04. 神宴

 天女達との出会いから二日後、予定通り神宴は執り行われた。

 アミュは比較的人の少ない場所に座っていた。

 傍らには雷精――雷の精霊と紹介された獅子に似た獣が控えている。アミュの監視と護衛の為だ。

「疲れちゃった……」

 人ごみに酔ったと言った方が正しいだろう。田舎の山村に育った少女はこれだけの生物の群れを見るのは初めてだった。

 宴は天宮と城下街全体という広大な範囲を会場としており、その規模から察しても「侍神選定」がいかに天界にとって重要な行事であるかが窺えた。

 辺りを見渡せば、侍神候補者らしき若者が獣の姿をした神に自らを売り込んでいる。その目はぎらぎらと恐ろしげな光を放っていた。

「皆、『侍神』ってのになりたいんだね」

 あの美しいシーアやメリルもそうなのだろうか。アミュにはあの二人が眼前の若者のように獰猛な目をして地位を渇望する姿を想像できなかった。

 雷精はアミュの憂いを悟ったかのように頬擦りし、優しく顔を舐める。

「慰めてくれてるの? 有難う」

 アミュは苦笑して雷精の頭を撫でた。つやつやの毛並みが心地良かった。

 そんな一人と一匹の前を、背中に虫の翅を持ち下半身は蠍という異形の男性が、子蠍の群れを従えて眼前を横切っていく。

「あの人も神様なのかな?」

 雷精に聞けば大きく頷いて答えた。

(本当に別世界だ……)

 深々と溜息を吐くアミュを異形の神に取り残された子蠍の一匹が奇妙そうに見つめていた。

「どうしたの?」

 聞き覚えのある声がした。

 突然の来訪者に驚いた子蠍は急いで、かさかさと仲間の許へ逃げていった。



   ◇◇◇



「おや、斯様な所に謀叛人の黒天人族がおるわ。何をしに来たのかの? 闇神の侍神にでもなるのかや? それとも冥神の? ……ああ、彼の女神か。そなたらに縁の深い神であられるからのう」

 言われた一群はむっとして声のする方を見た。

 手首の金の装身具をしゃなりと鳴らせ、燃えるような赤髪を掻き揚げたのは、火人族の女王ヴリエ・ペレナディアであった。

 火人族は火神ペレナイカを主神と仰ぐ、《火》の世界――火界の人族である。彼等も天人族と同じく複数の小種族に分かれているが、天人族のように個々に国を形成してはいない。全ての種族をヴリエ女王一人が取り纏めていた。

「これはヴリエ殿、お久しぶりです。今日は火神様に同行していらっしゃったのですか?」

 黒天人族の王グエン・ダイル・ヌッツィーリナは表面上、礼をとった。

 安い挑発に乗らないという態度にヴリエは舌打ちする。彼の態度にはヴリエに対する侮りが透けて見えた。

「まあ、それもあるがの。此度の侍神選定は我が火人族から常の三倍ほど候補者が出ておるのでなあ。挨拶回り、根回しよ。そなたらも似たようなものであろうが」

 鋭い赤眼がシーアを捕らえる。余りに不躾な視線だったので、思わずシーアも睨み返す。

 ヴリエは哄笑した。

「ほほほ、此度は分が悪かろうて。何せ此度ご参加の神族のうち、最高位神であらせられる火神様は我等が主神じゃ。火人族の候補者がお仕えするのが筋というものよ」

 しかし、今迄筋通りにならなかったではないか――と哄笑を聞きながら黒天人達は思ったが、決してそんな大人気ない反論はしなかった。

 ヴリエも必死なのだ。火神は火人族や火精達の奉仕を煙たがっている。彼等への反発故か、火神は自らの侍神に《火》の種族を据えないことも多くあった。前回は氷精が火侍に選ばれた。火と氷、やはり相性が悪かったらしく彼は直に職を辞したが、主神の傍らを他の種族に奪われたことは火人族達の誇りを大きく傷付けたらしい。

 だからこそ今回の侍神選定では、命に代えてもその地位を獲りに来ているに違いなかった。

(付き合い切れないわ)

 シーアは父グエン王と視線を交わすと、至極平静な声で語り始めた。

「初めから火人族の方々と争ってまで火神様にお仕えするつもりはありません。我等は夜闇の一族です。あの御方の炎は私の身体には毒ですので。牽制ならば私より、白天人族になさった方が宜しいでしょう。彼等は光と太陽の一族。太陽の焔は《火》にも通じています。間違いなくその地位を狙っているでしょうね」

