近くて遠い、その一歩

矢口愛留

近くて遠い、その一歩


「ねえ、ユキ。シェアハウスの内見しに来ない?」


 私は鞄を置いて椅子を引くと、隣の席に座っていたユキに、開口一番そう言った。

 私の通う大学の、これから講義のある教室。前から七列目の右端が、私の定位置だ。


「ナツミ、おはよ。シェアハウス……って?」

「おはよ。あのね、同じ大学の子たちで住んでるんだけど、一人留学決まって出てっちゃってね」

「ふうん。それで、なんで内見?」


 ユキは興味がなさそうだったが、律儀に話を続けてくれる。

 同性の私から見ても優しくて大人っぽくて人当たりの良い、本当に素敵な子だ。


「住民全員で家賃割り勘なんだよね。だから早めに入居者決まらないと困っちゃうってわけ」

「なるほど、それで勧誘して回ってるんだ」

「そ。声かけたのはまだユキ一人だけどね」


 家賃の問題ももちろんあるけれど、私にはユキを真っ先に誘った理由があった。

 私は内に秘めた願いを隠しながら、明るく笑い、ユキの顔を正面から覗き込む。


「あのさ、ユキなら安心してみんなに紹介できるし、ユキもそろそろ――」

「――ごめん、ナツミ。私、引っ越す気はないよ」

「……でも、さ」

「あの部屋は……ダメなの。出て行けない。大切なものが、全部詰まってるの」

「……ユキ……」


 ユキは二年以上もの間、同じ場所にひとり、取り残されている。


 ――スカイツリーが窓から見える、隅田川沿いのアパートの一室。

 そこは元々、ユキの恋人、ハルが住んでいた部屋だった。


 しかし、二年前の秋。

 ハルは、ユキを残して、亡くなってしまった。


 それから、ユキの時間は、止まってしまった。二人で過ごしたあの部屋で、思い出を抱えて。

 学校にも休まず通っているし、バイトもしている。一見普通の元気な女子大生だ。けれど、本当は……。


「もう、進んでもいいんじゃない? ハルさんも、そう望んでると思うよ?」

「……私が、望んでないの」

「でもさ、ユキ、一生懸命バイトしてるけど……バイト代のほとんどが家賃に消えてるでしょ?」

「うん。バイト先のまかないがあるから生活はなんとかなるし、他に欲しいものもないし」

「そんなの、もったいないよ。せっかくの大学生活なのに」


 私は、頑なな態度のユキを説得しようと、必死になる。縋り付くようにユキの袖を掴んだ私に、彼女は軽く目をみはった。


「ねえ、お願いだから内見だけでも行こう? 私、ユキが心配なんだよ」

「でも……」

「ユキ。お願い。人助けだと思って、さ」


 ユキは、あまりにも必死な私に、絆されたのだろうか。少し悩んだのち、小さく頷いた。


「……そこまで言うなら」

「やったーっ! ありがとー、ユキっ!」


 こうして私は、ユキをシェアハウスの内見に連れ出すことに、成功した。





 数日後。

 渋々、といった雰囲気を醸しながらも私についてきてくれたユキだったが、内見先の部屋に入った瞬間、彼女は表情を変えた。


「ねえ、あれ……」

「ん? なに?」

「あそこにちょっとだけ見えてるのって、隅田川?」

「うん、そだよ。夏はね、ここから花火大会も見えるんだ」

「隅田川の……花火」

「そう。シェアハウスのみんなでテラスに集まって、バーベキューをしながらビール飲むの。最っ高だよ! ……あれ、ユキ?」


 ユキの反応がないことを訝しんで、窓に映る彼女の顔を見る。

 ユキは――窓の外を眺めながら、静かに涙を流していた。


「……ごめんね、ナツミ。私、こんなつもり、じゃ」

「……ううん。私こそ、ごめん。まだ、そんなに……」

「自分でも、わかってるの。立ち止まってちゃ、いけないって。でも……もう、残っている物も、思い出も、ぜんぶ私ひとりだけのものになっちゃったんだって思うと……ダメなんだ。もう、何も、なくしたくないんだ」

