第10話【私から一生逃れられると思うなよ】

 ラインハイト・レッヒェルンが、ウテナ・ヴォルデコフツォの婚約者になったのは、お互いが八歳のときだった。


 婚約者として彼女に出会ったとき、彼女はどうでも良さそうな表情を浮かべていた。形式的な言葉以外口にせず、彼のことなど全く見ていなかった。


 良くも悪くも興味がない態度のお陰で、ある意味気が楽になった。当時の彼は、婚約というものについてあまりよく分かっておらず、婚約者としての振る舞いを求められても困るだけだったからだ。


 いつだったか、棚の中にあるチェス盤を眺めていたら、「興味ありますか?」と、珍しく挨拶以外で向こうから声を掛けて来た。


「ルールは知っているが、やったことはない」


「なら、やってみますか?」


 彼の返事を待たず、彼女は棚からチェス盤を取り出し、駒を並べていく。


 やってみますかと訊いておいて返事は聞かないのかと思ったが、断る理由も特にないため、思ったことは口に出さず、チェスの相手になった。


 普段からチェスを嗜んでいるのか、ラインハイトは彼女に一度も勝てなかった。後半はそこそこ奮闘したが、それでも全くと言っていいほど勝てると思えなかった。


「やったことがない割りには強いな」


 このとき初めて、彼女はラインハイトに対してタメ口で喋った。


「ルールは知っているから、一応……キミは普段からチェスをしているのかな? 凄い強いな」


「父から、勝ち方を教わっただけで、私自身はそこまでチェスが強い訳じゃない」


「父……」


 伯父に引き取られる前は、母親と二人で暮らしていた、父親は誰だか分からない──そのように聞いていたため、彼は驚いてしまった。流石に失礼だと思い、慌てて取り繕うとしたが、真正面に座っていたため、彼の驚きはしっかり伝わっていた。


「何度か会ったことがあるだけだし、父親と呼べるような相手じゃないんだけどな。そのときに、偶々チェスでの勝ち方を教えてくれた」


 父親と呼ばる相手じゃないと言う割りには、どこか親愛を感じる声だった。嫌な感情を持っていないのだということは、聡くない八歳児の彼でも察せた。


「あの人はチェスが強いみたいだけど、お母さんはもっと強かったらしい」


 ビショップの駒を弄りながら、「お母さんにはチェスでは一回も勝てなかったみたい」と、懐かしそうな表情で語る。


 両親のことを語る彼女の姿を見て、おかしな話だが、彼は初めて彼女も人間なのだと思えた。


 常につまらない冷めた表情をしており、形式的な言葉しか話さないため、何となく同じ人間だと感じられなかったのだ。人間味というものを、全くと言っていいほど感じられなかったのだ。


「次は」


「?」


「次は、いつ来ますか?」


 去り際、いつもは挨拶以外の言葉を投げ掛けない彼女が、次の訪問する日を訊いて来た。保護者である伯父がいるからなのか、タメ口ではなく、敬語だった。ただの気紛れだったのかもしれないが、「来月には来れると思います」と答える。


「そうですか。お気を付けて」


 としか返って来なかったが、心做しか残念そうに見えた。


 それ以降、彼女は形式的な言葉以外を口にするようになり、自分のことを話すようになった。どうやら彼女に気に入られたらしいのだが、どこを気に入られたのかよく分からない。チェスの相手として気に入っている訳でもなく、話し相手として重宝している訳でもなかった。


 一度気になって訊ねてみたことがある。


 そのとき返って来た答えが、「……一緒にいて苦じゃないから」と言われたが、良く分からなかった。


「私がヴォルデコフツォ家を滅茶苦茶にして、ラインハイトのお父さんも滅茶苦茶にするって言ったら、どうする? ラインハイトのお父さんだけじゃなくて、多くの人を滅茶苦茶にすると言ったら……お前はどう思う?」


 ある日、二人切りになったとき、ウテナが唐突にそのようなことを言い出した。ラインハイトもウテナも九歳になる年の出来事だった。


「キミがそうしたいのなら、そうすればいいと思う」


 この頃には、彼女が家での扱いが良くないことや、自分の父親が彼女のことを尊重していないことを子供ながらに感じており、滅茶苦茶にしたいと思うのも無理はないと思っていたから、そう答えた。


 ラインハイトが想像する滅茶苦茶と、ウテナが思い描いている滅茶苦茶は違うものだったが、そんなことは彼女も百も承知だっただろうが、彼の返答を聞くと、意を決して次のような質問を投げ掛けて来る。