 ヴリエは苦笑する。

「白天人族か。ふふ、無理じゃろうなあ。先程、候補者を見てきたが……」

「何故ですか?」

「見れば分かる。ほら、丁度あそこに」

 長い緋色の爪でヴリエが示した先には、二人の少女が腕を組んで談笑し、その周囲を獅子に似た雷精が心配そうにぐるぐると纏わり付いているのが見えた。

 幼い方の少女は笑顔がやや引き攣っているようだ。

「アミュ?」

 シーアはその少女の名を呟いた。顔からは戸惑いの色が隠せない。

「『あみゅ』? 何じゃそれは?」

「あれは白天人族の第六王女。確か、メリル・カンディアーナと言いましたかな。まさか、彼女が候補者と?」

 ヴリエの問いを聞き流し、グエンがそう尋ねる。

「まあ、そのようじゃが……『あみゅ』とは何じゃ?」

 逆にヴリエもグエンへは適当な言葉を返し、シーアの方へ目を向けた。

 少し困ったようにシーアは答える。

「いえ、メリル王女と一緒にいる少女が顔見知りだったものですから」

「地上人に見えるが?」

 アミュに意識を向けたヴリエは驚いたような顔をしてみせた。

「ええ、地上人ですわ。『アミュ』は名前です。彼女も侍神候補者のようですよ」

「……ほう、珍しいことじゃの」

 緋色の瞳が鈍く輝いた。

「地上人は愚かな種族なれど、《火》との結び付きは深く、その慧眼だけは賞賛に値する。同じく火神様の御加護を賜りし同胞として、我が君にとまでは言わぬが、良き神と縁を結んでもらいたいと願うばかりじゃの」

 シーアとグエンは思わず顔を見合わせた。

 傲慢で自意識が強いと評判のヴリエが地上人の姿に眉を顰めないばかりか、彼等を称賛するとは。

「それでは我等はそろそろ退散しようかの。折角の晴れの日に、いつまでも天界にぶんぶんたかる羽虫如き其の方等を相手にしてもおれん。下らぬわ」

(だったら、初めから近寄って来るなよ)

 黒天人族一同は心の中で一斉に叫んだが、決して表には出さず、静かに微笑んで別れの挨拶をした。

 そんな慎ましやかな姿を鼻で笑い飛ばし、ヴリエは取り巻きの火人族達と共に颯爽と立ち去っていった。恐らくはまた他の種族にも嫌味を振り撒きに行くのだろう。

 一行を見送るとシーアは再び二人の少女の方を見つめた。



   ◇◇◇



「あちらが風神アエタ様にお仕えする風人族の王族方、そちらは木界の双子林檎の園を護る木精達よ」

 メリルは得意気に説明してくれたが、アミュにはその内容がさっぱり分からなかった。「もくかい」「ふたごりんご」って何だろう。風人族というのはさっき言っていた風精とは違うのだろうか。

 疑問は尽きないが捲し立てるように話すので、聞ける雰囲気ではない。

 アミュはげんなりと肩を落とした。

「どうしたの? 疲れちゃった?」

 衣擦れの音が耳障りに響く。

 気が付けば、メリルの金眼が心配そうに自分を覗き込んでいた。日神の眷族は目の色も太陽なのだなとぼんやり見惚れていると、相手は訝しげな表情で黙り込んでしまう。

 流石にこれでは失礼だと気付いて、無理にでも笑顔を作ってみせたが、失敗に終わったようだった。

「駄目よ。疲れてる時はちゃんと疲れてるって言わなきゃ。ただでさえ、貴女達地上人は他の種族よりも身体が弱くできてるんだから」

「そう……なんですか?」

 絞り出した声は自分でも驚くほど掠れている。

 メリルは眉を顰めた。

 しかし、再びアミュを窘めようと開かれた口が言葉を紡がず静止した。

 メリルは遠くを見るように視線を上げた。その姿は獲物を狙う獣のようであった。

「アミュ」

 腰を浮かせたメリルには表情がない。

「ここで待っていて頂戴。どこかちゃんと休める場所を探してくるわね」

 そう言ってメリルは未開の地にアミュを一人置き捨て、人ごみの中に消えてしまった。

 雷精は不満げに唸ったが、アミュからは逆に安堵の息が漏れた。

「あ……ほっとしたなんて失礼だよね」

「そうでもないんじゃない」

 聞き覚えのある声だった。

 弱々しく振り向くと、予想通りの人物が立っている。

 黒天人族の王女シーアだ。厳しい表情で腕を組み、メリルの去った方向をじっと睨んでいた。

 夜闇色の衣でその身を簡素に飾り、漆黒の長髪を高く纏め上げた夜の天女は、依然見た時よりも更に美しかった。

「女神様……」

「違う。天人」

 唐突にシーアは持っていた飲み物を差し出した。

「蜂蜜と五種の薬草が入っているわ。疲労に効くのよ。飲みなさい」

「有難うございます……」

 言われるままに口を付けて固まる。

 無色透明の切子硝子の杯に入ったそれは、綺麗な琥珀色の中に氷と泡の粒が宝石のように煌めいて夢のように美味しそうに見えたが、実際に口にしてみればこの世のものとも思えない過酷な味と臭いだった。

