第45話【誰かの言葉でしか語れない】

 エンゲルの問いに、「時間が掛かっているのかもしれないね……多分あと少しで帰って来るとは思うけど」と、ラーシャは答える。


「それなら待とうかな。エンゲルはどうする?」


「今日は珍しく、特にこの後、急ぎの用事はなかいから、キミと同じく待たせて貰うよ」


「ラーシャ、おかわり頂戴」


 ウテナは空になった珈琲のカップを差し出す。それに続き、エンゲルも飲み干したカップを差し出した。


「珈琲で良い?」


「いいよ〜」


「私もそれで構わない」


「ナチュラルに自分もおかわり貰おうとしているね、エンゲルくん。別に構わないけど。さっきと同じで良い?」


 二人が頷いたのを確認すると、差し出すカップを受け取り、新しい珈琲を淹れる。


「あ、そうだ。まだフェージェニカ来ないみたいだし、エンゲルに訊きたいことがあったからさ、訊いても良い?」


「答えられることなら」


「それ……私がいるところで訊いても良いことなのかい? 私が聞いても大丈夫なの?」


「ラーシャに聞かれて困ることなら、こんなところで訊かないよ」


 勝手に来客用の茶菓子を取り出すと、ウテナはそれを頬張る。口に入れたものを嚥下すると、質問の内容を口にした。


「お前はさ、一般的に美しいとされているもの、宝石とか、青空とか、そういう綺麗という言葉で表現されることが多いものを、美しいとか綺麗とか思えない──で、合っているよね?」


「そうだね。頭ではそうだと分かっているのだけれど、心ではそう思えない。例えば、ウテナくんの顔立ち。一般的に見ればそれなりに整った顔をしていると分かるけど──心ではそう思えないのだよ」


 一体何を聞かされているのだと思いながら、ラーシャは珈琲で満たされたコップを二人の前に置く。


(えぇ……ウテナちゃん、普通に可愛いと思うんだけどな……)


 頭ではそうだと分かっていても、心ではそうだと思えないということなのだろうが、その辺りの感覚がよく分からなかった。好みではない、ならまだ分からないでもないが。


「で、唯一美しいと思えるのがミウリアだけ」


「そうだね」


「それだけだと、美しいの基準が高いだけに思えるけど──絶世の美女であるアインツィヒのことは、美しいとか綺麗とか思えないんでしょ?」


「まあ、そうだね」


「ミウリアと似た系統の顔を美しいと思う訳でもないし、顔が好みという訳でもない。本当にミウリアだけを美しいと感じる」


「ああ──ミウリアくんと出会ったとき、私は灰色の世界に色素が付与される感覚だったよ」


 頬を上気させ、法悦に浸り、うっとりとした調子で語る。


「初めての感覚だったから、最初はあの高揚の理由が分からなかったけれど、ありとあらゆる人間の過去を視て来た経験が生きたと言うべきか、そのお陰ですぐにこれが美しいという感覚だと分かり、ああ私は彼女を美しいのだと感じたよ。美しいという感情はこんなにも素晴らしいものだったのかと、忘我の境地に入っていた」


 その様子を見ていたラーシャは、「あれ本当にエンゲルくんなの? 似た姿をした別人じゃなくて?」と、割りと本気で中身が入れ替わっている可能性を疑った。


 彼が知っているエンゲル・アインザームは、常に退屈そうな男で、気力という気力がなさそうな人物だったため、そんな彼が分かり易く感情を表に出し、意気揚々と言葉を発している姿は、驚天動地という言葉が似合うくらいの衝撃があったのだ。


「長くなるからそこでストップ。私が続きを話せなくなるから」


 まだまだ語り足りないエンゲルの言葉を遮り、ウテナは続きを話す。


「最近流行っているものについて、クラスメイトがあれこれ騒いでいるけど、自分はそれに乗れないという、思春期の人間が通る関門──憂鬱がずっと続いていたところに、それを晴らしてくれた存在が現れて、はっちゃけた訳だ」


