02. 異邦人

 眩い程の純白世界に白雲の花園が広がっている。

 詳細な種類は様々あるが、これらは皆「雲花」と呼ばれる植物である。茎も葉も花も、一様に漂白したような白色で、これらが群生すると天界の大地――「雲」となる。

 そんな一面雲しかない場所で長い黒髪の女が一人、所在無さげに散策をしていた。

 彼女――シーアは星を読むことに長けた夜の天女だ。

 常時ならばこの時間には床についているのだが、今はある事情で昼型の生活に変更せざるを得なくなっていた。この肌に突き刺さるほどの陽光はいつまで経っても慣れそうにない。

 溜息を一つ吐いた後、シーアは懐から手巾を取り出した。

 手巾には風精の鱗粉を溶かした特殊な薬品を染み込ませている。摘んでしまえばすぐに萎れて霞のように消えてしまう雲花も、これで包むと他の草花と同じくらいには長持ちするのだ。

「あら」

 重い体をのっそりと動かしてしゃがんだシーアは、雲花の間から朱色の細い蔓枝が数本飛び出しているのを見つけた。

 純白の紙に浮かぶ染みのように、存在を主張しているその植物は「金柘榴」だった。冥界、闇界と地界の一地域に生息する果樹で天界には生えない筈のものだ。

(あちら側の神のどなたかがいらっしゃったのかしら?)

 天界では数日後に天界内外の神族を招いた大きな宴があった。

 そして、この金柘榴には微かに神気が含まれている。神宴のために訪問した神が道として使用したのかもしれない。

「使い終わったのなら、きちんと処分していって頂きたいものだわ」

 これだから神族という種族は――と胸の内だけで不満を漏らしながら、シーアは金柘榴の周りの雲花を綺麗に掻き分けて小さな穴を作り、中を覗き込む。

 すると、穴の中から微かに呻き声のようなものが聞こえた。

 雲花の大地の少し下には霞がかかっていて、天人族の優れた視力でも姿を確認することができない。しかし、生命らしき気配はかろうじて感じられた。

 ただならぬ気配だ。とても禍々しい。

 嘗て、どこかで見知ったような――?

 しかし、はっと相手の置かれている状況に気付き、疑念はすぐに霧散してしまった。

 シーアは慌てて雲花に指で文字を書く。雲花の群生は見る見るうちに姿を変え、太鼓橋の連なりとなって宙へ降りていった。

〈雲橋〉を息急き切らして駆け降り、数分行った先には予想通り人らしきものが金柘榴の太い幹にしがみ付いていた。

 欄干から身を乗り出してシーアはその身体を抱えた。相手を引き寄せれば、木に張り付いた蝉のようにあっさりと幹から剥がれて体重を預けてきた。

 二人はそのまま〈雲橋〉へ倒れ込んだ。

 相手はそこで意識を失ったようだった。

 金柘榴の樹は〈雲橋〉よりも遥か下方から伸びていた。この人物は何の術も使わずに大樹を登ってきたようだ。最早、限界だったのかもしれない。

 改めてシーアは相手を見た。

 金と朱を混ぜたような赤銅色の髪、上気してほんのりと桃色に染まった白い肌。何の変哲もない地上人の少女だった。十三歳前後だろうか。地域にもよるが、地上界ではだいたい成人の年頃だ。

 雲花の庭園から見たような異様な気配は感じられない。

 少し迷ったが、奇妙な出来事の理由には思い当たる節があったので、シーアは人を呼び少女を天上へ連れ帰ることにした。



   ◇◇◇



(ようこそ、アミュ。愛しい私の娘にして、もう一人の私)

 全ての《元素》が混ざり合った渦の中で、それは微笑んだ。

 世界は無数の《元素》によって構成されている。有機物、無機物、精神――神さえも《元素》が複雑に絡み合って《顕現》したものなのだ。だから、ここには文字通り全てが存在していた。

(ようこそアミュ。世界を縛る業、その《顕現》たる地へ。ずっと貴女を待っていた。ずっと、ずっとよ)

 あらゆる《元素》はその渦の中心で一つの瘤に集約されていく。

(そう、本当の貴女の始まりはこれから)