「お前はお父さんが死んだらどう思う?」


「えっ」


「ある日突然死んでしまったら、どう思う?」


 通常ならばどうしてそんなこと問うのかと言うべきなのだろうが、何故かそのような言葉が出て来ず、「よく分からない」と、答えてしまった。


「私はお前のお父さんが嫌い。お前がどうなのかは知らないけど」


 そう言って、服越しに彼の背中を撫でた。


「ッ‼︎」


「お前のお父さんがお前にしていること、私は気付いているよ。服の下が決して綺麗じゃないってこともね」


 後にも先にも、彼の父親が自分の子供を虐待していることについて、彼女が言及したのはこのときだけだった。


 ウテナが一〇歳になってから数日もしないで、ヴォルデコフツォ家の当主は彼女の伯父から、彼女の従伯父に変わり、彼の父親は死んだ。自殺だった。


 父親の自殺はウテナが仕組んだことだった。現場にはウテナが居合わせいたらしい。状況的に殺人を疑う者もいたが、警察によれば自殺で間違いないようだ。仮に殺人だったとしても、当時一〇歳の子供であるウテナが犯人ではないことは間違いないらしい。


「お前の父親なだけあって見た目は綺麗だったけど、それ以外は本当に醜悪だったよな。中身に見合う死に姿で胸がスッとした。あんな奴、いなくなった方がいいんだよ」


 寒い風が吹く中、座り込んでいる彼とは対象的に、彼女は清々したと言わんばかりの声を出す。


「…………」


「何だよ、黙り込んで。あんな奴でも死んで欲しくなかったとか、今更ながら感傷的な気分になったりしているの?」


「違う、そうじゃないんだ」


「じゃあ何なのさ」


「父が亡くなってから知ったことだが……父はキミを道具として見ていた」


「そんなこととっくの昔に知ってるけど」


「キミのことを尊重していないとは気が付いていても、道具として見ているとは思ってもみなかった……私は今までキミとの婚約の意味を、よく理解していなかった」


「何が言いたいんだよ」


「……ウテナは理解していた」


「だ、か、ら、お前は何が言いたいんだよ」


「両家から道具扱いされていることに気付かず、のほほんと能天気にキミと一緒にいたいと思っていた自分が恥ずかしい……」


「は?」


「このままキミと添い遂げられるなら、キミの婚約者になれて良かったと思っていた」


「……………………」


「道具のように扱われていたキミからすれば、非常に無神経な振る舞いをしていたと思う。私の父は、キミと私を結婚させ、それからヴォルデコフツォ家を手中に収めるつもりだったらしい。キミは気付いていたみたいだが」


「まあ……気付いてはいたけど。そんなことよりも、早く一緒に帰ろうよ。風邪引くよ」


「そんなことも知らずに、私はキミとの婚約を喜んでいた。ある意味ではキミを裏切っていた。キミと一緒に帰るなんて無理だ」


「潔癖過ぎるな……お前。面倒臭い奴」


 風が吹く中、ウテナは黙り込んで長考する。一〇分程度考え込むと、彼に手を差し出しながらこう言った。


「じゃあお前はこれから一生私の下僕ね」


 座り込んだまま、彼ははウテナが差し出した手を凝視する。


「早く帰るわよ。いつまでも自分を主人をこんな寒々しい室外に置いておくつもりだ? 下僕なんだから。主人である私の命令は絶対だろ。異論は認めない。お前は下僕としてこれから一生私に仕えるのよ」


「………………」


「みっともなくて、見苦しくて、見窄らしいお前のことなんて、誰も欲しがらないでしょ」


「………………」


「可哀想だから、私は一生欲しがってあげる。誰もが欲しがらないお前を」


「………………」


「さあ、早く帰るわよ」


「はい……お嬢様?」


 半ば混乱しながら、ラインハイトはウテナの手を取った。


 ──婚約者という関係から、主人と下僕という関係になった日のことを夢に見た彼は、懐かしいと思いながら上半身を起こす。


 パジャマから普段着に着替える際、肩から背中掛けて出来た傷が気になり、ついそこに視線を向けてしまう。他の傷は綺麗に消えたが、この傷だけは痕が残ってしまった。


 普段着に着替えた後、リビングでテレビを見ているウテナに「おはようございます、お嬢様」と、声を掛ける。彼女はおはようと返した後、ミルクティーを淹れるように命令した。ミルクティーを淹れ、カップを彼女の前に置く。


