第52話【彼奴は人を救えぬのか、如何足掻いても】

 ゼーレの企みなど露知らずどころか、彼に利用されていることさえ自覚していない、完全に道化になっているミウリア・エーデルシュタインは、気付かないまま、またニコライと共に茶を飲んでいた。


 彼女からすれば、彼は自分にとって都合の良い存在になってくれるかもしれない存在──急ぎの用事もないため、会話しない理由はない。


 それも無意識に行っている企みで、本人はお釣りと写真を返すついでに会話をしているという認識だ。


 お釣りの方は気にしていなかったみたいだが、写真の方は気にしていたらしく、彼からかなり丁寧に礼の言葉を言われた。ペットボトルのお茶も、お礼として奢られた。


 人に奢られるのは好きではないが、大事な写真の礼としては妥当と感じたので、ここは素直に奢られた。


 好きではないというだけで、絶対に嫌だというほど嫌いではないのだ。


 この間のように喫茶店で、ではなく、購買で購入したペットボトルのお茶を、寮にある学生ホールと呼ばれる場所で飲んでいる。


 ちなみにだが、ユーベルも一緒にいる。

 弱者であるが故に、妙なところで警戒心が強い彼女は、大して親しくない異性と二人で会おうとはしない。


 他にも人がおり、すぐに誰かが駆け付けてくれるところで会う。


 ちゃっかり警戒されているなと思うが、女の子だし、そんなもんかと、ニコライは気にしない。


 ユーベルの目付きの悪さだけは、気にしないということは出来なかったので、そちらからは視線を逸らした。


 最初は睨まれているのかと思ったが、どうやら先天的なものらしい。


 目付きに関しては仕方ないと思えるが、好かれていないという気配が感じる点では仕方ないと思えなかった。


 おかしい。

 彼とはこれが初対面。

 嫌われるようなことは特にしていない筈だ。


 が、すぐに理由を、「ああ、もしかして、こういうことかな」と、頭に思い浮かべることが出来た。


(シュレッケンくんは彼女のことが好きだから、僕の存在が気に食わないんだ)


 ただし、それは、完全に間違っていると断じれるほどではないが、かなりの誤解が含まれた内容だった。


 これでは、ユーベルは恋愛感情、とまではいかないにしても、それに近い感情を抱いている──みたいではないか。


 もしも口に出していたのならば、ユーベルは即刻否定の言葉を口にしていただろう。彼からすれば、侮辱に等しい誤解だからだ。


 自分に対する侮辱ではなく、ミウリアに対する侮辱。


 気が立っているときに言われたのならば、うっかり──公衆の面前であるというのに、相手を殺しかねない。


 ユーベルとニコライ間に、ミウリアがいるため、怪我をするだけになるか、怒りを堪える可能性の方が遥かに高いが、一割くらいの確率で殺されていたかもしれない。


 思っても口にしなかった以上、これは可能性の話でしかないが。


 すっかり誤解しているニコライは、少しだけミウリアの方に寄る。あくまでも自然な形で。彼女ではなく、彼女が手にしているペットボトルに興味があるような素振りで。


「それ美味しいの?」


「えっと、そうですね、私は、その……美味しいと感じますが……ねっとりとした甘さ、と、言いますか……お味に、癖がありますので……人を選ぶ味、だと、思います……」


「そっかぁ。好きな人は好きだけど、そうじゃない人はそうじゃないってことでしょ? ちょっとそれだと買うの躊躇しちゃうなぁ」


「……………………」


 さり気なく距離を縮めてきた彼に、少しだけ苛立ちを感じながらも、それを眉根を寄せる程度に留める。


 ニコライには嫉妬か何かと映っているが、関係性を考慮していない距離感に訝しむ気持ちがあるだけで──そこに嫉妬という感情は存在しない。


 親しくない異性相手にそこまで距離を詰めるのは失礼ではないか──という、彼にしては真っ当な感情だ。


 ニコライではなく、ファルシュやゼーレがこのようなことをしていたのなら、別に気にならなかった。自分よりミウリアに付き合いがあり、自分よりも彼女と親しい存在だからだ。