「刺激的な味だけど我慢なさい。良薬口に苦し。吐くんじゃないわよ」

「あ、りがとう、ございま……」

 それ以上言葉が続かない。

 シーアは「やれやれ」と溜息を吐き、再びメリルの去った方向を見る。

「ここで待っていても、あの子はもう帰ってこないかもしれないわよ。他に用件ができたようだったから」

「え?」

「狙ってる神がいるようね。その神がいらっしゃったから、一目散に飛んでいったのよ。でも、難しいでしょうね。特にあの御方は……」

 メリル・カンディアーナ。戦闘能力だけが取り得の白天人族の中でも、とりわけ「虚け」と評判の娘だ。選民意識の強い種族の王女が、一体どういう目的で忌避すべき地上人に近付いてきたのやら。

 火神や火人族ともきっと揉め事を起こすに違いない。

 人ごみの向こう、メリルの向かった先からは目もくらむような《火》の神気が感じられた。



   ◇◇◇



「ううむ」

 日神カンディアと月神メーリリアは険悪な面持ちで唸る。

「おお、息ぴったり」

 眼下に横たわる酔っ払いは火神ペレナイカである。

「もう、行っても良いかしら」

「私達は貴女に用はないかしら」

「独り身に用はないかしら」

「捨てられたのは自業自得かしら」

「ひっどおい! 美形の侍神持ってるからって、失恋して傷心の女をいびるなんて、最低だわ! 恥ずかしいとは思わないの?」

 二柱の女神は嘲笑した。

「最低なのはあんたよ。どうして、氷精を侍神にしたりしたの。溶けるじゃないの。可哀想じゃない」

「恋よ、恋! 好きになったからに決まってるでしょ。特にあの氷精特有の冷淡さが堪らないのよ。ああ、愛しい私のスティンリア。流し目だけで凍りそう」

「凍るものか」

 噂では、火神が周囲の忠告も本人の意思も全く無視して無理矢理侍神にした氷精スティンリアは、就任以前から彼女のことをこの上なく不愉快に思っていたらしい。

 結局、連日続く火神の猛烈な求愛行動に耐えかねて、「暑苦しい女は好みではありません」と捨て台詞を残して、どこかへ消え去ってしまったという。

「今度こそ運命の相手を見つけるのよおおおお」

 そうして、酔っ払いは大声を上げて泣き出し、脇に抱えた酒樽を水を飲むように呷り始めた。

 呑めば呑むほど彼女の全身から赤金の焔気が溢れ出し、近くの布や木に引火して小火を起こす。神官の火人達は懸命の消火作業に当たっていった。いい迷惑だ。

「だから、何故泣く。何故呑む」

「暑苦しい……。今度こそちゃんと相性の良い子を選びなさいよ。沢山いるでしょ。火人族に白天人族、風人族……」

 月神は細く白い指を折った。

「火精、光精、風精。後は……」

「火人族だけでございますよ、火神様の侍神に相応しいのは」

 しゃらっと音を立てて、一人の火人が進み出る。

「ヴリエ……」

 火神がさも嫌そうに呻いた。

「御耳に入れたきことが……」

 火人族の女王ヴリエは火神に耳打ちする。すると、火神は酔いが醒めたように真面目な顔になった。

「どうしたの? 良い男でも見つかった?」

「あら。良かったわねえ、ペレナイカ。問題解決」

「帰れ、帰れ」

 聞き咎めたヴリエは改めて強調する。

「火人族だけでございます。今回も火神様好みの聡明で美しい男子をちゃんと見繕っておりますよ」

「あら。良かったわねえ、ペレナイカ。問題解決」

「帰れ、帰れ」

「うーん……」

 年月を経る毎に大儀と信仰心の名の下に束縛を強めていく火人族を火神は良く思ってはいなかった。

 火人族が更に欲心と影響力を拡大させ、神としての意志や行動までもが制限されてしまうことは避けたい。だからこそ、何としても侍神には火人族以外の種族を据えたかった。

 もっとも本音を言えば侍神位のみならず、彼等を完全に自分の周囲から排除したかった。

 神の副官たる侍神。更には侍神と共に神を助け、時に神の暴走を抑制する人族を配置した体制。先帝の時代には存在しなかった神族の管理制度だ。特に高位神に対して強権的な天帝の施政方針が如実に現れている。