 瘤はやがて盛り上がり、人の形を成した。

(――そして、本当の苦しみもこれから)

 彼女は妖しく哄笑した。



   ◇◇◇



 少女はかっと目を見開き覚醒した。

 夢を見ていたようだ。何の夢かはまた思い出せない。

 滑らかで心地良い寝床の上で横たわったまま、おもむろに首を傾けると、そこには見知らぬ女が座っていた。

 女は射るような視線を浴びせかけてくる。少女はその黒曜石の瞳の余りの美しさに目を逸らせなくなった。

 瞳だけではない。女は全てが美しかった。

 濡れたように輝く長い黒髪には所々夜空の綺羅星のように光る水晶の粒を飾り、肌は花嫁の纏う純白の絹よりも透き通っていた。背は女性にしては長身であったが、それが返って彼女のすっきりとした美貌を引き立てている。

 清冽で圧倒的な美しさ。それは少女の知る人間の美しさではなかった。

「女神様……?」

 生まれて初めて畏怖という感情を知った。

 じっと眺めていると薄く形の良い唇が漸く開いた。

「その起き方、怖いわよ」

「え?」

 少女は少し戸惑った顔をした。

 美貌の女――シーアは長椅子に腰掛けたまま無表情に尋ねた。

「貴女は地上から来た子?」

「地上……?」

「ここは天界よ。そして、私は天人族のシーア。貴女は誰? 地上界――地面の上に住んでいた子?」

「天……あ!」

 少女は漸く理解した。女はやはり人間ではなかったらしい。

「はい。私は人間の……アミュと言います」

 シーアは目を瞬かせた後、遠くを眺めるような表情を作った。

「人間」――地上人は己が種族のみをそのように呼ぶが、正確にはシーア達「天人族」も地上や天界以外の「人族」も、全て「人間」に分類される生物だ。

 地上人とは人族の中でもっとも無知無能で強欲な種とされていた。それ故、天界にも地界にも受け入れて貰えず、両者の狭間である地上に生きることを余儀なくされている。他界の生物も皆彼らを避けて通る。死ねば辛うじて冥界には入れてもらえるが、そこですら余り歓迎はされていない。

 だが、地上人はその事実を知らない。アミュもまた無邪気に未知との遭遇を喜んでいる様子だった。

「貴女、自分がどうしてここへ来たのか覚えてる?」

「声が聞こえたんです。どこからか名前を呼ばれて、気になって声のする方に歩いていって、それで気が付いたらここで寝ていて……」

「つまり、どうやって天界に来たのか、記憶がないということ?」

「はい」

「……」

 シーアは唸る。

 柄にもなく人助けをして、思わぬ厄介事を抱え込んでしまったのかもしれない。今更手遅れだが、このアミュという少女を天界に招き入れて良かったのだろうか。

「あの……女神様?」

 沈黙に耐え切れなかったアミュから声をかけられる。あれこれと思案している間に随分時間が経ったようだ。

 続いて「ああ」とシーアも口を開いた。

「神ではないわ。シーア・ヌッツィーリナ。『シーア』と呼びなさい。天帝ポルトリテシモの忠実なる下僕にして、月神メーリリアと夜神ヌートレイナにお仕えする、夜闇と星暦を司りし黒天人族の第三王女よ。私も貴女と同じ使命を負ってここに居るの。多分ね」

「同じ? 巡礼者なのですか?」

「巡礼?」

「はい。成人の歳を迎えた子は、聖都へ巡礼の旅に出るしきたりなのです。天の国でも巡礼があるのですか?」

「ああ、そういうこと。申し訳ないけれど、そういう意味での仲間じゃないわ。でも、そう……。貴女にはまだ地上でやることがあるのね。」

「……?」

 アミュは怪訝な表情をした。無理もない。

「『侍神』――神の傍らに仕え、神を補佐する役目。副官。神に次ぐ位の脇侍の神。どういう訳だか、貴女は資質を買われて、その候補の一人に選ばれたのよ」

 そうと説明しても、理解は出来なかっただろう。

 しかし、異様な気配だけは察してアミュは目を見開いた。

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