第4話

「今日はありがとうございましたー!」


 内見を終えた玄関で、晴れやかに彼にお礼を言う香織さんと、その傍でぺこりと会釈をする旦那さん。

 

「いえいえ、素敵な部屋が見つかるといいですね」


 そして、にこやかな笑顔でそう答える彼。



 結論から言うと、羽鳥ご夫婦のこの部屋へのご入居は見送られることになった。


 その理由が、彼があの言葉の後に言った言葉。


『ところで羽鳥さん、この部屋を気に入った大きな理由が立地なら、他の部屋を見てみるのもいいと思いますよ。この部屋は南向きの大きな窓から桜の名所が見える分、他より家賃が高いようなので……』


 その言葉を受けて、香織さんは――


『え、そうなんですか? だったら……他の部屋も見てみようかな。葛城さん、他の部屋も紹介していただけますか?」


 という流れになったので、後日この近くの似た条件のお部屋をピックアップしてご連絡することになったのだ。




「菊池さん、今日は内見にご協力いただきましてありがとうございました!」


 香織さんに続いて私も彼に挨拶をする。


「いえ……せっかく決まりそうな雰囲気だったのに、余計な事を言ってしまってすみませんでした」


 すると彼は申し訳なさそうな顔をしてそんな事を言う。


「そんなそんな、もしあのままご成約になっていても、この部屋にご入居いただけるのは菊池さんの退去後、リフォームが済んでからになるので……羽鳥ご夫婦には他のお部屋を見ていただいた方が結果的に早く決まるかもしれませんし、気にしないでください」


 そんな業者と客のような表面的な会話をした後、少し変な空気が流れた。


 ……プロポーズの準備をしてたことについて、詳しく聞きたいと思ってしまう気持ちと、けれど今は仕事中で、お客様をお見送りしなければいけないという気持ちがせめぎ合う。


 ましてや彼は、私が元カノであるということに気付いていないはずで、しかもこの部屋から引っ越して、過去を忘れようとしているわけで。


 だから。


「あ、菊池さん。また他の内見希望の方がいらっしゃったら、その時はまた、よろしくお願いします」


 理性の方が勝って、あまりある事とは言えない次の希望につなげた言葉を言うので精一杯だった。


「あ、はい。分かりました」


 なんとなく、彼も何か他の事を言おうとしているようにも感じたけれど、言葉にしたのはそんな当たり障りのない言葉で。



 私達は頭を下げ合って玄関を後にした。




 もやもやとしながら羽鳥ご夫婦とマンションのエレベーターに乗って、エントランスを出る。


 すると――。


「葛城さん、僕たちこのままこの辺りを散策してから帰ろうと思いますので、ここまでで大丈夫です。今日はありがとうございました」


 孝明さんにそう言われた。


「え、あ、あぁ! そうですね、この辺りに引っ越す予定なら、いろいろ歩いてみるのもいいと思います。では、またご連絡致しますね。本日はありがとうございました!」


 少し余裕なくそう返事をすると、私は車を停めていた駐車場まで歩き始めた。


 けれど途中まで歩いて、足が止まる。


(あ、れ?? 車の鍵――どこいった??)


 ポケットに入れていたつもりの車の鍵が、ない。


 どうしよう、これじゃ会社に戻れない。まさか、もしかして、私――


 彼の部屋に、……忘れた?


 それしか考えられなくて、慌てて彼に電話を掛けた。




 ――プルルルル プルルルル


『はい』


「あ、あの!! 先ほどはありがとうございました。葛城です。その、えっと……鍵を……車の鍵を、失くしてしまって。そちらに……忘れてたりしますでしょうか」


『え? 鍵、ですか? ……ちょっと待ってくださいね。 ……あ、あります。ちょうど葛城さんの座っていたあたりに落ちてました』


 その言葉を聞いて、あぁ、あの時だと思う。椅子に座ろうとして転げ落ちた時。あの時弾みで落としたんだと思った。


「あぁ、よかった……。菊池さんすみません、この後まだご在宅でしょうか。取りに戻らせていただいてもよろしいですか?」


『ふふ。はい、いいですよ。僕はこの後特に予定もないので、ゆっくり戻って来てください、さん』


 ……その瞬間、ドキリと心臓が跳ねた。


 今、確かに彼は……私のことを下の名前で呼んだ。


「……え?」


『電話番号、まだ変えてなかったんですね。……僕も、登録したままだったから……』


「あ……そっか、私、個人スマホを仕事用と兼用してるから……。鍵を失くして焦っていたので気付きませんでした」


 そっか。会社の固定電話と違って今掛けたのは彼と付き合っていた時から使っているスマホ。だから……彼が私の番号を登録したままだったのなら、発信者名が彼のスマホに表示されてしまうんだ。


『話しぶりから、そうかと思いました。ふふ。じゃあ、待ってるので気をつけて戻って来てください』


 そんな会話をして、電話を切った。


 途端に、カーっと顔が熱くなっていくのを感じる。


(え、いつから? いつから彼は、私が私だって、気付いてたの? 彼の話ぶりから、電話をかけるよりもっと前から……気付いてる雰囲気だった)


 急にそんな風に思って、恥かしくなった。





 ――ピンポーン


 変な緊張をしながらインターホンを押す。


 どんな顔をして会えばいいのか分からなくて、けれど会わないわけにもいかなくて。そして、また会いたいと思っている自分もいて。


 そして、もう、彼には私だとバレてしまっているわけで。



 顔が熱いのを自覚しながら待っていると、ガチャッと玄関が開いた。



 そこからこちらに顔を覗かせた彼の顔は、やっぱり穏やかなままで。


「おかえり、千桜さん。はい、車の鍵。ごめんね、僕が気付いてあげられたらよかったんですけど」


 その口調は、さっきまでよりも少し砕けていて。仲介人と家主というより、元知り合いに話しかけるような口調だった。


「あ、いえ……、すみません、お騒がせしてしまって。ありがとうございます」


 けれど私は急に口調を崩すこともできなくて、そのまま鍵を受け取った。

 とはいえ、彼とは付き合っていた当時も敬語ではあったのだけど――。


 

 ……けれど、私は鍵を取りに戻ってきただけで。受け取ったらこれで要件はおしまいなわけで。


 そう思うと途端に残念な気持ちになってしまった。すると、彼が。




「いえいえ、それより羽鳥ご夫婦は? ……もしも君がもう一人で、嫌じゃなかったら……少し、上がっていかない?」


 そう言ったから、……言ってくれたから。


「……いいんですか? じゃあ……お邪魔……します」


 私は再び、彼の部屋の玄関の敷居を跨くことにした。

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