第26話

 先生達は避難なさった靖国神社で朝を迎えられました。どんよりと曇った朝でした。宮城の上を、烏の大群がカァカァ輪を作って飛んでおりました。空襲の惨状は、避難して来る人の口からだいたい推量出来ました。神田は、司町(つかさまち)、旭町(あさひちょう)、美土代町(みとしろちょう)、多町(たちょう)、鎌倉町(かまくらちょう)、錦町(にしきちょう)が全滅したようでした。おじい様が興奮気味に、

「小川町はどうですか?」と尋ねられました。

「三丁目はやられたが、二丁目と一丁目は何とか無事で……」と教えてくれました。

先生のお宅と陽清堂は、二丁目にありました。

「本当だろうかねぇ」おばあ様のお顔は煤で真っ黒です。

「この目で見るまでは、分からん」おじい様のお顔も真っ黒です。

天気は昼前に快晴となりました。火も落ち着いただろうと、先生達は様子を見に戻られる事になさいました。

九段坂から見下ろす俎橋の彼方には、煙がまだ上がっておりました。日本橋川を渡ると、罹災者が足任せに右往左往しておりました。血のにじんだ手拭を頭に巻きリヤカーを引く老人がいました。煙が立つ服を着た老婆がいました。「顔がヒリヒリする。クリームが欲しい」と呟きながら歩く女がいました。火ぶくれした子供がいました。ドロドロ、ボロボロになった服。煤けた顔。引きずられる足。みんな、誰を、何を頼っていいのか分からず、さ迷っていました。

神保町を小川町に曲がる角に、地べたに座って号泣する幼児がいました。その子の前に、埃まみれの髪を櫛けずりながら、焦げて縮れた毛をむしっている母親がいました。櫛を通しながら母親は、薄ら笑いを浮かべ子守歌を歌っていました。先生は暗いお気持ちになられ、向かいの錦町にお目を逸らされました。お目を逸らされて、先生は茫然自失なさいました。錦町は真っ黒でした。建築物は一切なく、コンクリートやレンガの瓦礫の間に、巨人の肋骨のような鉄筋があちこちに突き出ていました。道には爆弾や高射砲の破片が突き刺さり、その隙間に黒焦げになった大八車や自転車がひっくり返っていました。露わになった水道の蛇口がやたらと目に付きました。電柱は傾きあるいは折れ、切れた電線が絡みついていました。路面電車の鉄塔は飴のように曲がっていました。炭となった木材を残り火がペロペロ舐めておりました。ガソリンの臭いが脳を痺れさせました。歩かれる地面は、まだ熱を帯びていました。走り回る医師や救急隊員の白衣が、みるみる赤黒くなっていきました。兵隊さんが、スコップで死体を掬い、道に並べていました。どこからか、家庭用ラジオの放送が目いっぱいの大きさで流れていました。「悠々たる哉、天壌(てんじょう)。遼々(りょうりょう)たる哉、古今。五尺の小躯(しょうく)を以って この大を計らんとす」。放送は、軍のお偉い方の演説でした。道に並んだ死体は黒焦げでした。手足は千切れ、腸が飛び出し、顔はひん曲がり、顎が飛んで、まだズブズブと音を立てていました。焼かれた瞳は金色で、流れる血は黒色でした。男女の区別など出来ません。子供はまるで焼き人形でした。死体は、苦しみに手足を突っ張っていました。中には、丸まって縮こまった死体もありました。その突っ張りと縮こまりから、「熱い」「痛い」「苦しい」と言う声が聞こえました。それは断末魔でした。先生は耳を塞がれました。耳を塞がれますと、臭いが意識されました。人が焼かれた臭いは、紙の焦げる臭いに似ていました。死体から流れる黒い血が、地面に幾筋もの小川を作っていました。

 小川町一丁目と二丁目は、嘘のように無事でした。先生のご自宅もお母様のご実家陽清堂も、壁やガラスに飛翔物のキズ跡を残す程度の被害で済みました。この事実は救われるものでした。しかし先生は複雑な思いでした。これは後日の話になりますが、先生は雑誌『婦人世界』から、空襲時の取材をお受けになりました。先生は、

「それはもう怖くて怖くて、身体が震えました。家族と逃げるのに必死でした。幸い住まいは、少しの被害で済みました」と答えられました。しかし、昭和二十年新年号の『婦人世界』の『我らの愛する亜細亜の首都―帝都空襲の顛末記』の『女優内田衣都子編』で、

「これぐらいの空襲は、当然やってくるだろうと覚悟しておりました。何も驚いてはおりません。バケツリレーで一生懸命、消火活動に励みましたが、わたくしの家も被害を受けました。しかし、身体さえ丈夫なら、これからだと思っております」と、記事になっておりました。