「何だろう。エンゲルくんの気持ちが少し理解出来た気がする」


「思春期という言葉で片付けられるのは気に食わないが、ウテナくんだけでなく、ミカエリスくんもそう言うのであれば、まあそういうものなのだろうな」


 一時期は本気で悩んでいたため、ありふれた言葉で片付けられたくなかったが、自分の悩みというのは、案外傍目からはそのようなものなのかもしれない。ウテナだけでなく、ラーシャも言うのであれば、そういうものなのだろうと己を納得させ、一瞬だけ湧き上がった感情を呑み込む。


「ここまでは前提なんだけど……エンゲルってミウリアに対して、美しい以外に、どんな感情を抱いているの?」


 前々から訊こうと思っていたことであり、いずれ訊こうと思っていたことだった。


 何となくタイミングを伸ばして、今の今まで訊けなかった。


「唯一無二の存在」


「それは美しいと思うから?」


「決してそれだけではないよ。それが一番の大きな理由ではあるけれど」


「それなら具体的に話してくれない? 話せるならで構わないんだけど」


「私に美しいという感情を抱かせてくれた、尊敬が混じった感謝の念もそうだけど──その気持ちは大きく変化することはなかったけれど、そこに別の感情が加わり、彼女のためなら何でもしたいという信念に変わっていった。彼女は私にとって特別な存在なのだよ。私は彼女を信じているんだ。だから全てを託している」


「…………」


 ウテナは三分程考え込むと、ゆっくりと口を開く。


「ミウリアの──過剰に自分を弱く見せる演技に関してはどう思うの?」


「度が過ぎて相手を過保護な保護者にしてしまうところは心配ではあるけれど、彼女は私にとって特別であるということを抜きにしても、特別側の人間であることには変わりない──特別側の人間というの得てして変わっているものだろう? 一般人から見た私が変わり者であるのと同じように」


「まあ、うん、確かにエンゲルくんは変わっているけども」


 変わり者──もっと言葉を選ばず言えば、傾奇者であるエンゲルに、変わっていると言われるミウリアという少女は、一体どのような人物なのだろうか。


 ラーシャはミウリアという存在に興味が湧いた。ウテナに対する興味と比べれば薄いが。


「今、彼女は私の存在を欲してくれているみたいだけれど、将来的には私など必要なくなるだろうね。過剰に自分を弱く見せる演技がもっと上手くなれば、確実に不要だろう」


「……ああ、うん、なるほど」


 何故ミウリアが満足出来ないのか──エンゲルを手に入れたと思えないのか、よく理解出来た。


 エンゲルが変わるか、ミウリアが変わるかしない限り──一生彼女は満足しないのだろう。出来ないだろう。


「どうしたんだい?」


「別に。ミウリアが可哀想になっただけだよ」


「?」


「これ、どう説明したらいいのかな──」


「ウテナちゃん、私は一体何を聞かされているのかな?」


 ウテナがエンゲルに意識を向け、すっかりラーシャのことを忘れていることに気付き、知らない話を聞かされた挙句、存在を忘れられては堪ったものではないと、少し語気を強める。


「あぁ、ごめん、ラーシャ」


「流石にこれ以上遅くならないだろうし、それ以上話していたらキリないでしょ。一端切り上げた方が良いんじゃない?」


「ああ、うん、なら、そうするわ。上手く言葉で纏められないし」


 この話は、ここで一度打ち切られた。


「エンゲルさん……少し、あの、お時間を頂いても宜しいでしょうか?」


 家に帰り、自室でPCを操作していると、扉からひょっこり顔を出したミウリアが、声を掛けて来た。


 PCを閉じて、「大丈夫だよ。ミウリアくん、どうしたんだい?」と言えば、彼の部屋の中に入って来る。


 椅子に座っているエンゲルに近付いたかと思えば、彼の頬に手を添えた。


「どうしたんだい?」


 深碧の瞳をジッと見詰めながら、もう一度問い掛ける。


「………………………………………………目」


「め?」


「……目を……その、閉じて、頂けませんか?」


「んん? ああ、分かった」


 言われた通り、目を閉じる。

 どうしたのだろうか。

 何かをするのだろうか。


 大人しく状態を維持していると、頬に添えられた手が離れ、髪に触れられているような感触がする。せめて一言くらい言葉を発してくれないかと思っていたら、エンゲルさんと呼び掛けられた。


