被験者

 クシェルとオレアンダーは庭に置かれた机と椅子に座り向かい合せで座っていた。

 オレアンダーはティーカップに入れられた紅茶を優雅な所作で啜っている。

 一方クシェルはティーカップに手をつけず机の上に置かれた長い契約書にひたすらサインをし続けていた。何箇所も名前を書かされ指が痛い。

 しかしある一項目を見たクシェルの手がピタリと止まった。

 第二の性別を書く欄がある。いつもはベータで通しているが。

緊張しながらいつものように書こうとするも強い視線を感じる。嫌だと思いながらも視線を上げると琥珀の瞳と目が合った。

「君、オメガなんでしょ?」

 オレアンダーは何でもないことのように紅茶を啜りながらのんびりと問うてくる。

「な、な、何言って、証拠は?」

 あまりの唐突さにクシェルは口から飛び出しそうなほど胸をどきりと大きく跳ねさせた。鼓動は速くなり、背に冷や汗が伝う。

「アルラウネ達が反応していたからね。あの子達は獣より鼻がいい」

 話によるとアルラウネはオメガの匂いに酩酊し、そして彼女らが放つ匂いはオメガを発奮させるらしい。

クシェルの魔法が暴発してしまったのはそのせいのようだ。

 彼がクシェルにアルラウネ達を差し向けたのはもしかしたら、この秘密を暴きたいがためだったのかもしれない。しかし動機がわからない。オレアンダーの得体の知れなさにクシェルは身震いした。

「それにしてもよくこの庭も燃やし尽くしてくれたよ。偏見かな?火属性の人間ってどうしてこうも暴力的なの?」

「燃やしたのは本当に悪かった。俺は、その、魔法音痴のベータなだけだ」

 クシェルはとりあえず素直に頭を下げた。

しかし果たして目の前のオレアンダーと名乗る男、どうすれば第二性の追求をやめてくれるだろう。クシェルは頭を抱えたい気持ちで一杯だった。

「まあ、オメガの人間が第二の性別を偽るなんてよくある話だけどね」

 オレアンダーは指を鳴らすと小さな桃色の小瓶を出してきた。

 彼は徐にその瓶を開けるとその口をクシェルに向けてきた。

途端に甘ったるい匂いがクシェルの鼻腔を擽ぐる。

「げほ、ごほ、や、めてくれ」

 徐々に身体が熱くなるような感覚に陥り、クシェルは慌ててその場を離れようとした。

しかしいつのまにか身体に蔓が巻きつき身動きが取れない。

「君は、ベータ?オメガ?」

覗き込むように迫ってくる男の琥珀の瞳にクシェルは恐怖を感じた。

「…ベータ、だっ」

 クシェルはこの街ではベータと偽り生きている。それでも人生のある一定期間は正直にオメガとして生きてきた。しかしあまりにもこの世はオメガに差別的だった。だから何としても露見を避けたい。

「へぇ、じゃあこの中身今すぐ飲んでよ。ベータには無害で何の反応もないはずだけど」

 瓶の中身はおそらくオメガ用の発情ヒート促進剤なのだろう。瓶は少しでも傾けばクシェルの口の中に入りそうだ。男のあんまりなやり込み方に怒りと恐怖を覚えるものの、クシェルになす術はなかった。一体彼の目的はなんだろう。訳のわからないことが続き過ぎてクシェルは頭が痛くなりそうだった。

