第6話
◆◇
まだ3月になったばかりの頃。僕は一人暮らしにしてはやけに広いリビングで、本を読んでいた。
『みなさーん、見てください、この綺麗な桜!! 私は今、静岡県河津町に来ています』
するとつけっぱなしだったテレビから、明るいリポーターの声と共に桜の映像が流れた。
まだ3月の初旬だというのに、桜とは随分気が早いなと思ったが、河津桜という早咲きの桜らしかった。
画面の中には、満面の笑顔のリポーターと、真っ青な空、そこに濃いピンクの桜の色が映えて、コントラストがとても美しい映像。けれど、……違う、僕にとっての桜は……
このリビングの大きな窓から見える、満開のソメイヨシノ。
あの、一斉に咲き誇る淡いピンクの景色が好きだった。
「もうすぐ桜の季節か……」
僕はその景色が懐かしくなって、リビングに飾られたままになっていた写真立てを手に取った。
そこに映っているのは、満開のソメイヨシノと、数年前の僕、――そして、元カノ。名前を
彼女との出会いは、会社の懇親会。取引のある会社同士の立食形式の飲み会だった。
あまり賑やかな席が好きではない僕は、適当に名刺交換だけ済ませて帰ってしまおうかと思っていた。そんな時ふと目に入ったのが、あまり減っていないグラスを片手に愛想笑いを浮かべていた彼女。
無駄話をすることで有名なお偉いさんが、長々と話す中、その輪の中から抜け出せずに困っているように見えた。
ほんの気の迷いだったのかもしれない。助け船を出すような気持ちで、僕の方から彼女に声を掛けた。
「はじめまして。よかったら名刺交換よろしいでしょうか」
「え? あぁ、はい」
彼女は笑顔だったけれど、どことなく合わせているようで合わせていない視線に、人見知りをする人なのかなと思った。
「千桜、と書いて、ちさ……とお読みするのですか? 綺麗なお名前ですね」
名刺交換をしながらそんな会話をする。
「え? あ、はい。珍しいかもしれないですね」
「僕は咲矢と書いてさくやと言います。僕も桜がモチーフの名前で。矢が咲くって、意味分からない名前なんですけどね」
なんとなく、場が馴染めばいいかなとそんな自虐的なことを言ってみれば、彼女はふふっと小さく笑った。
それは淡いピンクの桜が咲くような、けれどすぐに散ってしまうような、それなのにどこか穏やかな気持ちになれるような、そんな桜のような笑顔に見えて。
さっきまでの作った笑顔ではなくて、これが彼女の内面から出る笑顔のような気がして。
たぶん、それは他の人から見ればなんてことない小さなことだったのだろうけれど、僕は、彼女のそんな部分にゆっくりと、惹かれていったんだと思う。
『菊池さんって、仕事は出来るけど、つまんないよね』
『菊池さんって、優しそうだけど、何考えてるか分からないよね』
僕は昔から、人からそんな風に言われることが多かった。
それでも女性と交際してみたこともあったけど、大抵、『いっつも本ばかり読んでてつまんない。ちょっとは私の話聞いてよ。ねぇ、今度の休み、どこか行かない?』
『咲矢って、本気で笑ったりしないんだね。喜怒哀楽がないっていうか、私といてもつまらなさそうだよね』
そんな風に言われて、いつの間にか自然消滅することが多かった。
だから、さほど女性に期待もしなかったし、特段彼女など作らなくても一人で生きていけると思っていた。
ただ、まるっきり一人でいるのはなんとなく寂しくて。
カフェで読書をしたり、部屋にいる時もテレビは付けたままだったり、なんとなく、人とのつながりがある場所でひとりでいることが好きなタイプだった。
だから……心のどこかでは、彼女という存在を欲していたのかもしれない。そしてこの子ならと、自分の気付かない部分でそう感じていたのかもしれない。
彼女との名刺交換後、何回か一緒に仕事をする機会があった。
最初のうちはただの顔見知り程度。けれどなんとなく一緒にいると安心するような感覚を僕は持っていた。
そんな関係が何ヵ月か続いたある日、彼女との仕事中に川沿いの桜が咲いているのが見えて、散歩がてら一緒に見に行こうと誘ってみた。
リビングに写真を飾ったのはその後付き合ってからの彼女だったけど、あの写真を撮ったのもその時だった。
