第31話

 昭和二十年六月三日の午後三時のことでございます。先生は陸軍情報部が用意した九五式小型乗用車に乗られ、知覧飛行場に向かっていらっしゃいました。知覧駅に到着されましたのは前日二日の夜でした。東京は五日前に発たれました。本来は汽車を乗り継いで、三日間で知覧に到着される予定でした。しかし途中、空襲で汽車が止まり、また線路の不通区間もあり、日程はくるっていました。

「しっかし、今日の撮影に何とかでしたなぁ」

運転席の陸軍情報部の職員が言いました。

「ああ、本当に何とかでした」

助手席の興国映画の映画制作部萩原部長が答えました。

「大分で止まった時には、飛行機を飛ばそうかと思いました」

「ああ、あの時は焦りましたなぁ」

その日は、特攻隊の出撃を見送られる先生の写真撮影が行われる予定でした。

「余裕をもって東京を出たのは正解でした」

映画制作部部長が後部座席の先生に振り向いて言いました。先生は黙って頷かれました。

「沖縄の梅雨も、中休みだそうで、まことに好都合の撮影になりますなぁ」と陸銀情報部の職員が言葉を添えました。

沖縄での戦況は非常に厳しいものでした。アメリカ軍の圧倒的な火力によって、首里防衛線が破られました。日本司令部は南の摩(ま)文(ぶ)仁(に)に撤退しました。そこでの戦いは、ただの時間稼ぎでした。沖縄の陥落は明日でもおかしくない状況でした。

この絶望的な持久戦の中でも航空機による特攻は行われていました。太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は『もう持ち堪えられない』とワシントンに打電したほどでした。特攻作戦は効果的でした。ただし、五月中旬をピークとして効果に陰りが見始めていました。特攻に次ぐ特攻で、突入機の投入が滞りました。操縦者の熟練度が下がりました。沖縄が梅雨に入り航空戦が困難になりました。そして何より、レーダーの進歩によって、アメリカの迎撃態勢が整ってきました。本土決戦は間近と思われていました。突入機の温存は課題でした。先生は知覧に来られる前に、市ヶ谷の参謀本部で、内閣府情報局次長に、

「沖縄喪失の後は、すなわち本土決戦である。ここで是非とも、国民のやる気を鼓舞する材料が必要である。現今、沖縄に飛んでいる特攻隊員の勇姿こそまさしく、一億総玉砕の模範である。そしてその出撃の舞台こそが、日本人の偉大な精神力の証である。出撃の写真を新聞に大々的に発表しようと思っている。内田さん、その舞台に華を添えてはいただけないか」と訪問を依頼されました。

 「ずいぶん、ここもやられましたなぁ」

その萩原部長の言葉につられ、先生は窓外にお目を向けられました。ひっくり返ったトラックのすぐ横を車は通り過ぎました。知覧飛行場への道はうっそうと茂った草原の中を一直線に伸びておりました。車は、爆撃の跡を避けながら進んでいました。道の両脇の原っぱの中に何本もの棕櫚の大木が突き出ていました。ところどころに、爆撃された砲射台の覆屋や、給水塔、倉庫が見えました。先生はその光景を横目に、

(絹子って、健一郎叔父さんの恋人の名前じゃあないかしら)と思っていらっしゃいました。

(叔父さんが陽清堂の店先で、出征のお祝いを受けていたとき、あの中に、きれいな女の人がいたけど、あの人が絹子じゃあないかしら。あの人、確か、泣いていたわ。叔父さんじっとあの人を見ていたわ。きっと絹子って、あの女の人の名前だわ。あの人、どこの人かしら。小川町の人ではないわ。学生時代に知り合った人かしら。それとも、徴用されていた川崎のタイヤ工場の人かしら)

「内田さん、気分でも悪いのですか?」と萩原部長。

「あっ、いいえ。大丈夫ですわ」

「ずいぶん大人しいから心配しましたよ」

「東京も酷いですが、今回、汽車に乗って九州まで来て、日本中の都市が空襲を受けているのを見て、少し気落ちしていますの……。無事だったのは、広島ぐらいでしたわ」

「ここも集中攻撃を仕かけられまして……。米国はこの辺が、特攻隊の飛行場だと、よく効く鼻で嗅ぎとっているようで。油断できない連中です」と陸軍情報部の職員。

「飛行機は大丈夫なのですか?」と先生。

「飛行機は壕の中に隠しております。特攻兵は、林の中の兵舎に隠しております」

車はいつの間にか、飛行場内の誘導道の上を走っておりました。飛行機の整備に余念ない整備士の姿が見えました。先生がご乗車なさっている車の後を、大手新聞社の記者とカメラマンを乗せた車が続いておりました。

やがて車は飛行機が待機している青々とした芝生の広場に到着しました。飛行機は大きな爆弾を抱えていました。二十人ほどの女学生が花を手に、飛行機を取り囲んでいました。彼女たちは、翼や操縦席をその花で飾っていました。先生が車から降りられると、彼女たちの手の動きが止まり、その視線が一斉に先生に向かいました。