「オメガなんだよね?」

「うっ、くそっ」

 クシェルは悔し紛れのヤケクソで頷いた。途端に拘束が緩み、オレアンダーは身体を離した。

「げほっ、げほ」

「最初から素直に言えばいいのに」

 呆れたような顔をするとオレアンダーはヒート促進剤の小瓶の蓋を閉めた。脱力したクシェルは椅子から崩れ落ちてしまう。

 恐ろしいことに目の前のよりによって厄介そうな男に自分の真の第二の性を知られてしまった。クシェルは目の前が真っ暗になるような気持ちになった。


 カップの中の紅茶はすっかり冷え切ってしまっていた。

ヒートになりかけてぐったりと半ば放心状態のクシェルは椅子に凭れるように座っていたが、そんなことなどお構いなしにオレアンダーは話を進めていく。

「率直にいうと、君にはある実験に付き合ってもらいたいんだよね」

「…どんな実験なんだ?」

「人体実験」

 物騒な単語を事もなげに言うオレアンダー。

「じ、人体実験?」

 しかしクシェルは声を上げ、その身をこわばらせた。胡散臭いこの男にその身を使って実験されることに恐怖を覚えたからだ。

「保健所から重症ヒートのオメガがいるって通報もあってね。この辺のオメガって結局君しかいないから犯人は君ってことになるよね」

 オメガのヒートは個体差により軽度重度と分けられる。あまりに重度だとフェロモンが周りに影響する。主に被害を受けるのはアルファだが。

「確かにヒートは重いけど、通報?じゃあ、あんたは保健所の人間なのか?」

 目を丸くしてクシェルはオレアンダーに問う。それにしても一体誰に通報されたのだろう。アルファに迷惑をかけた記憶はないが。

「内緒」

「ふざけんなよ」

 おどけた様に笑うオレアンダーにクシェルは悪態をついた。

「関係者かな。俺は平たく言えば研究者みたいなもの」

「で、その研究者様は一体俺に何の用だよ」

 クシェルは苛立ち始めた。要領を得ないオレアンダーの話もどこまで本当なのか。

とにかく予定通りに狩りに出たい。今はクシェルにとっては弟のために先立つものが必要だった。

「俺は君みたいに重症ヒートで周りに影響がある人間を保護する義務があってね。本業とは別で奉仕活動みたいなものだけど。ま、お話を聞いてよ」

 しかしどんないきさつであれクシェルが相手の私有地を燃やしてしまったのは事実。彼の話に付き合う他なかった。

「ちなみにヒートはどうやってやり過ごしてたの?」

「抑制剤を飲んで部屋にとじこもってるけど?誰かにフェロモンをあてた記憶もない。だから問題ないだろう?」

「大アリなんだよね、それが」

「は?なんでだよ」

 番がいないオメガはヒート抑制剤を服用し他者から隔離された所で過ごすのが一般的だ。

 対して番がいる者は相手と性交渉すれば自ずとヒートは落ち着いてくる。

「ヒート中の君の部屋からフェロモンが流れていて失神したアルファがいるらしいよ。その人が通報したのかな?報告書も上がってきてる」

 書類をどこからか出すとオレアンダーは内容を確認する様に読み上げてくる。日にちを聞いてクシェル自身にも覚えがあった日のことだった。

「…そんなヤツいたの?」

 クシェルは思わず呆れたような声を出してしまう。そして自分の預かり知らないところでフェロモンにあてられてしまった人間がいた事を知り衝撃を受けた。

「重症ヒートのオメガ相手ならあり得ない話じゃない。…まあ相手もちょっと繊細なアルファだとは俺も思うけど」

 相手を庇うような発言をするオレアンダーだが、クシェルの心中を察してくれているらしい。彼は半目に開かれ呆れた様な表情をしている。

「とりあえず実害もでてるし、本来なら君は収容施設に入らなきゃいけないんだ」

「収容施設ぅ!?」

 想像もつかない話が飛び出しクシェルは思わず叫んでしまった。

「最低限の生活は保証してもらえるよ、番のいない重症ヒートのオメガ達の中で暮らすの。どうしてもアルファと番うのに抵抗がある人もいるからね。特に男性オメガは」

 収容なんてされてしまえばノアの学費が稼げなくなってしまう。なんとかして避けなくては。

「なぁ、なんとか避ける方法はないのか?」

縋るようにクシェルが弱った声を上げる。

 その瞬間、待ってましたとばかりにオレアンダーの綺麗な顔が満面の笑みでさらに華やかになった。

「ここから俺たちの研究の本領発揮だね」

「…なんの研究なんだ?」

 胡散臭い笑顔のオレアンダーに対してクシェルは心配から顔色を悪くさせた。

「名付けて『仮初の番契約』だ」

