、仕方がなく答えた。

「アミュです。その、地上人? ……です」

「『地上』……」

 最後の一言に小さく反応した、ように見えた。

 しかし、メリルはすぐに元の曇り一つない華やかな笑顔に戻った。

「凄いのね!」

「……すごい?」

 呆気に取られてアミュは反芻する。「すごい」――なんて、自分とは無縁な言葉だろう。

「ええ! 地上人から候補者に選ばれるなんて滅多にないことよ。だから、貴女はきっと凄い人なのね!」

「……」

 照れるように目を泳がせるアミュの顔にほんのり赤みが差した。

 それを見たメリルは微かに顔を強張らせたが、その表情も間を置かずして消え去った。

「そうだ、アミュ。身体の調子が良くなったら、一緒に神宴に参加しましょうよ。明後日から数日間、沢山の神々がお越しになる大きな宴が催されるの。侍神候補者のお披露目会の意味もあるのよ。どうかしら?」

「え? あの……」

「姫様!」

「もう、リシャ爺様は文句ばっかり。聞き飽きたわ。ねえ、行くわよね。私、貴女ともっとお話したいわ。それに地上から来たばかりで、まだ分からないことも多いでしょう? 私に教えられることも多いと思うの」

 判断に困ったアミュはリシャを見た。

 一拍置いて、リシャは諦めたように溜息を吐く。

「天帝には奏上申し上げておきましょう。貴女を天界へ送り込んでおきながら、未だに名乗り出ることもされない不誠実な神も、もしかしたら参加なさっているやもしれませぬ。ただ、許可が下りてもメリル姫とは同行できないと思って下さい」

「はあ……」

 アミュは残念そうに頷いた。

 本当はきっぱり「駄目だ」と断ってほしかった。これ以上、怖いことには関わり合いになりたくなかったのに。

「まあ、一緒にいられないの? 残念。それではお誘いした意味がないわ。でも、神宴には来てね。天界でも珍しい大神宴だから、きっと元気になるわ」

 春の嵐のようなメリルは花も綻ぶような笑顔で、可憐に手を振って去っていった。

 部屋には静寂とリシャの深い溜息が残った。

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