「ぼぉっとしとらんと、早(は)よ花ば飾らんね」と先生らしい女性の人が言いました。

運転をしていた陸軍情報部の職員が作業服の男性に近づき敬礼をして、

「今日は、りっぱな飛行機ですなあ」と言いました。

「九九式双発軽爆弾機を出せと、上からの命令でして」

「爆弾も大きい」

「五百キロを抱かせました」

「見栄えがするなあ」

「見栄えだけの戦果を挙げてもらわんといけませんが」

「こちらが女優の内田さんです。あちらが興国映画の萩原さん。この飛行場の整備の主任です」

主任と紹介された男性は、先生から萩原部長へと身体の向きを変え敬礼をしました。

「内田さん、女学生と一緒に花を飾っているところ、撮りましょう」

新聞社の記者が言いました。先生は花を受け取られました。花は、紫陽花・梔子・桔梗・金糸梅・百合などでした。掛けられたハシゴを登られ、操縦席を花で埋め始められました。お手が空になられると後ろを振り返られました。【バシャ、バシャ】と幾枚もの写真が撮られました。ポーズをとられる先生のお目に、遠くの景色が飛び込みました。ゆるい円錐形の端正な山が見えました。

「まあ、きれいな山」

その先生の嘆声に、ハシゴ中段の女学生は花の束を手渡しながら、

「あいは、開聞岳たい」と言いました。

「カイモン岳?」

「はい。みごち山です。薩摩富士、呼ばれとるとぉ」

「本当に富士山そっくりね」

「特攻隊の兵隊さんは、あい山、目指して飛ぶっ」

そんな話を交わされていた時、どこからともなく歌声が聞こえて来ました。


     ♪ 見たか聞いたかこの体当たり

       邪魔だそこのけグラマン機

       目指す空母をどかんとやらにゃ

       大和男子の名がすたる

       撃沈撃沈空から撃沈   (作詞・不詳 『空からの撃沈』)


歌声は、近づくトラックから聞こえました。その荷台には、日の丸の鉢巻をし、その上に眼鏡が付いた飛行帽を被り、鳶色の飛行服に白いマフラーをなびかせた、特攻隊員乗せられていました。トラックの後ろには乗用車が続いておりました。乗用車は止まると、中から鼻の下にチョビ髭を付けた中年男が、二人の高級将兵を引き連れて出て来ました。先生はハシゴを下りられました。

「こちらが知覧特攻機基地の司令官権田中将であります」と、チョビ髭の男は紹介されました。

「遠路はるばる、ご苦労様です」

権田中将は手をゆっくりとこめかみに持っていき敬礼をしました。先生は深く腰を折られました。

トラックから特攻隊員が降りて来ました。チラリとそちらにお目を向けられました。眼鏡を掛けられていらっしゃいませんでした。よく見えませんでした。隊員は七名でした。七名の隊員は白い布を被せた長いテーブルに沿うように並びました。隊員の腰には、贈られたマスコット人形が束になって吊り下がっていました。テーブルの上には銚子と素焼きの盃が用意されていました。テーブルの前に据えられていた台に司令官が上がりました。

「今や我が国は、容易ならざる危機に直面している。この重大な局面において、起死回生の秘策でもって出撃する諸君は、日本男子としての本懐、これにすぎるものはないであろう。生還を期しえない攻撃の大義につかんとする諸君の、至純至高の心情を思うと、実に断腸の極みである。こいねがわくば、宿願を貫徹されんことを祈ってやまない。諸君の軍功は、必ずや上聞に達するようにする。安心して欲しい。最後に、この大東亜戦争は今爾百年続く戦いである。諸君のみではない。本職もかならず後に続くものである」

司令官から詩のような訓示がありました。先生は上級軍人に対して懐疑的になっていらっしゃいました。司令官の朗々とした声に、不快な慣れを感じられました。訓示に応えて隊長が、

「敵艦に命中することを誓います」と力強く宣誓しました。

息を飲んだように場が静まりました。

司令官は台を下りました。

「内田さん、酌をしてやって下さらんか」と権田中将が噛みしめるように言いました。

先生は頷かれ向かって左側の隊長に銚子を傾けられました。盃を持つ隊長の手は震えていました。胸元に縫い付けられている布の文字がぼんやりと読めました。

『千早隊』

先生はハッとされお顔を上げられました。

(見覚えがある。この人も、この人も、この人も……、そして、この人は、小坂さん)

先生はお心の中で叫ばれました。小坂伍長は二階級特進したのか曹長の襟章を付けていました。やはり先生を見ようとはしませんでした。頬は血色の朱(あけ)に染まっていました。隊員たちは酒を一斉に飲み干すと盃を地面に投げました。そして互いに腕の時計を合わせ始めました。

