第27話

先生が下関から上海に向かわれた船は、貨物船を改造した病院船でした。香港にご到着されてからは、捕虜のイギリス人が駆り出され、現地の俳優達と撮影が始まりました。主な撮影地は、古くからのイギリス人居留地の九龍塘(クーロントウ)や、高級リゾート地であった浅水(レバルス)湾(レイ)、あるいは尖沙咀(ツィムサ―ツイ)や上環(ツォワン)地区の繁華街などでした。先生は一挙一挙の演技で、お気持ちの整理をなさいました。勿論、江川中尉の事でございます。一生懸命、撮影にのぞまれていらっしゃいますと、江川中尉への恋々とした感情に今度こそ線引きが出来るようでした。江川中尉のボォーンと鳴った眼差しも火柱に吸い込まれた手紙も、お調子者のわたしの誤解。馬鹿、馬鹿、馬鹿……。江川さんのことは、忘れよう。いいえ、忘れました。わたしは芝居が好きです。映画が恋人です。

 先生が意地を捨てられ、疎開をなさろうとご決意なさっていた東亜ホテルのラウンジに話を移します。その日の撮影は、維(ビク)多利(トリ)亜湾(アハーバー)を見下ろす批旗山(ビクトリアピーク)のピクニックと、小鳥のフンで汚された張りぼてのビクトリア女王像(本物の像は戦勝品として東京に接収されていました)の下で、香港娘と隠れん坊をするシーンでした。それが香港での最後の撮影でした。監督やスタッフと夕食を終えられ、先生はお一人、日本からお持ちになった鴎外のご本をお膝に、まだ忘れたはずの江川中尉の事を考えていらっしゃいました。その夜の香港は静かでした。街々に置かれた土嚢や鉄条網さえなければ、海風と青空と椰子の景勝地そのものでした。先生はモンペ姿から解放され、ブラウスにふわりとしたスカートをお召しでした。ラウンジは、天井の高い英国調コロニアル様式でした。棕櫚の大鉢があちこちに置かれ、牡丹の鉢が色を添えていました。

 そこへ、

「これを、あちらの方から」と片言日本語のボーイが、一輪の深紅の薔薇を先生に差し出しました。薔薇は蕾を解き始めたもので、真っ白い紙にくるまれていました。先生はあちらの方をご覧になりました。三つ離れたテーブルに一人の青年が座っていました。青年は先生と目が合うと、口角を吊り上げて愛想のいい笑顔で会釈しました。先生は会釈を返されました。青年は一層人懐っこい笑顔を作り、先生のお席へ近づいて来ました。背は高く、片手には大きな麻のズタ袋をかかえていました。

「内田衣都子さんでしょや?」

先生はお膝のご本を閉じられ頷かれました。

「内田さんは、眼鏡、かけるのですか?」と青年は言ってボーイから薔薇を取り上げ、先生に差し出しました。先生は立ち上がられました。

「これ、舊(オールド)山頂(パーク)道(ロード)の薔薇です。香港は暖ったけぃから、日本より早く薔薇が咲くっけさぁ。だっけども流石に、二月には咲かねぇです。二月に咲くのは、舊(オールド)山頂(パーク)道(ロード)の岩陰の薔薇だけです。あっ、ここに座ってもいいですか?」

先生は薔薇をお手にラウンジを見渡されてから、

「ええ、どうぞ」とおっしゃいました。

青年は真っ白い歯を覗かせ笑い、ボーイにコーヒーを注文しました。

「この薔薇っこが、二月に咲くってこと知ってんのは、僕だけです。それに、その薔薇ッコが香港で一番めんこい花ッコだって知っているのも、僕だけです。内田さんが香港に来んしゃってるって聞いて、この薔薇ッコを見せたくて。三日前は、全部青い蕾でみったくなかったけど、今朝行ってみたらひとつだけ、赤く開きかけた薔薇ッコがあって、これがそれです」

「まあ、そうですか。ありがとうございます。」

「なんも……」と言って、青年は丸坊主の頭を掻いて照れ笑いし、うつむきました。それから上目使いで、

「僕、内田さんのファンです」とまた照れ笑い。その青年は面長で、目鼻立ちの彫りは深い方でした。ハッキリとした顔の細工がよく動き、生気漲(みなぎ)った表情を作っていました。