「かりそめ?つがい?」

 機嫌良くオレアンダーがのたまうもクシェルは内容の想像がつかず首を傾げた。


 第二性のアルファとオメガには特殊な性質があるが最も人生を左右する性質は「番の契約」といっても過言ではないだろう。

 アルファが発情時のオメガのうなじを噛むことで、お互いが唯一無二の「番」の契約を結ぶことができる。

「番」の契約を結んだ相手にしかお互い発情しなくなる。これが番の契約だ。

「そもそも番なんて、一度噛まれたら添い遂げなきゃならんだろう。冗談じゃない」

 クシェルが勢いよく被りを振る。

 番いの契約を結ぶと、その後半永久的にその契約は続いていく。クシェルが認識する通りその相手と添い遂げるくらいの覚悟が必要だと言うのが一般論だ。

 クシェルは今は正直誰とも添い遂げるつもりもない。とにかく弟の学費を稼がなければならないのだ。自分と弟のことだけで精一杯だった。

「昔はね。今はうなじの噛み跡の手術をすれば契約を破棄できるよ」

 オレアンダーはさらりと言う。しかしその手術も肉体的、金銭的負担も大きくまだまだその方法は一般的ではないらしい。

 アルファが無理やり番にしてしまったり、オメガが意中のアルファをヒートで誘惑し、前後不覚のままうなじを噛ませる事例も少なくない。

 また、たとえ相思相愛で結ばれてもどちらかが死別した場合、片割れは精神崩壊してしまう例もある。

 番の結びつきは精神にも強い影響をおよぼすのだ。

「そこである魔法を開発したの。再生魔法の一種でうなじに特殊な術をかけ、噛み跡を補修するんだ」

 うなじを噛まれ番の契約を結んでも、数ヶ月すれば自然治癒で元の状態に戻せるらしい。本当なら画期的な魔法だ。

「すごいなっ」

 クシェルは驚きで声を上げ、それを聞いたオレアンダーは満足気に頷いた。

「もし望まぬままに番になってしまっても、この魔法をあらかじめかけておけば身体の負担が少ないまま元の状態に戻せる。まだ試験段階なんだけどね」

「つまり期限付きで番になれるってことか」

「そう、悪くないでしょ?」

「試験段階ってことは俺が参加するのはその実験ってこと?」

 オレアンダーは神妙は態度で頷いた。

「通報があった以上君のようなオメガをそのまま野放しにはできないんだ」

 ふとオレアンダーの声に厳しさを感じクシェルは視線を上げた。

「ここまで言えば察しがつくと思うけれど、君に与えられた選択肢は三つ」

 オレアンダーは右手の指を三本立てクシェルに突き出す様に迫る。

「大人しく収容所に入るか、その辺のアルファと今すぐ一蓮托生で番になるか、実験参加をし仮の番を作るかの三択だ」

 クシェルはごくりと唾をのみこんだ。

 究極の選択だ。収容所に入るのはもちろんごめんだが、よくわからないアルファと一蓮托生になるのも考えられない。しかし仮でも誰かと番わされるのは抵抗がある。

「…ちゃんと庭の弁償はするから、その、…実験はやっぱり見送れない、か?」

 遠慮がちにクシェルは口にするも、途端にオレアンダーの瞳が鋭い光を放つ。しかしその温度はどこまでも冷めているようだ。

「…甘く考えてるみたいだけど特に魔法暴発。これは由々しき事態だよ。そして番のないオメガに多い事例だ」

「いや、だから、しっかり賠償はするから」

 そもそも彼は庭の被害の弁済をして欲しいだけじゃなかったのだろうか。それまでの緊張感のない空気が一変してたちまち剣呑なものに変わり、クシェルは厳しく糾弾される。

「お金の問題だけじゃないよ…今後の君の所属ギルドや周囲への風評被害も心配だ。やっぱりだんまりはよくないよね、ギルドへ報告した方が…」

 ため息をつき悩まし気に眉根を寄せるオレアンダーだがその言葉はどこまでもわざとらしく見える。

クシェルはそれに苛立ちを感じるも、本当に通報されては困ってしまう。

「わかった、被験者、やる、やる!やるから!」

 クシェルは焦って食い気味に彼に詰め寄った。そんなクシェルの返答にオレアンダーはにっこりとする。

「じゃあ話が早い。まぁさっきサインして貰った契約書は被検の承諾書なんだけどね。いやぁオメガの被験者は少ないから助かるなぁ」

「は、はぁ!?ふざけんな、おまえ最初から」

 彼が身体で払えと言ったのは最初からこの実験への参加を強制していたからだろう。詐欺のようなやり方にクシェルは思わず声を荒げた。

「あれぇ?雇用主にそんな言葉遣い。いいのかな?」

「…す、すみません」