「第十次航空総攻撃、千早隊員七名、只今より行ってきます」

その隊長の言葉に、全隊員が敬礼をしました。七機の突撃機にエンジン音が響きました。プロペラが回転しました。司令官が隊長に近づき右手を差し出しました。隊長がその手を握りました。隊長は左手も差し出しました。

「おお」と言って司令官も左手を出しました。四本の手がひとつにがっしりと結ばれました。司令官は次の隊員に握手をしようとしました。しかし隊長は手を離しませんでした。

「どうした?」

司令官の表情に惑いの色が滲みました。隊長は黙ってひとつになった手を見下ろしていました。

「何をしておる」

司令官の身体が、手を振り解こうと苛立ちました。その苛立ちに合わせて、隊長の腰のマスコット人形の束がザッザッと音をたてて揺れました。

「離さんか」司令官が隊長を睨みつました。

隊長の隣の隊員がサッと司令官の横にサッと移動しました。そして、懐からピストルを取り出すと司令官のこめかみに宛がいました。

「何をする」と司令官は、身体を硬直させ横目でピストルを睨みました。

その場の将兵たちの軍服の擦れる音が一斉に【ザッ】と立ちました。

「動くな!」

隊長が組んでいた手を解きながら言いました。隊長の目がギッと見開かれました。それは合図でした。合図を受けた隊員たちは、懐からロープを取り出し、司令官の胸元・腕・足首を縛り上げました。

縛りあがった司令官を横に、

「司令官にも特攻に同道していただく」と隊長は言いました。

「貴様ら、何を言い出す。許されると思っているのか」

司令官が、動揺した声で怒鳴りました。その口は手ぬぐいで覆われました。

「司令官殿、我々は百年など待っておられません」

隊長は隠していたピストルを取り出し司令官の額に向けました。司令官は三人の隊員によって抱きかかえられました。身動きの取れない司令官は、「うぅぅ、うぅぅ」と唸り身体を捩って抵抗をしました。

「やめろ!」

「軍法会議にかけられるぞ!」

「親を泣かせるな!」

将兵たちの罵しりの言葉を浴びながら、隊員たちは一番機の後部座席に司令官を乗せました。司令官の横には隊長がピストルを構えて座りました。

「始動!」と隊長が号令しました。

一番機の操縦席に走ったのは小坂軍曹でした。小坂軍曹が操縦棹を握りました。

「小坂軍曹。その精神棒を死んでも離すな!」隊長が怒鳴りました。

「はい!」小坂軍曹の返事はエンジン音の中、天を衝きました。

二番機、三番機、四番機、五番機、六番機それぞれに、千早隊員は走りました。

「整備士。車輪止めを外せ!」隊長が叫びました。

整備士たちが主任に顔を向けました。主任は、外すなと、首を横に振りました。

「聞こえんのか! 整備士、車輪止めを外せ!」

やはり整備士は動きませんでした。すると六番機に乗っていた隊員が飛行機から飛び降りました。打ち合わせがあったのだと思われます。飛び降りた隊員は二番機に駆け寄り車止めを外しました。二番機が出発線に進みました。翼に飾られていた花が巻き上げられました。三番機、四番機、五番機も続きました。四機はエンジン音を轟かせ、出発線をひた走り次々に飛び立ちました。一番機の車輪止めが外されました。小坂軍曹が操縦席のカバーを前にズラしました。後部座席の隊長は、司令官のこめかみにピストルが向け四囲を睨んでいました。誰も動くことが出来ませんでした。車輪止を外していた隊員が六番機に乗り込み出発線に進みました。一番機が後を追いました。最後の二機も、ガソリンの臭いを残し、二度と触れない大地から飛び立ちました。頭上でぐるぐると旋回していた四機に二機が合流しました。六機は編隊を組み終えると、まず一番機が急降下して来ました。操縦する小坂軍曹が、先生に笑顔を向けていました。いえ、先生は眼鏡をお掛けではございません。そう見えただけでした。二番機、三番機、四番機、五番機、六番機も続いて急降下してきました。そして一番機を先頭に、六機は地上ギリギリの宙を走り、南に向かって、薩摩富士と呼ばれる開聞岳に向かって飛んで行きました。

 開聞岳は夕陽を受けて赤く染まっていました。その赤い空間は燃えているようでした。先生の頭の中にひとつの言葉が浮かび、それが声になってしまいました。

「男が燃えている」

「はぁ?」

横に立っていた三つ編みの女学生が先生に顔を向けて来ました。

「何でもないの。ひとり言」

先生は女学生の手を握られてこう思われました。

(男には赤がよく似合う。赤には熱い『死』の気配がする。その熱さは空想の匂いがする。女だからよく分かる。そして滑稽に思える。しかし当の男は滑稽には思っていない。真剣だ。赤は熱を持つ滑稽。わたしの血は青ければいいのに……)

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女優内田衣都子先生 疋田ブン @01093354

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