 この法、或いは天帝さえいなければ、迷わず火人族どもを焼き滅ぼしてやるものを。

 殺意のこもった目で火神がヴリエの背中を睨んだ。その時だった。

「適任者が火人族だけとは余りに横暴な仰り様ではありませんこと?」

 かつかつと貴石の擦れる軽い音と、鈴を転がすような少女の声が響いた。

「なんじゃと」

 憤慨した様子でヴリエは振り向いた。

「恋人なら侍神以外でお作りになれば良いこと。それに、傲慢で暑苦しい火人族以外にも《火》と相性が良く優秀な種族は幾らでもいます。私もその一人ですが……」

 おもねるような微笑を湛えて、不遜な少女は礼をとる。

「火神ペレナイカ様。天帝と日神カンディア様にお仕えする白天人族の第六王女メリル・カンディアーナですわ。以後お見知りおきを」

 火神は愛らしい美少女の仮面の内にある本性を瞬時に見抜き、嫌悪感を顕にした。

 そして、日神を睨み付ける。

 日神は顔を逸らし、ひらひらと手を振っている。どうやら白天人族の神である日神にとっても余り好感の持てる人物ではないようだ。

「私は自分の大切な人にこそ、侍神に――私の一番近くにいて欲しいのよ。だから、あんたじゃ無理。私は異性しか愛さないから」

 恐らく男であったとしても無理だったろう。言い様も気に入らない。

 候補者のメリルにとっては侍神位の方が重要かもしれないが、自分からすれば愛し合える人を見付けることこそが何より大切だ。それはあらゆる物質を融解、合成する《火》の神の本質の一つでもある。それを理解しているからこそ、皆も渋々ではあるが火神の我儘とも取れる主張を認めてくれているのだ。

(だが、この娘は――)

《元素》の特質と意義を十分に理解せず、地位や名誉ばかりに目が眩んでそれをぞんざいにあしらうとは――。

 この浅はかな天人族の娘は、一体どういう手違いで候補者に選出されたのだろう。

「何故ですか? 私は高位神の侍神に相応しいだけの血統と能力を持っている筈です!」

 火神の苛立ちに気付かないメリルは、納得が行かず食い下がった。



   ◇◇◇



「ああ、他は中位神以下ばっかりだなあ。やはり、今回はペレナイカが唯一の高位神になるよ。天帝も侍神は空席の筈だけど、まあないよな……。あの方だけは侍神を側に置く義務も意味もないし。後は邪神連中か。もっとないなあ……。あ、俺が拾ってやろうか? 中位神だけど」

「……自分と相性の良い神を気長に探しますわ」

「えー、残念。美人さんの侍神に来てもらって、皆に自慢しようと思ったのに」

 娘二人に挟まれて軽快に笑うのは、砂神ブレスリトだ。

 天界にいる地上人を珍しがって近寄ってきたのだが、アミュとシーアが侍神候補者と知ると、快く神々への紹介役を申し出てくれた。

「あ、いた。ペレナイカ。……ん? うわあ、えらい怒っとるな。今は行かないほうが良いかも」

「月神様と日神様もいらっしゃいますね」

 黄金の火焔が冥界を流れる川のように猛っている。熱気が強くて天人族のシーアでさえ燃えてしまいそうだ。行かないほうが良いというより、これ以上一歩も前進できそうになかった。

 シーアはある者の存在に気付き、眉を吊り上げた。

「メリル・カンディアーナ……。あの娘が何かやらかしたのね。アミュ、飛び出して行っちゃ駄目――」

 そう言って振り向いた瞬間、シーアは口を開いたまま二の句を次ぐことが出来なくなった。

「あ――……」

 すっかり失念していた。

 地上人の身体は脆い。天人族のシーアには耐えられる程度の熱量でも、地上人の身体には耐え切れないのだということを。

 華奢な肉体は炭のように黒く燃え上がり――。

 

 ――アミュは声もなく絶命していた。

 

 シーアは脱力して膝を付く。

 悲鳴やどよめきが、遥か遠くの方に聞こえた。

「嬢ちゃん!」

 砂神が慌てて〈砂嵐〉を起こし、消化しようとしたが、火神の起こした〈神炎〉はなかなか消えてはくれなかった。



   ◇◇◇



(――アルマカミュラ……)