「ユキ……」


 ユキの、ハルに対する想いはそんなに深かったんだ。

 私は、そんなユキに対して、「もう進んでもいい」とか、「もったいない」とか――何て軽率なことを言ってしまったんだと後悔した。


「……でも、決めた。ナツミ、私、ここに越してくるよ」

「え……?」

「あの部屋には、思い出がたくさんある。ペアのマグカップも、煙草の焦げが残ったテーブルも、ハルが生きていた証なの。でも……でもね」


 そこでユキは、言葉を詰まらせた。


「毎日、ハルの生きた証にふれて、ハルのことを考えているのに、それなのに……思い出が、少しずつ、薄れていくの。ハルの表情も、仕草も、声も……少しずつ、ぼやけていく」


 目元に当てたユキの袖口に、涙の染みがどんどん広がっていく。


「私ね、あの部屋を出たら、ハルが……もっと早く、私の中からいなくなっちゃうんじゃないかって思って。それが、とにかく怖くて。……でも」


 ユキは、小さく鼻をすすって、私の方を向いた。

 目元も鼻も真っ赤に染まり、眉もハの字になっている。


 けれど……その口元は、やんわりと、弧を描いていた。


「ナツミに内見を勧められた日にね、夢にハルが出てきてくれたの。それで、気づいたんだ……もう、私と彼は住む世界が違うんだって。もう、自由になってもいいんだって。……気づくの、遅すぎたよね。ナツミにもこんなに心配かけちゃって……」

「……ううん」

「だからね――」


 ユキは、震える息を、吸って吐いた。


「この部屋ぐらいが、ちょうどいいのかも。思い出の品物、全部は持って来られないけど、隅田川が見える。外に出れば、スカイツリーも見える。目に入る景色は違ってるけど、あの部屋からちゃんと繋がってる」


 ユキは、もう一度窓の外を見る。窓に映る彼女の目からは、もう涙はこぼれてこない。


「まだ、全部を捨てる勇気も、忘れ去るつもりもないけど、ここだったら……、少しずつ、変われるかもしれない。二年も経ってこのままじゃ、ハルだって心配しちゃうよね。ううん、ハルのことだから怒っちゃうかなあ?」

「ユキ……!」


 ユキは再びこちらを向いた。


「これからよろしくね、ナツミ」

「……うんっ!」


 そう言って笑うユキの目元は、まだ潤んで赤くなっていた。

 けど、きっと、ユキならいつか――。



 その時、開けっぱなしにしていた部屋の前を、一人の住人が通りがかった。

 通りがかりに部屋をチラリと覗き、足を止めた彼の目は、驚いたように見開かれている。


「あれ? ユキ姉ちゃん?」

「え?」

「あ、やっぱりユキ姉ちゃんだ! 久しぶり!」


 人懐こい笑みを浮かべる彼と向き合い、ユキは、二、三度まばたきをする。


「きみは――もしかして、アキトくん? わぁ、随分印象変わったね」

「うん、そう! 変わったでしょ? よく俺だってわかったね」


 自らの名を呼ぶユキに、アキトは、頬を染めて嬉しそうに笑う。

 ユキも、その笑顔を見て、どこか懐かしそうに微笑んだ。


「え、二人、知り合いだったの?」


 私が尋ねると、二人はぴったり同時に頷いたのだった。



 ――この内覧をきっかけに、一歩踏み出すことを決めた、ユキ。


 ここなら、ひとりじゃない。誰かがそばにいてくれる。


 寂しくても、悲しくても、辛くても。

 嬉しくても、楽しくても、幸せでも。


 彼女の時計が動き始める日も、きっとそう遠くない。

 アキトと話に花を咲かせているユキを見て、無理を言ってでも内覧に連れてきて良かったと、私はホッと胸を撫で下ろしたのだった。




 〈了〉

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