 ユーベルは実のところ彼女が誰に恋しようか、誰と恋人になろうが構わないと思っている。それで彼女が幸せならという枕詞まくらことばが先頭に付くが。


 右も左も知らない世故に長けていない己に、世間というものについて一から十まで色々教えてくれた彼女に、ただ幸せになって欲しい、それだけなのだ。


 平和とは程遠い行動ばかりするユーベルだが、平和を祈ったことがない一部の友人達と違い、彼は人並みに平和を祈ったことがある。


 世界の平和を、それなりに望んだことがある。

 ミウリアの平穏のために、祈ったことがある。 


「それで……その、ドゥナエフさん──あの写真の女性に、私、似ていると、思いますか? こうして、その……普通に、話を、しても、そう思いますか?」


 ミウリアは似ていると言われたいのだろうか、似ていないと言われたいのだろうか、どちらなのだろうか。


 彼女から見せて貰った写真の女性の姿を、ユーベルは頭に思い浮かべる。


(繊細そうな果敢ない婦女。顔の造形については分からぬが、雰囲気はミウリアさんに似ている)


 芳紀ほうきと言える頃──この佳人が、今のミウリアくらいの年齢のときは、まさに今隣にいる彼女のような雰囲気を纏っていたのではないかと想像してしまうほど、似たものを感じた。


 写真の麗人が窶れていることを抜きにしても、推しへの贔屓目を抜きにしても、写真の別嬪の容姿はミウリアほど整っていない。下手な女優よりも整った容姿をしているが、彼女の方が整った容姿をしていると、一〇〇人いれば一〇〇人は声を揃えて言うだろう。


 ミウリアが弁天だとすれば、写真の女性は美女──天女と人間を比較するようなものだ。


「そうだねぇ。性格は似てないけど、雰囲気はやっぱり似ているかなぁ。あの人もミウちゃん同様──独特な雰囲気を纒っていたからね」


 翡翠の瞳の中に、遠き日々の淡い記憶が一瞬だけ映し出され、検討され、そしてゆっくりと奥へと仕舞われる。


 余程写真のことが大事だったのだろう。

 今も大事なのだろう。

 ユーベルにとってのミウリアに匹敵する程度には、何にも代え難い存在なのかもしれない。


「そう、ですか……」


 どういった感情が込められているのは判然としない返答だった。


 無意識に、これは都合が良いと考えているのだろう。意識的にそう思っている訳ではないため、意識している部分では、「そんなに似ているだ」程度の気持ちしかないのかもしれない。


 彼女が無意識の領域で浸っている思考については理解が及ぶユーベルも、意識の領域で浸っている思考については理解が及ばないのであった。


「そうなのですね……生きているなら、お会いしたかったです……」


 生きているなら会ってみたかった、これは本心から言っているのか、それともニコライの好感度を稼ぐために──庇護欲を唆らせるために言っているのか、どちらなのだろう。


 本心だが、口にすれば庇護欲を唆らせることが出来ると考えて、口に出したのかもしれない。


 それも自覚してやっているのではなく、自覚していないやっているのだろうが。


 頰被りを貫き通しているが、推しのさり気ない自然な媚態を俯瞰するというのは妙な気分だ。


 誰に媚を売ろうが、誰を利用しようが、彼女個人の自由であるため、それなりの理由がなければ苦言を呈する気はない。きっと己も、彼女に利用されている側なのだろうから。


の人は、音無おとなしいが、決して真面目な人ではないからな)


 真面目な振りをすることは出来ても、真面目になることは出来ない。


 根っこは、我が身が死ぬほど可愛いだけの、我欲が死ぬより可愛いだけのクズ──ということになってしまうのだろう。


 クズを極めたファルシュと仲が良くなるのも、必然のことだったと言えなくもない。


「僕も会わせてあげたかったよ」


 ミウリアの言葉は正解だったらしく、彼は淋しげだが、僅かな嬉しさを感ぜられる声を発した。


 彼はもし、彼女の掌の上で転がされていると気付いてしまったのならば、そのことを一体どう思うのであろうか? そのことに一体何を思うのであろうか?


