第5話

「お茶入れるから、どうぞ、座ってて。何茶がいい? 冷たいお茶もあるよ」


 彼はキッチンの戸棚を開けながら和やかな笑顔でそう言った。


「え、あ、じゃあ……冷たいお茶を……」


「うん、わかった」


 彼はにこっと笑うと、戸棚からグラスを出して冷たいお茶を注いで持って来てくれた。


 少し、頬が火照っていたから冷たいお茶は正直嬉しいなと思う。本当にこういう、なんてことない小さな気遣いにほっとする。あぁ、やっぱり私は、この人が好きだなぁと再確認してしまう。


「あ、あの……菊池さん……」


 だから、聞きたいことが溢れてきてしまって。彼が座るのを見届けると私から話しかけた。けれど、彼はその言葉を優しく遮った。


「ん。その前に。僕はもう、君のことを千桜さんと呼んで話をしようと思うんだけど、いいかな」


「あ、えっと。はい……大丈夫です」


 返事をしつつ、少し恥ずかしくなる。『千桜さん』とは、付き合っていた頃の彼の私への呼び方。つまりもう、仲介人と家主としてではなくて、元カレと元カノとして話をしたいという意思表示なんだと思った。


「ありがとう。それで?」


 そして彼に話の続きを促されて、私は気になっていたことを彼に尋ね始めた。


「あ……その。なんというか、私だって黙ってて……ごめんなさい。いつから……気付いてたんですか? バレてないと思ってました」


「あぁ。いつから……。そうだなぁ。さっきも話したけど、僕はこの部屋を引っ越すことにした動機になるくらい、ずっと君の事は頭にあったんだよ。その中で、君が内見のアポ取りの電話をして来た時、葛城って名乗っただろう――?」


 そう言って、彼が話始めた内容によると。


 私がアポ取りの電話で葛城と名乗った時点で、元カノと同じ苗字だなと思ったらしい。


 そしたら急に私が昔飲んでいた黒豆茶が懐かしくなって、久しぶりにお取り寄せをした。それが黒豆茶が部屋にあった理由。


 そうしていざ部屋に来た私は黒髪のショートヘアにメガネ姿で、最初は別人に見えて残念に思ったらしい。


 けれど、明らかに営業スマイルなのに目を合わせているようで合わせていないその感じが、私と初めて会った時の面影と重なった。そして一瞬目が合った時、私の目の奥に動揺している様子を感じたから、『あれ?』と思ったとのこと。


 でも、その時点ではまだ、他人の空似かなと思うくらいだった。それが、ふと私の手元を見たら記憶の中の元カノと、私の爪の形が完全に一緒で。これはもしかして本当に元カノなんじゃないかと思ったらしい。


 けれど、あくまで私は仕事として来ていて、お客様の前だったし、私も素知らぬふりをしていたから、たとえ本人だったとしても気付いていないふりをした方がいいのかなと気を使い、確認まではしなかった。


 ただ、同じ空間に居ればやっぱり本人だよなと思う気持ちはどんどん濃くなっていくもので。特に黒豆茶を飲む時の仕草だったり、この部屋のいい点として窓から見える桜の話をしている時の私の反応だったりが、それをより決定的にしていった。



 最初は、『元カノを忘れるために引っ越しをするのに、その引っ越しのせいで元カノと部屋の中で再会するなんて』そう思ったらしい。けれど、それはまだ私への未練があるからだと気付いた。


 そしてそれは、『もしもプロポーズをしていたら、何かが変わっていたのだろうか』という心残りが少なからず自分の中にあったからなのだと思った。


 そしたら、この部屋で、忘れようと思っている元カノに再会したことも、話の流れで別れた理由になったことも、何かの縁だと思った。


 それならば、ダメで元々、忘れるためにも伝えたい。そう思ってあの話をしたらしい。


 それは、別れた時でさえ、『君がそう望むのなら』と、自我を示さなかった彼の珍しく自我を見せた部分。



 それを聞いた今、私も彼に伝えたいと思う事がある。

 それは――ずっと私の中で大切に出来なかった彼への気持ち。



 私ばかりが好きなんだと思っていた。


 彼の気持ちが離れていっているのに、私ばかりがずっと好きなままなんだと思っていた。


 その気持ちを、恥ずかしく思っていた。


 でも、そうじゃないのなら……。




「あの。


 私も、仲介人と家主としてではなくて、元カノとして、彼に伝えたくなった。


「はい、千桜さん。なんでしょうか」


 彼も、少し改まった雰囲気で返事をした。



「私は……別れた時も、別れた後も、そして今も……あなたのことが好きなままです。けれど、ずっとそれは恥ずかしいことだと思っていました」


「え? ……だって、あなたの方から別れましょうって……」


 さっきまで落ち着いた雰囲気だった彼が、少し動揺の色を見せた。


「それは、プロポーズの準備をしてくれていただなんて、知らなかったから。あの時、残業ばかり増やすあなたは、もう私と過ごしたくないのかと思って……あなたの気持ちが離れていっている気がして、さみしくて。……本当は、引き留めて欲しかったんです」



 2年の時が過ぎた今、やっと私の素直な気持ちを彼に伝えられた気がする。それは、絡まった糸がゆっくりと解けていくような感覚――。


 私の言葉に、彼も言葉を選びながら、心の内を吐露し始めた。


「…………まさか千桜さんがそんな風に思っていたなんて。僕は……千桜さん、あなたと結婚したいと思ったから、結婚するならお金が必要だと思ったから、残業をして、収入を増やしたかったんです」


 まさかの言葉に驚きを隠せなかった。だって……。



「でも……それまでで貯金は十分増えていたじゃないですか。なのに、どうして……」


 そう、だからこそ、そういう意味でも必要でない残業だと思ったんだ。


「それは……、あなたが日々、食事を作ってくれたり、僕と一緒に居てくれることで満たされることが多かったおかげだと思っていたから。あなたのおかげで溜まったお金だと思っていたから。だからそれとは別で、僕が稼いだと思えるお金で、あなたにプロポーズする指輪を買いたかったんです」


 彼の言葉は、いつもの落ち着いた朗らかな雰囲気とは違って、しどろもどろとしていたけれど、その分、その真摯な気持ちが伝わって来るような気がした。


 彼が急に残業を増やした理由は、私が思っていたものとはあまりにもかけ離れていた。彼は――、私が思っていたよりも、深い愛情を抱いてくれていたのかもしれない。そう思えた瞬間だった。


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