第32話:新しい世界へ
――10年後、高度1万キロ地点、低軌道リング、リニアエクスプレス車両内
地球を囲む幾つもの宇宙ステーションと、それを繋ぐチューブ状のリングが赤道上に停止している。
その中を走るリニアエクスプレスの中で、いのりは車窓から見える地球の景色を眺めていた。
『うん、いま歩とは別行動。タカマガハラからアアブ行きのリニアに乗れたとこ。あと二時間もすれば着くって。桐谷さんも来れば良かったのに』
理士として覚醒しているいのりが、電脳を用いて桐谷と通話している。
『地球の景色、すごい綺麗。生で見るとやっぱ違うね』
車窓を撫でながら、いのりは初めて見た地球の感想を桐谷に伝える。
その右手薬指には指輪が嵌められていた。
――長崎県壱岐市、軌道エレベーター『タカマガハラ』地上ターミナル
長崎県と福岡県の境にある離島、壱岐島。
月の神、月読命を祭神とした社を構えていたその小さな島は、いまや時代の最先端を行く世界有数の近代都市と化していた。
その離島と本州を行き来する手段は海上フェリー、海底トンネルや地下鉄と日本が軌道エレベーターターミナル建築権を獲得してから急速に整備されていた。
そして桐谷はその船着き場で煙草を吸いながらいのりと電脳で通話していた。
彼はいま、国際警察としてBETAによる犯罪を担当している。
シュルティ博士が齎したBETAはソフィアたちの活動もあり、この十年で瞬く間に世界中に広がったが、桐谷がロボットだった頃のソフィアに語った通り、犯罪が消えることは無かった。
『無茶言うなよ。僕の安月給じゃ、高騰した軌道エレベーターのチケットなんて買えやしないさ。現地のボディーガードによろしく』
クラウンの車体に背を預けて海風を愉しんでいる桐谷はそうぼやくと、視線の先にある天高くそびえる巨大な地上ターミナルを見上げる。
その建築物の先には二本の中空状のチューブが宇宙まで伸びていて、その中をリニアクライマーが走っていた。
軌道エレベーターは竣工後、その経済的な利便性の高さから世界中のあらゆる企業が活用していた。
しかしこの利便性に目を付けた途上国の国民が先進国への不法入国を果たそうと殺到したため、民間人の利用は高騰化の一途を辿っていた。
そう言った社会問題の背景もあり、軌道エレベーターを使用出来るのは政府要人や企業人など、利用が必要と認定された者や、着工時にチケットを購入していた層、そして高騰したチケットを購入出来る富裕層に限られていた。
『あらそう? お巡りさんも大変ね。それじゃ、お仕事頑張ってー』
WHO職員の婚約者で、且つ赤羽から貰ったチケットを持ついのりは数少ない常用利用許諾者なのである。
いのりは桐谷のぼやきを揶揄う様に笑うと通信を切った。
「けっ、良いご身分でいらっしゃる」
近くの自販機で二人の通信を聞いていたミンが、苛立たし気に吐き捨てた。
事件のあと、ミンは裁判にかけられたものの、ソフィアと桐谷の働きかけにより、桐谷が後見人となる条件付きで減刑措置が施されていた。
いまでは彼女も理士として覚醒し、桐谷のバディとして彼をサポートしている。
両手に缶コーヒーを持って桐谷の元に戻ってきたミンはそれを渡す。
そして桐谷がそうしているように、ミンも海風に当たりながらタカマガハラを見上げた。
「そりゃそうさ。BETAを普及させた立役者と、その婚約者なんだから」
桐谷は缶コーヒーの礼に、ミンに煙草を差し出す。
ミンはそれを受け取ると美味そうに煙を吐いた。
「んで、アタシらはそんなやつらの小間使いってわけか。BETAが普及しても金持ちが幅を利かせる世の中に変わりはねぇじゃねぇか」
缶コーヒーを飲み終わったミンが、空き缶を数メートル先の自販機横にあるリサイクルボックス目掛けて投げつける。
空き缶は缶ゴミの開き口の縁に当たり、一旦宙を舞って地面に落下した。
「犯罪自体は全体的に減っているんだ、そうごちるなよ。さ、僕たちも仕事に戻ろう」
桐谷はミンの肩を叩いて運転手を促すと、自身も飲み終わった缶コーヒーを捨てるべく、リサイクルボックスへ歩いて行った。
「へいへい、今度の大将は人使いが荒いな」
ミンは肩を竦めてぼやくと運転席へ乗り込みエンジンをかける。
ミンの分の空き缶も捨て終わった桐谷を車で回収したミンは、船着き場を去っていった。
真理の貯金を元に生物工学を専行し、博士号を取得した歩はWHO職員となってソフィアと共にBETAの普及活動に尽力した。
歩はリビングのソファに腰かけ、懐かしそうにその辺りを見回している。
テーブルには二人分の食事が並んでおり、それを犬が食べたそうに前足をテーブルにかけて眺めていた。
すると外の廊下からドタバタと足音と口論する声が近付いてくる。
『おい母さん、いつまで仕度してんだ! また遅刻しちまうぞ!』
仕事を終えて帰宅した赤羽が入れ違いに出勤する真理の準備の遅さに文句を漏らしながらリビングに入ってくる。
『だってぇー! おっ、歩ー! 月面旅行、楽しんでるかー?』
赤羽に続いて髪をとかしながら入ってきた真理が、歩に気付いて手を振る。
『歩、そっちはどうだ? やっぱり宇宙は寒いのか?』
真理のご飯とみそ汁をよそって持ってきた赤羽が、興味津々なようすで歩に尋ねる。