 ユーベルのように、それでも構わないと思うのか。当て付けで自殺した彼のように、憎しみを抱くのか。ファルシュのように、別にどうでも良いと思うのか。ゼーレのように、逆に利用してやるのか。


の様に沢山の人間を利用して来た御方おかたであっても、利用されてしまう事も有るのだな……)


 弱いから人を利用しているが、弱いから利用されてしまうことがある。


 それだけの話だが、何だか皮肉めいたものを感じてしまう。


 今このような思考に耽っているのも、今こうしてミウリアとニコライが接触しているのも、何もかもゼーレの計算通りだったりするのだろうか。


(ウテナの話を聞く限り、奴の場合、細かい部分はあまり干渉していない。までも、大まかに、漠然とこうなれば良いと考えているだけだ)


 とはいえ、全く計算していない訳ではないのだろう。そんな杜撰さがあれば、彼の企みなどとっくの昔に頓挫している筈だ。


(事が望んだ通りに運べば其れで良し。事が望んだ通りに運ばなくても其れで良し)


 ゼーレに敗北はない。

 あるのは失敗だけだ。


 今回は、成功した暁には、人が死ぬ。


 誰が死ぬのだろうか。

 誰でも良い。

 彼女でなければ、それで良い。


「会わせてあげたかった、か」


 それはどちらに対して述べているのかと思い、何となく呟く。ずっと黙り込んでいるのも不自然かと思い、それを誤魔化すためでもあった。


「自分と似た雰囲気の人と会えるなんて、滅多にないことだろう?」


 だから、全く深い意味はなかったのだが、向こうはそう受け取らなかったらしく、韜晦とうかいするようにそう言った。


 意図せず、彼の痛いところを、つついてしまったらしい。触れて欲しくないところに、触れてしまったらしい。


「確かに、それもそうですね……」


 ミウリアはそのことに気付いていないのか、気付いていないことにしたのか、いつもの調子を崩さない。


「雰囲気が、似ているだけで……やはり、その、私と似ている訳ではない、のでしょうが……しかし、本当に、少しでも、私と似たところがあるのであれば……是非お会いしたかったです……」


 強さを排除し、弱さのみを頼りに生きている人間は、彼女くらいしかいないだろう。


 ゼーレを理解者が現れず、彼に共感する者も現れないのだとしたら、ミウリアの場合、理解者は現れても共感者は現れない──後は、強いて言うなら、同情する者くらいだ、彼女の前に現れるのは。


 ストラーナがミウリアに対してそれなりに優しいのは、彼女に対する同情心があるからなのかもしれないと、不意にユーベルは思う。


 自分の弱さを頼るという方法でしか生きられない、そうする以外の生き方を知らない人間が現れれば、他者への同情とは遠い位置にいる彼女であっても、うっかり同情の念が湧き上がってしまうのだろう。


 うっかり同情し、うっかり優しくしてしまい、うっかりここまで来てしまった。


 カメリアに殺されることを受け入れた彼女を引き止め、引っ張り上げるくらいには、どっぷり同情と好感を抱いている。


 同情度と好感度、どちらが高いのかと言えば、前者の方なのだろうが、それでもらしくもない人助けをしてしまう程度には、好感を抱いているのは間違いない。


 揺るがしようのない事実だ。


 ウテナがゼーレのことを寂しいと評したのは、非人道的なストラーナより、人間味に欠けているからだろう。


 彼の場合、真摯にミウリアを助けようとは思わない。


 助けることは出来ても、救うことはない。

 巣食うことはあれど、救いをもたらすことはない。


(成る程、彼奴あやつは人を救えぬのか、如何どう足掻いても)


 妹(前世)であるウテナでも、恋という形でラインハイトに呪いと同時に救いをもたらしているというのに。


 そんなことを考えると、鋭い視線を感じ、不意にそちらへ顔を向ける。


 黒々とした、粘着質な負の感情の眼差し。

 その正体は、リューゲの黒柿色の瞳。


 彼の近くにはゼーレがいた。

 つい先程までゼーレと彼は何かを話していたらしい。


 ユーベルと目が合うと、ソッと視線を逸らし、エレベーターの方へ移動した。


(ミウリアさんに怒りの矛先が向いても良いようにしておこう)


 視線に気付いていない二人にはあえてこのことを告げず、こっそり心の中でそのようなことを考えた。

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