 既にない筈の意識のどこかでアミュはその声を聞いた。

 死に逝く魂の底からごぼりと熱い澱が湧き出す。

 呼応するように、自分の中心――核の部分に静電気のようなものが走るのを感じた。

(――おかあさん)

 アミュは両手を広げ、暖かく懐かしいその声に答えた。



   ◇◇◇



 天宮にいる全ての者が異様な気配を感じて動きを止めた。

 今迄〈神炎〉を撒き散らし、怒り狂っていた火神までもが、ぽかんと大口を開けてこちらを凝視した。

 皆、不気味に横たわるその少女から目が離せなくなった。

 黒い炭と変じていた肉体は急速に生前の瑞々しさを取り戻し、焼けた衣までもが再生されていく。

「――アミュ……?」

 嫌な汗がシーアの胸を伝った。彼女はこの強大で禍々しい神気に覚えがあったからだ。

(あの子が金柘榴を登ってきた時……!)

 あの時の神気だ。すぐに消えてしまったけれど。

 しかし、シーアは頭を振った。否、違う。自分はもっと昔にこの神気を見ている。既に長い年月を生きた自分がまだ幼かった頃――。

 甘く蠱惑的な香りが広がり、心を持っていかれそうな柔らかな謳声が響く。少女の髪は長く伸びて波打ち、その色は徐々に変質していった。

 赤く青く、時には金色に光り輝く。暁と黄昏の――混沌たる時間と空間の色彩。

 人々は皆、神気の正体に気付き始めた。

 気温が一気に下がり、それに反してどっと全身が冷や汗で濡れる。

「渾神――……」

 ゆっくりと身体を起こした女神は嫣然と微笑み返した。

「渾神ヴァルガヴェリーテ……!」

 混在と不確定を司り、変革を齎す神。災いの神とも呼ばれる。

 そして、その女神は嘗て黒天人族を――王太子であった長兄を陥れ、堕天者に仕立て上げた種族の仇敵でもあった。

 突如、暖かい風がシーアの頬を優しく撫で、真っ白な羽衣が彼女の身体を包んで後ろに引き寄せた。倒れる身体を抱きとめたのは〈消幻術〉で姿を隠していた闇神ユリスラであった。

 驚く間もなく次の瞬間、火神の纏っていた〈神炎〉が黒い一筋の煙だけを残して消え去った。同時に地面が氷華の絨毯で覆われ、一人の美しい氷精が舞う。

「ああん、スティンリア!」

 蕩けるような声色で火神に名を呼ばれた氷精スティンリアは、物っ凄く嫌そうな顔をしてどこかへ飛び去ってしまった。

 捨て置かれた火神からは切ない悲鳴が漏れた。

 一方、闇神は左腕でシーアを抱えながら右手を女神に向かって突き出す。

 掌から黒い靄のような物が伸び、それが帯状に凝結して女神を包んだ。帯はやがて黒真珠のような真球へと形を変える。

「そこの白天人!」

 闇神が怒鳴りつける。

 頭を抱えて座り込み、がたがたと震えていたメリルは、邪神の王の剣幕にびくりと硬直した。

「何をしている! 早く〈封印〉しろ!」

 悪事を成す魔族や邪神を捕らえることは、天人族の職務の一つである。黒天人族は闇で眠らせ、白天人族は光で封じるのだ。

 戦闘用の〈術〉は地上人を除く全ての人族が持っていたが、白天人族に勝る者はいない。渾神は過去に一度〈封印〉されており、その偉業もやはり白天人族の王女が成したものだった。

 だが、メリルは怯えて首を横に振るばかりで全く動こうとはしなかった。

 それを見たヴリエ女王は舌打ちをして侍従に命じた。

「他の白天人を呼んできておくれ。我等がどうにかしたいのはやまやまだが、火人族の炎は闇神様の〈闇籠〉と相性が悪い。黒天人族では眠らすだけで収拾が――」

 その時だった。

「それには及ばぬ」

 身を切るような突風が起こり、ばたんと大きな音がした。

 風が収まると、人々を恐れさせた女神の姿も黒い球体も既になく、代わりに精巧な彫刻が施された扉が敷石のように床に埋まっていた。

 扉には巨大な錠前と鎖の拘束が施されている。

「おお……天帝」

「天帝御自ら〈封印〉を……」

 気だるげに歩を進め、天帝はちらりと闇神を見た。闇神の身体は汗で水を被った様になり、ぜいぜいと苦しそうに息を吐いている。

 先日再会した折には元気な様子だったので忘れていたが、最近臥せっていたとも聞く。最高位神の一柱でも、万全ではない状況で渾神を抑えることは難儀らしい。

 天帝は〈封印門〉に目を向けて低く唸った。

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