「お嬢様は、どうしてエーレ・ユスティーツに、あのようなことをしたのですか?」


 あの日以降、エーレはウテナやラインハイトの顔を見る度に、怯えて逃げ出すようになった。それを周囲に不審がられても、彼は何も言わない。ただただ怯えるのみ。あそこまで追い詰めるのだから、それなりに理由があるのかと思ったが、そんなことはなかった。


「邪魔になるかもしれなかったから」


 酷い理由だ。理不尽この上ない。しかし本当のそれが理由なのだとしたら──


「何故お嬢様は私を下僕にしたのですか? 邪魔になるかもしれない存在という意味では、私も当て嵌まると思うのですが」


 真っ先に、ラインハイト・レッヒェルンを切り捨てるべきなのではないか。


「ラインハイトのことは好きだから。エーレ・ユスティーツは違う。それだけの理由だよ」


 何を馬鹿なことを言っているんだと言わんばかりの反応だった。分かり切ったことを聞くなと言いたげな様子だ。


「お嬢様が私のことを気に入って下さっていることは存じておりますが、邪魔になっても切り捨てないほどだとは思いませんでした」


「私はお前のことを一等気に入っているんだぞ」


「存じております。どうしてそこまで気に入られているのかは分かりませんが、一等気に入られていることは、以前から存じております」


「好きでもない男と一緒に住んだりしないし、信頼出来ない男が住んでいる場所に友人を住まわせたりしない」


 ウテナはそう言って、ラジオを弄っているアインツィヒに視線を遣る。


「私はラインハイトのことをとっても好いているのよ。だから婚約者が駄目なら、下僕にするし、下僕が駄目なら──奴隷にでもしようかな?」


「……奴隷ですか。お嬢様に望むのであれば、奴隷にでもなりますが」


 この二人は面倒臭いな──と思いながら、アインツィヒは二人の様子を黙って静観する。普通に素直になればいいのにと思わなくもないが、彼女の性格上、それは無理なのだろう。


「本当に奴隷にでもなるの?」


「お望みならば」


「へぇ。なら、私はお前の首に首輪を付けたいと言っても、鎖で繋いでしまいたいと言っても、監禁して愛玩動物のように扱いたいと言っても、受け入れるの?」


「本気で望んでいるのならば、その通りに致します。私は貴方に一生お仕えするつもりですので」


 滅茶苦茶にしたい──自分が言いたくて言いたくて仕方がないことを、平然と言ってのける彼女が輝かしく見えた。それに、大きな声では言えないが、父親をあの世に送ってくれたことを、非常に感謝している。


 感謝し、大きな恩を感じ、最終的に好きになった。それ以前から気になっていたし、漠然と結構するなら彼女が良いと思っていたが、惚れたのは間違いなくあのときだ。時折どうして彼女に惚れてしまったのだろうと思ってしまうが、好きという気持ちは変わらない。


 どれだけ極悪非道な人物であろうと、どれだけ傲慢な振る舞いをしようと、どれだけ他者を平然と踏み付けにする人物であろうと──知れば知るほど、良い部分より嫌な部分の方が目立ってくるが、それでも好きという気持ちは変化せず、寧ろ増していった。


(首輪を付けられようと、鎖で繋がれようと、監禁されようと、きっと私は彼女のことを好きでいるのだろう)


 それぐらい彼女のことが好きだ。


「……冗談じゃないけど、心の中ではそうしたいと思っているけど、私は執着心に溺れて、好きな相手を愛玩動物扱いする奴になりたくないから、思っていてもよっぽどのことがなければ実行しない」


 これだけの執着心を持ちながらも、それを前面に押し出すことはせず、本人なりに自制しようとしていることに疑問を持ったが、『好きな相手を愛玩動物扱いする奴』が、誰のことを指しているのかを知っているため、アインツィヒはそういうことかと納得してしまう。


「だけど、私はお前を手放す気はない。それするぐらいなら、お前を殺す」


「殺すのですか?」


「殺して綺麗に保存するかな? あくまでも殺すしかないなら」


「あくまでも殺すしかにならということは、殺さないという選択肢が選べるならそちらを選ぶということでしょうか?」


「当たり前じゃん。好きな相手を何で好き好んで殺さなきゃいけないのさ。どうしようもないときは、最低でも監禁する、とか、その程度のことで済ませたいよ」


 監禁はその程度で済まないと思うが、そこをツッコミを入れる勇気は、ラインハイトにはなかった。言ったら知らなくて良いことまで知るかもしれないと思ったからだ。


「まあ、とにかく、私から言えることは一つ」


「…………」


「私から一生逃れられると思うなよ──ということだ」

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