 目を閉じたまま、「何だい?」と言えば、再び頬に触れられ、力を込められた。


 痛みはない。


「目……開けて、下さい」


 瞼を持ち上げると、複雑な感情が綯い交ぜになっていると分かる表情をしているミウリアが、視界に入る。


 不機嫌とも落胆とも取れる表情で、どのように声を掛けるべきなのだろうかと、思考を巡らせていると──


「何もないです……」


 明らかに何でもないとは正反対だと判る声を発し、エンゲルから数歩距離を取る。


(知らぬ内に、何かをしてしまったのだろうか)


 だとしたら、一体何をしたことで、こうなってしまったのだろうか。


「私はキミを怒らせるようなことをしてしまったのだろうか? 怒らせるようなことでなくとも、何か失礼に値するようなことをしてしまったのだろうか? 心当たりはないが、もしもそのようなことをしていたのなら、謝罪させて欲しい。申し訳ない」


 とりあえず謝罪の言葉を口にすれば、純粋な驚きの後、少し寂しそうに首を横に振る。


「違うんです……」


「違う?」


「私が勝手に面倒臭くなっているだけです……」


「そうなのか」


 所謂というものが分からなくて、過去に付き合った女性全員から別れを切り出されているのだ。年頃の少女の内心など分かる筈がない。


 ミウリアがジッと俯いて黙り込むと、不意に顔を上げ、自ら数歩離した距離を縮めると、意を決して──顔を近付けて来る。


 吐息が掛かるくらい顔を近付けられたかと思えば、柔らかく触感の良い桜唇おうしんを、エンゲルの頬にくっ付けた。


 数秒ほど桜唇をくっ付けられると、ゆっくりと離れていく。


 頬にキスをされたと理解するのに時間を要することはなかったが、その意図を理解することは出来なかった。


 彼女は、何がしたくて、このような行動に出たのだろうか?


 か弱く、繊細な、思春期の少女の何かなのだろうか──人の気持ちを推し量る能力に関しては、幼稚園児に劣っているため、きょとんとした表情を浮かべたまま、キスされた頬に手を添える。


「エンゲルさん、私のこと好きですか?」


「好きか嫌いかで言えば、勿論好きではあるけれど、そのような言葉では表現し切れないよ。もっと崇高な感情だ。麗しく、美しく、尊い天使への感情は、並大抵の言葉では表現出来ない。表現すればするほど、陳腐になってしまう。それでもついつい言語化してしまうのは、良くない癖だ。自覚はあるのだが、どうも自制出来なくて。本当にキミの存在は私を狂わせる」


「……………………………………そうですか」


 トボトボと出て行くミウリアを引き留めようかと思ったが、露骨に肩を落としている姿を目の辺りにすると、下手に引き止めるのも良くないのではないかと、伸ばした手を引っ込める。


「……貴方、実はサディストなのですか?」


 風呂に入るために一階へ降りたとき、珍しくメランコリアから声を掛けて来た。


「そんなこと、初めて言われたのだが……何故そんな話が出てくるんだ?」


「あの子はあの通りか弱いなので、当たり前の話ですが、ちゃんと傷付くのですよ」


 鉄色の瞳は相変わらず濁っており、生気という生気を全く感じないが、ちゃんとエンゲルのことを見据えているように思った。


「私があのなら、かなりショックを受けると思います」


「…………」


 何が言いたいのか分からないが、静かに耳を傾ける。


「貴方はあの子のことを見ちゃいませんが、あの子に愛想を尽かされたらショックを受けると思いますよ」


「どういうことだ?」


 その問いに返事が来なかった。

 いつものメランコリアに戻り、布巾を手に取り、テーブルを拭き始めた。


 メランコリアから掛けられた言葉の内容は、よく分からなかったが、自分のミウリアへの態度について、何か言いたかったことは分かった。


(誰かに訊けば分かるのだろうか)