神田の城東地区は、死者十七人、重軽傷者二十四人、全焼家屋千百十戸の空襲被害でした。この空襲が、東京を襲った初めてのものではございません。昭和十七年にはドーリットル空襲があり、昭和十九年十一月二十四日には荏原区、二十七日には原宿が爆撃されていました。しかし、『次は我が町だ』と用心した人は少なかったのです。そして、『空の護りは引き受けた』と歌われた軍を信じ切っていたのです。それは、自分の『死』を想像できない人間のあさはかさでした。『死にたくない』の裏側でした。現に先生も、半信半疑で空襲警報をお耳になさったではありませんか。雑誌に書かれた覚悟なぞ、全くお持ちではございませんでした。ただ先生が複雑な思いをなさったのは、その事ではございません。消火活動もせず、『死にたくない』から逃げて逃げてひたすら逃げて、その挙挙句に大きな被害がご自宅になかったのです。それは後ろめたい皮肉でした。先生は、焼け残ったご自宅を眺められながら、ご自身を卑怯だとお思いになりました。

 昭和二十年ドイツは、西から連合国軍、東からはソ連軍に挟み撃ちされていました。このドイツの劣勢を背景に同年二月クリミア半島のヤルタで、チャーチル・ローズベルト・スターリンが戦後体制について話し合いをしました。太平洋では、フィリピンを巡る日米の攻防が続いていました。昭和二十年一月六日、アメリカ軍は首都マニラのあるルソン島に上陸しました。アメリカはミッドウェーの逆転から一年半で、フィリピンをほぼ奪還したのです。この快進撃はIsland Hopping(飛び石)と呼ばれた作戦で実行されました。飛び石。太平洋戦争開始早々、日本軍は太平洋の二十五の島々を占領しました。アメリカはその二十五の島の内、八つの島だけを集中攻撃し、残りの島を無視して艦を進めました。日本は二十五の島々に、二十七万六千人の兵力を分散常駐させていました。その内、八つの島々が陥落し、そこで十一万六千人の守備兵が命を落としました。となりますと、十六万の兵士が無補給のまま、十七の孤島に残された訳になります。

 日本の内地には、サイパン島から毎日のようにB29が来襲しておりました。東京に空襲警報の鳴らない夜など、珍しいぐらいでした。空襲の恐ろしさが、人から人へ伝わっておりました。人はやっと『次は我が町かも』と用心をし始めました。都会の人々は次々と田舎に疎開しました。お母様おじい様おばあ様も、陽清堂の看板を抱えられて、おばあ様のご実家のあった信州上田に疎開されました。お母様は先生に、一緒に信州に行こうと、疎開当日まで説得されました。しかし先生は仕事があると言い張られ、東京に残られました。事実、慰問の依頼が引きも切らない状況でした。軍の施設、赤十字陸軍病院 出征軍人遺族への慰安会、軍需工場などを回られていらっしゃいました。ただ、このお仕事がお残りになった本当の理由ではございません。疎開は卑怯に見えました。それもお残りになった理由でした。つまり意地でした。でも、一番の理由は、江川中尉が明日戻って来るかもしれない東京から、お離れになりたくなかったのです。これも意地でした。

 しかしこの意地が、やがて変化しました。変化すると先生は、疎開しない事をこのように思われるようになられました。

(東京には、疎開したくない人、出来ない人、それぞれの事情を負って多くの人々が暮らしているわ。当然、疎開を卑怯だと思った人もいるわ。でも、あの人たちは多分、「逃げおおせるのではないか」と、根拠のない楽観に縋っているわ。自分が死ぬなんて事は、人は受け止めきれないものだから……。だから、こんなに空襲があっても、ギリギリのところで、自分は死なないと高を括っているのよ。高を括るぐらいでは、熱くも痛くもないわ。

「人間は絶対に死ぬの。それ忘れては駄目よ」。これはお母さんの言葉。わたしは、忘れていたのかしら、お母さんのこの言葉。浮ついた気持ちになってダメね。東京に戻ったら、今度東京に戻ったら、お母さんが疎開した信州に行こう……。

それに、東京に残る理由なんてもうないもの……)