「内田さんと話ができるなんて、夢みてぃで……。映画は、全部観てます。全部なんてもんじゃあねぇです。同じ映画を何度も観ています」

ボーイがコーヒーを運んで来ました。青年はそれをひと口含むと、

「あっ、そうそう、これプレゼントです」と言って、ズタ袋を先生の横の椅子に乗せました。青年は中を見てくださいと合図を奥二重の目でしました。先生は戸惑われながら袋口を縛った紐を解かれました。そして中身をご覧になって驚かれました。上からパッとご覧になっただけでしたが、ゲランの香水にコティの白粉・口紅、ラックスの石鹸、コルゲートの歯磨き粉、ハーシーチョコレート、ネスレのインスタントコーヒー、スリーキャッス・ウエストミンスターと言った巻き煙草、ジョニーウォーカーやオールドパーと言った洋酒などが見えました。

「まあ、香港では、こんな物が手に入るの?」

「シィー、シィー。大きな声出さんで下さい」と、青年は人差し指を唇に当てました。その一瞬、奥二重の目が剃刀のように尖りました。

「気に入ってもらってよかったです。日本じゃ、もう手に入らないしょ? 香港だって同じです。これ、僕からのプレゼントです」

「どうやって手に入れたの?」とおっしゃって、先生は改めて青年の身なりをご覧になりました。杢調のライトグレーの背広に、胸ポケットから白いチーフを覗かせていました。ジャケットの衿の上で開襟シャツの白い衿が輝いていました。内地でこのような服装をしていたら、鼻血が出るほど殴られる格好でした。年齢は、二十五前後でしょうか。日焼けした顔に放蕩の気配がありました。青年は、先生が自分の身なりを観察なさっている事を、敏捷に察知し、

「あっ、申し遅れました。僕、亀山勝己っていいます。れっきとした大和男子です」と背を反らせました。

「香港には長くお住まいなのですか?」

亀山青年は反らした身体の力を急に抜くと、例の人懐っこい笑顔で、

「香港は、日本軍がここへ上陸してからです」と言いました。

「そうですか」

「生まれは函館です」

「北海道の? まあ、そんな寒いとことから、香港へ?」

「少しずつ、南下して来たんです。はじめは、満州青年義勇隊に入って、ジャムスの追分ってところに行きました。十六の時です。ところが、あてがわれたのは、小石がゴロゴロ出るいずい地だったもんで、見切りつけて、逃げ出したんです。身一つだったから、なりふり構わず何でもしました。炭坑掘り、苦力(くーりー)、銭湯の三助、人力引き、ホテルのドアーボーイ……。ひとつひとつあげていたら、一晩掛かります。大きな声じゃあ言えねぇですが、八路軍の手先になった事もあります。おかげ様で、日本名や中国名を、十ぐらい持っています。内地じゃあ、大陸浪人って呼んでいるんですよね? 僕みたいなやつ。ああ、自分のことばかり、しゃべって、すいません」