「ああ、大丈夫だよ。ヨウ、父さん」
二人の仲睦まじい様子を見た歩はくすりと笑い、赤羽に答える。
一瞬昔の呼び方で呼びそうになった歩を見て、真理はからかう様に笑った。
『いつまで経っても昔の呼び方引き摺ってんだから。いい加減お父さん呼びに慣れなさい』
真理はみそ汁を啜りながら、箸で教鞭のように歩を指す。
それを赤羽は行儀が悪いと真理の手を軽く叩いて仲裁する。
「真理ちゃ、母さんだってたまに呼び間違えるじゃんか」
歩は照れ隠すように、真理に反論する。
『アタシは良いのよ、アタシは』
だって奥さんだもんと言いたげに、真理は自分のことを棚に上げた。
『ま、その内慣れるさ。そうだよな、タロ?』
二人のやり取りをやれやれと呆れながら、何か食べさせろと膝に乗ってきたタロの頭を撫でて同意を求めた。
『ワン! ワン!』
タロは元気に返事をする。
そこで突然、まるで電気を落としたかのように歩の周囲は暗転した。
そして再び明るくなるとそこは近未来的な装飾で彩られた月面ステーションの客室であった。
歩の後ろには、ソフィアが佇んでいた。
「……後悔、していますか?」
ソフィアは歩に話しかける。
「なにが?」
歩は振り返らずにソフィアに問い返した。
「あの日、私を助けたことを」
歩が先ほどまで見ていた風景、映像は、理士の電脳化した脳がシミュレートした、歩が望んだ理想の世界の映像であった。
それを共有していたソフィアは、彼を理想とする世界とは程遠いところまで連れてきてしまって良かったのかと、確認したかった。
「どうかな……」
歩はソフィアの問いに、考え込むように沈黙した。
「誰かがやらなければならなかったことではあったし、俺より上手くやれる人がいたのかもしれない」
歩は10年前のあの日のことをどう思っているのか、ぽつりぽつりと話し始める。
「そうしたら父さんは死ななかったのかもしれないし、母さんも死ななかったのかもしれない」
歩の独白を、ソフィアは無言のまま受け止めた。
「俺たちの選択が良かったのか悪かったのか、それはきっと俺が死ぬ間際になるまでわからないことなのかもしれない」
歩は手の平を眺める。
理士の紋様が浮かび上がった手の平。
何もないはずのそこに、歩は零れ落ちてしまったなにかを感じ、それの感触を思い出すように握った。
「でも、わかったことがあるんだ」
歩は振り返り、ソフィアを見る。
「はい」
ソフィアも目を逸らさず、歩を真正面から見つめた。
「子供のころ、タロが死んだとき、父さんと星になったタロに会いに宇宙に行こうって約束したんだ」
赤羽と交わした約束を懐かしむように思い出して語る歩。
「タロは宇宙にいなかった。星になんてなってなかった」
訴えかけるように、歩はソフィアに話す。
「ずっと、俺のここにいたんだ」
胸に手を当てて、導き出した答えを歩は語る。
「そして母さんも、父さんもいまはここにいる」
歩は俯き、辛そうに言葉を続けた。
「俺は独りじゃない。理士になってそれがわかったことは、良かったと思う」
そう言うと歩は顔を上げ、窓の外の景色を眺める。
そこには青く美しい地球が広がっていた。
「ソフィア」
「はい」
歩の呼びかけに、ソフィアは応える。
「この景色に映る全ての人たちが、もう悲しい目に遭うことは無くなるんだよな?」
歩は地球に住む人たちを指して、ソフィアに尋ねる。
「はい。国連とWHOの協力の元に再調整を加えたBETAは、着実に世界中に広がっています。ご覧ください」
ソフィアは頷くと地球に向けて手をかざす。
すると地上に理士を示す無数の光点が現れた。
「この全ての人たちが今日この時、傷病老死から解放されます。そして互いの文化と生活と、境遇を知り、恒久和平を築き上げていくのです」
光点のいくつかがポップアップし、その人のリアルタイムで配信している生活模様や、アーカイブ化された体験などが表示される。
そしてそれぞれのデータが今日、ビッグデータに集まり共有化が実施される。
その最終調整を終えた歩とソフィアは、その瞬間を赤羽と約束した宇宙から見ようと、月面ステーションを訪れていた。
歩はベッドに寝転び、照明を消す。
暗くなった室内には、地球からの青い光と、遠くに見える理士たちの光点だけが広がった。
「星は、人の中にあったんだな……」
歩はそう言うと、ソフィアをベッドに招く。
ソフィアは頷き、彼の隣に寝転んで一緒にその星を眺めた。
「この先、俺が後悔しないように、新しい世界を俺に見せ続けてくれないか?」
歩はソフィアの方へ顔を向け、提案する。
地球の光を受けたソフィアは、ネモフィラの花のように蒼いその髪をキラキラと輝かせて微笑む。
「かしこまりました。マイ、いえ、義兄さま」
『あなたを許す』という言葉を与えられたその花と同じ色をした彼女の微笑みに、歩はどこか救われた気がした。
二人は手を繋ぎ、目を閉じる。
「じゃあ行こう」
「はい」
二人の紋様が蒼く光る。
「新しい世界へ」
そして二人の意識は、世界中へ飛んでいった。
BETA-邂逅編- たなかし @manager8612
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