先生の意地に変化が現れ、このようにご決意されました場所は、香港の東亜ホテル(日本軍に接収されていたペニシュラホテルの名前)のラウンジでした。

さて、先生が香港にいらっしゃった理由は次のようなものでした。

話は一か月前に遡りました。先生は開けても暮れても慰問の日々でした。ある慰問で、千葉から茨木にかけて陸軍の基地を回られました。その慰問の最終日は茨木の鉾田教導飛行師団でした。そこでは、編隊飛行・計器飛行・急降下・跳飛(ちょうひ)の訓練が繰り返されていました。必死必殺の特攻の訓練でした。訓練をしていたのは、殺気が天を突く表情の若者達でした。そして先生は彼らの前で『魂闘譜』を舞われました。先生の差す手引く手を、若者達は食い入るように見つめました。先生はその表情が頭から離れられず、少し感傷的になられて築地の本社に戻られました。

戻られると早々に、竹林誠造専務に呼ばれました。専務は、心臓疾患で入退院を繰り返す竹林誠二社長に代わり竹林興行と興国映画を取りまとめていました。と申しましても、両社屋は軍需工場に変わっており、増産増産と社員を励ます、町工場の工場長のようになっていました。さて、先生が指定された応接室に入られますと、そこに専務と軍服を着た男性がいました。その男性は、陸軍省情報部長だと紹介されました。

「香港で映画を撮るんだよ、内田君」

こう言った専務の顔は活き活きとしておりました。撮る映画の主な舞台はイギリス支配下の香港でした。主人公は日本領事の娘。その主人公を先生に演って欲しいと専務は続けました。その映画の内容は、ざっと次のようなものでした。

香港生まれの主人公はイギリス人の横暴に怒りを覚え、同じ東洋人の香港人を庇います。やがて太平洋戦争が始まります。日本は真珠湾とマレー半島を奇襲しました。時を同じくして、日本陸軍は九龍半島に攻め入りました。進攻の目的は、『虐げられた香港人をイギリスから解放するため』とナレーションが話す事になっていました。日本軍は破竹の勢いで、イギリス軍を赤(スタン)桂(レー)海岸(ビーチ)に追い詰めます。イギリス人は香港人を盾として、海岸沿いの堅牢な要塞に立て籠もります。日本軍は手を出せず、攻めあぐねます。そこで名乗りを上げたのが主人公です。彼女は香港人になりすまし、要害に忍び込み、まず香港人を開放します。それから、自ら手榴弾を抱え、要害の要のトーチカに突っ込む……。これが映画の内容だと説明されました。

「そんなこと、聞いたことがありませんが、事実なのですか?」

先生は尋ねられました。

「映画だよ。なに寝ぼけたことを言っているんだ」と専務。

「戦況は、ますます厳しい状況になってくる。日本の女子にも、緊(きん)褌(こん)一番の覚悟をしてもらう映画を作る。横浜か神戸、あるいは長崎で撮影を進めようと思ったが、それでは現実感が出ない。この映画は、日本の命運をかけた映画だ。前半のイギリス占領下の香港は、何が何でも、現地での撮影が必須となる。理解してほしい」と陸軍省情報部長。

「君に日本領事の娘を演ってもらう。内田君。香港に行ってくれるね」と専務。

先生は、自分は映画女優で、芸人ではなかったと、ハッとなさった後、黙って俯かれました。制空制海権を失った海は危険でした。

「内田君、いいね」と専務。

誰が軍の命令を断れたでしょう。先生は頷かれました。と同時に、先生のお胸の中で江川中尉の名前がポッと点(とも)りました。香港で一緒の時間が作れたら、嬉しい……。

情報部長に、

「案内は、どなたがしてくれるのですか?」と尋ねられました。

情報部長は、意外な事をと言った表情をしました。

「満州でお世話になった、あの方……、確かお名前は……」

先生は女優です。少し眉を寄せられてお顔を斜めに落とされた後、

「ああ、確か、江川中尉。そうです。そんなお名前だったと思いますが、親切にしていただきまして……」ととぼけられました。

「ああ、江川中尉。この江川?」と情報部長は言って、指で顔に線を引きました。

「そうです、お顔に名誉の傷がありました」

「ああ、あいつは、新たな任務で転地することになっており……。ううぅん、確か一旦、内地に戻る事になっとるが、北支もごたついて、話が進んでおらんらしい。案内と護衛は、うちの局員が担当する。以前は憲兵をやっていた者で、香港の事なら、民家の竈の灰まで熟知しとるヤツを付けます。……。江川かぁ……。あいつも伊豆に新妻を残しておって、早く内地の土を踏みたいだろうなぁ」

先生のお脳と心臓の皺がキュッと絞まり、その圧で全身がカッと熱くなり、膝の関節が外れたようにガクンとされ、掌とお脇が汗を噴きました。先生は、引きつった作り笑顔で動揺を誤魔化され、

「わたくし映画で、何度死ねばよろしいのでしょう」とおっしゃいました。

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