 クシェルは渋々ながら頭を下げた。もうすでに契約はすんでしまっているのだ。何を言っても遅いだろう。

「まあ、被験者の仕事をこなしてくれれば庭の賠償をチャラにすることも考えてあげてもいいよ」

艶然と笑むオレアンダーに脱力しきったクシェルはなにも言葉を発せなかった。


 しばらく魔法で書類を出したり何か書きつけたり、処理をしていたオレアンダーが顔を上げてふと目が合った。

「なあ、相手って男?女?」

「えー?希望あり?対象は男のアルファが大半だよ?」

「…そうか」

クシェルは項垂れた。クシェルは人を遠ざけ続けた生活をしていたせいで経験はないものの異性愛者だ。

「女性アルファは数が少ないからなぁ。それに上昇志向が強いから、伴侶や恋人にはアルファ男性を選ぶ場合が多いね」

 オレアンダー曰くオメガに対して女性アルファは支配欲、男性アルファは庇護欲が働きやすいらしい。

「案外男のアルファの方が優しくしてくれるよ」

しかしクシェルは納得がいかなかった。

 とても目の前の男性アルファであるオレアンダーが自分に対して庇護欲が強そうに見えないからだ。

 釈然としない気持ちでクシェルはオレアンダーを怪訝そうに見つめる。

 しかしその視線の意図を誤解されてしまった。

「…え?そんなに見つめて、もしかして俺が良かった?」

「…そんなこと一言もいってない」

 クシェルはげんなりと答えた。こんな癖のありそうなアルファ男となんて冗談じゃない。

「悪いけど君は趣味じゃないなぁ。可愛げがある子がいい。今気になってるオメガもいるし、ごめんね」

「だから何にもいってないだろ?そもそもこっちから願い下げだ!」

 つくづく癪に触る男だ。憮然として顔を背けたクシェルにオレアンダーはへらりと笑いかけた。

「ちょっと飢えてるけど、そこそこ良識のあるアルファに心当たりがあるから。ソイツを宛てがっておくよ」

「…それ本当に大丈夫なのか」

 オレアンダーは心配しないでと軽くいうものの、クシェルの心中に不安が募る。飢えていると言う言葉が非常に気になる。食欲的なことだろうか。性欲的なことだろうか。どちらも困るが。

「変な性癖は…持ってないはず。きっと、たぶんだけど」

 オレアンダーが相手の情報を喋れば喋るほどクシェルは不安になっていく。あやふやな情報ばかりだからだろうか。

「上手くいけば玉の輿だ。相性が悪くても後腐れない。番の噛み跡は綺麗に消えるし、問題ない」

 ちなみに社会的に信用があるアルファしかこの実験には関われないそうだ。

とはいってもクシェルとしては見知らぬ相手と少しの間だけでも番になるなんて正直ごめん被りたい。

「他人事だと思って…俺は家畜じゃないんだ」

「他人事なんて思ってたらこんなに親身にしないよ」

オレアンダーとしてはどこまでも親切ゆえの行動らしい。人の価値観とは様々のようだ。クシェルにとっては目から鱗だったが。

「まあ寛いでいてよ、番の候補を連れてくるから」

「いや、困るって。ここから出してもらわないと。この後予定があるんだ。それに一体どこなんだここは」

「俺の隠れ家」

「隠れ家?それじゃ場所がわからないだろう?」

「隠れ家なんだからどこにあるか言ったら意味ないじゃない」

鼻で笑われてしまい、クシェルは憤慨した。椅子から立ち上がるとオレアンダーに詰め寄る。

「もう何でもいい。どうしても狩に行かなきゃいけないんだ。元の場所に戻してくれよ。どうせあんたから俺は逃げられないだろう。」

 これだけ能力に差があればいつでも自分なんか探し出せるはずだ。しかしオレアンダーは不思議そうに首を傾げるばかりだった。

「なんで?」

「仕事がある。金がいるんだ!弟の学費が必要なんだ。あいつは俺と違ってすごく頭が良くて優秀なんだ」

「…そんなこと言われてもねぇ」

オレアンダーは面倒くさそうに肩をすくめた。

「とにかく俺は狩にいって金を稼がなきゃならないんだ」

「はぁ?狩りなんかさせられないよ。これから番になるかもしれない相手に引き合わせるんだよ。傷なんかつけられたら困る」

 オレアンダーは取り乱すクシェルを歯牙にも掛けず机の上の書類をテキパキと片付けていく。

「いや、俺は狩りが出来なきゃ困るんだ!」

「相手が付き合ってくれるといいね」

クシェルが切実に訴えるも、オレアンダーは話半分に聞くばかりだった。

 美しい庭を背景に二人の意見はいつまでも平行線を辿った。

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