ぎこちない笑顔と、ぎこちない距離感。けれど、僕にとっては心地よくて、それとなくまた別の場所の桜も一緒に見に行こうと誘った。
それまで付き合った彼女たちのように、デートらしいデートという事もなく、気合いを入れたデートコースを考えることもなく。
ただ、スケジュールが空いたら彼女に会いたい、いつの間にかそう感じるようになっていて。
いつの間にか、一緒に歩く時に手を繋ぎたいと思うようになって。
いつの間にか、彼氏彼女という関係になっていた。
一緒にいるだけで心地良かったし、そして、彼女は僕を好きだと思ってくれていると思っていたし、彼女も僕が彼女のことを好きだと分かってくれていると思っていた。
それで十分だと思っていた。だから、他のカップルよりはたぶん会話は少なかったし、彼女は僕に対して敬語のままだったけど、それでいいかなと思っていた。
だからと言って、ただ、居心地がいいから彼女のことを好きだったわけでもなくて。
平静を装っている風なのに、目の奥が微かに動揺していて人知れず困っているところだったり、お茶を飲む時にどことなく幸せそうに飲んでいるところだったり、何気ない一瞬一瞬が、可愛いくて。
人知れず僕の庇護欲をさりげなくくすぐってくるところも、愛おしかった。
けど、そんなだったから、僕は彼女に付き合ってくださいとも、好きだとも言ったことがなくて。
だけど、一緒に暮らしてみても、ずっとこの先も彼女と一緒に居たいという気持ちは強くなっていくばかりだったから。
彼女と知り合って3年が経った頃、次の桜が咲く季節になったら、ちゃんとプロポーズをしたいと思うようになった。
その時にはちゃんとした指輪を用意して、そしてそれは僕が稼いだと思えるお金で、誠心誠意を込めたサプライズをしたいと思った。
だから嘘が下手な僕は、うまい言い訳もできないまま、残業ばかりの日々を送るようになっていた。
そんな時だった。彼女から『別れましょう』と言われたのは。
あまり自分から主張する事がない彼女が、珍しく自分の意見を言ったような気がした。
そしてその途端、今までいろいろな人に言われてきた言葉が、頭の中で煩く響いた。
『菊池さんって、仕事は出来るけど、つまんないよね』
『菊池さんって、優しそうだけど、何考えてるか分からないよね』
『――私といても、つまらなさそうだよね』
急に、それらの言葉を彼女も当たり前に抱いていたのかと感じた。
『一生一緒に居たいと思っていたのは――僕の方だけだったんだ』
そう思うと、引き留めるのも申し訳なくて。
ただ、『うそだよ』『冗談だよ』『やっぱり出て行くのやめようかな』なんでもいいから、彼女がそんな言葉を言ってくれないかと祈るような気持ちで、彼女が引っ越しの荷物をまとめているところをただただ見ていた。
苦い苦い思い出。
けれど、また、桜の季節がやってくる。
大好きな彼女と一緒に見た桜。そして――大好きな彼女がいなくなったこの部屋で、独りで眺めた桜。
僕は、この先桜の季節が来るたびに、彼女を思い出してしまうのだろうか。
別れてから一度も連絡を取っていない彼女を。
転職までして、もう僕とはなんの接点もなくなってしまった彼女を。
そう思うと、次の引っ越し先も決めずに、大家さんに電話をかけていた。
『あ、菊池です。急で申し訳ないのですが――引っ越しをしようかと考えておりまして』
その時点での僕は、いつとも決めていなくて、退去するならどのような手続きをしたらいいのかの相談がしたいくらいに思っていた。けれどその時点でもう3月の初めで。大家さんは僕に言ったんだ。
『えー困りますよ。部屋探しのピークが過ぎたばかりじゃないですか。けれど今すぐ入居募集を掛ければ、駆け込み需要に引っかかるかもしれない。もう今日から募集掛けちゃうので、部屋を見たいって人がいたら出来るだけ断らないようにしてくださいね、私を助けると思って!』
あぁ、そうか、部屋探しにもピークがあるんだった。そして、今を逃すと大家さんに迷惑がかかるのなら、もうおとなしくこのまま引っ越し先を決めよう。そう思った。
けれど、その時の僕は想像もしていなかった。
まさかそうして受けた内見で――忘れようとした彼女と、再会することになるなんて。
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