 仕事以外で人に訊くということをあまりしないエンゲルだが、ミウリアに関わることなので、人に訊いてハッキリさせた方が良いのではないかと考えた。


「言葉通りの意味だぞ。俺は一〇も歳上の相手に国語の授業をしないといけないのか?」


 後日、それとなく、ファルシュに話してみたところ、このような反応をされた。


「仕方あるまい。この男、頭と身体ばかり成長して、精神の成長しなかったのだからな。哀れな奴なのだ。其の様な云い方をするべきでは無い」


「ユーベルくんの方が酷いことを言っていると思うけどね」


 何故かやって来たユーベルから、唐突に暴言を吐かれ、ついツッコミを入れてしまう。


「ユーベルは基本的にこういう奴だからな……ミウリアにだけ優しい男だからな」


 それどうなんだ──と、胸中で述べてしまうエンゲルだったが、それを口に出したら、本題から逸れてしまうと思い、黙っていることにした。


「で、エンゲルがメランコリアに掛けられた言葉についてなんだが、要約すると『ミウリアのことちゃんと見てやれよ』『じゃねぇと後悔するぞ』だからなぁ」


「???」


「マジでそれ以外の意味もなければ、それ以下の意味もないし、俺から言えることはこれぐらいだぞ」


「当然の呼び出しに応えてやっているだけ有情だぞ──平素のファルシュなら絶対に無視しているのだからな」


「確かにそうだけど、私、ユーベルくんは呼んでいないんだけどなぁ。ウテナくんは呼んだ記憶があるのだけど、何故ここにいるのだい?」


「ウテナの代わりみたいなものだ」


「人選ミスにも程がある」


 もっとまともな人間がいただろう。

 ゼーレとか、アインツィヒとか。

 何故、寄りにも寄ってユーベルなのだ。


「……もしかしてウテナくんは、私に嫌がらせしたいのだろうか?」


「そう思う気持ちは分かるが」


「おい」


「アイツは嫌がらせしようとか微塵も考えてねぇぞ。アイツが嫌がらせをするなら、この程度じゃすまねぇだろ。ユーベル単体を送り付けるぐらいはするぞ、本気で嫌がらせするなら」


「それもそうか」


「納得するな。貴様ら、僕を何だと思っている」


「衝動で動く馬鹿」


「クラッシャーとかじゃない?」


 ファルシュ、エンゲルの順に、思ったことを口にする。


「人の命は奪うが、物はあまり壊さぬようにしている。証拠隠滅が面倒臭いからな。だからクラッシャー呼ばわりは得心がいかない」


「ツッコミ待ちかい?」


「違う」


 エンゲルの発言を否定した後、ゴホンと咳払いし、「真面目な話……」と、強引に話題を切り替える。


「貴様が後悔しないであれば、別に今の儘でも問題ないのだろうが、メランコリアの言う通り、確実に後悔することになるだろうし、ミウリアさんに対する態度と姿勢を軽く見直した方が良いと思う。ミウリアさんにも問題が有るけれど、貴様にも問題が有るのは事実な訳だから」


 ミウリアはエンゲルのことを欲している。それは純然たる所有欲から来るもので、そこに後悔とかは含まれていない。


 人によっては今の段階で充分手に入ったと思えるかもしれないが、彼女はそう思わなかった。


 ──カメリアのように、自分を見てくれないからだ。


(コイツら、面倒臭ェな……)


 いっそのこと、一度腹を割って話してみれば良いのに──そう思うが、それが出来るのならば、こうはなっていないのだろう。


 外野が口を出すことではないが、今は外野が口を出さなければならない状況だ。ここからどうにかすることが出来る二人ならば、ここまでにどうにかなっている、ここからどうにかさせることが出来る一人ならば、ここまでにこのような状況・状態になっていない。


 エンゲルは語れないのだ。

 ミウリアはこれが好き、ミウリアはこういうことをよくする、ミウリアのここが好き、もうリアはこういう人間だという様ことが、自分の言葉では語れない。誰かの言葉でしか語れない。


 本人にそのつもりはないだろうが、ミウリアの内面には関心や興味がないと突き付けていると同義だ。


 自分が愛し、尊び、献身を与える存在としての興味関心はあっても、人間性に関しては興味も関心もない。


 ──そのように感じているのだろう、ミウリアは。

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