「いいえ……。大変でしたのね。内地には一度も?」

「戻ってません。そして、広州でヤミの流しやっていた時、漕(ソウ)宝(ホウ)路(ロ)の顔利きに拾ってもらいましてぇ。僕ぐらいの年齢の日本人は、重宝がられて……」

「それから、香港に?」

亀山青年は、笑って頷きました。その笑顔は無邪気でした。

「失礼ですが、今は?」

「まあ……、貿易の手伝い、ってとこです……」

「ですから、こんな舶来品が手に入りましたの?」

「気に入ってもらえましたか?」

「そりゃあ、もう……。でも、いただけないわ。こんな貴重品」

本当は咽喉からお手が出そうなほど、欲しいものばかりでございました。

「なんもなんも。受け取ってもらえたら、僕こそ嬉しいです」

「本当によろしいの? まあ嬉しい。ありがとうございます」

亀山青年は笑顔で彫りの深い顔を崩しました。

「明日、もっと、持ってきましょうか?」青年は秘密を愉しむように言いました。

「もう充分ですわ。充分過ぎるほどですわ。持ちきれませんわ。それに明日、内地に戻りますの」

「何時に!」

「朝一番の汽車です」

「九龍駅からですか? 始発なら五時五十九分です」

「よくご存じ」

「香港のことなら、だいたい頭に入っていますから」

「汽車で上海に行って、船で戻ります」

「黄海も、アメ公に押さえられています。気を付けてください」

「病院船で帰りますの。病院船は、国際法で攻撃されない約束になっているのでしょう?」

「そうなんですが、アメ公が、輸送船の航路を断たせて、日本を干上がらせようと、海に機雷を放り込むって、もっぱらの噂で」

「機雷?」

「海の地雷です。船が機雷に接触したら、そこでズドン!」

「まあ」先生は両手でお口を塞がれました。亀山青年は周りを見渡してから、先生に顔を近づけました。そして小声で、

「もう、日本の負けしょ」と言いました。

「アメ公は、次は台湾か沖縄に上陸するらしいです」

「どうして、そんなにお詳しいの?」

「そりゃあ……、ほら、貿易みたいなことやってますから。満州や支邦や、ここ香港じゃあ、日本の軍人さんが偉らそうにしてっから、負けているって想像できないです。しかし 南方の島が、次々に陥落していったのは知っておられるでしょう? それもアッと言う間の出来事でした。アメ公の兵力は底なしです。威力も馬鹿にできねぇです。玉砕って言うんでしたっけ? おめでたい言葉です。玉砕できたやつらは幸せ者です。いいですかぁ、南方には取り残された兵隊さんが、ごまんとおります。補給も絶たれ、素足に腐ったボロを巻き付けて、ジャングルを彷徨って、蛆虫でもミミズでも動くもんなら何でも口に入れているんです。蛆虫の争奪戦に負けたヤツは、空腹に耐えられなくて、手榴弾で自殺しているらしいです。内地も、草の根かじって、ネズミを喰っているって聞いたことありますが、そんなの比じゃあねぇんです。革ベルト齧って、靴クリームと機械油を舐めて、骨と皮になって餓死してるんです。パンパン鉄砲を撃って名誉の戦死なんてしてねぇんです。喰うことができねぇで、衰弱死していく兵隊が、戦友に何て言い残しているか知ってますか?」

先生は、首を傾げられました。

亀山青年の奥二重が、鋭く射(い)刺(さ)すように閃(ひらめ)きました。

「遠慮しないで、オレを喰ってくれ、って言うらしんです」

「あっ」先生は両手でお顔を塞がれました。

「調子に乗って、ついついレディーに酷い話をしました。すみません」

先生はお顔を覆われたお手を解かれました。適性言語を、息をするかのように口にした日本人に驚かれていらっしゃったのです。亀山青年は先生と目が合うと、あの無邪気な笑顔で、「もう言いません」と口元を緩めました。

先生は、奇術師の天山師匠が南方の話をしてくれなかった事を思い出されました。先生の叔父様にあたる健一郎様の出征先については、送られて来たハガキから、北支方面である事が分かりました。しかし、いつ南方に派遣されるかしれたものではございませんでした。内地の日本人は、空襲に継ぐ空襲で、大本営の発表に疑いを持つようになっていました。

先生は好奇心旺盛な方です。南方の事実を知りたいと思われました。

「さっきの話、本当ですか?」

「もう、いいっしょ」

「いいえ、教えてください。本当ですか?」

亀山青年は、唇をキュッと締めました。

「船乗りの知り合いは多いのです。さっきの話は、インドネシアの貿易商が、漂流していた筏を救助したとき、そこにいたメレヨン島の脱走兵から聞いたものです。だから本当でっしょう。飢え死にするぐらいなら一か八かで島を抜け出そうと、五人で逃げたらしいですが、助けられたのは二人だけだったと聞いてます」

「前に、ガナルカナル島から転進したときも、食料に困窮していたと耳にしました」

「転進。こりゃあたまげた。あの惨めな撤退を、本土ではそう呼んでいるんですかぁ~。兵隊さんの半分も撤収できなかったんです。ガナルカナル島から助け出された兵隊さんは、島の惨状が漏れねぇように、激戦の前線にみんな送られてしまいました。口封じです。でも中にはアメ公に降参するヤツもいまして、そんなヤツらは、何でもかんでもペラペラしゃべります。それで、人の口に戸が立たないのは、万国共通です。回りまわって、ガナルカナルで何があったか、僕の耳に入って来るんです。島じゃあ、尻や腿の抉られた死体が、ゴロゴロしていたってことです。死人の尻や腿を食らうのはまだいいです。撃墜されて落下傘で降りたアメ公なんかは、殺されて日本兵の胃袋へ埋葬です。したって、アメ公もそうそう天から降ってくるわけじゃあないです。飢えて鬼になった日本兵は、人肉を求めて、他部隊の同胞の兵隊を襲ったそうです」

「本当ですか?」

「僕は、見た訳じゃあないです。でも多分、人間ってもんは、そんなもんです。腹空かしたら、きれいごとは通用しません。最初はおっかねぇども、人を食っている内それが普通になってきます。ガキのころ先生に、『大和魂』ってもんを教えられ、僕も目をキラッキラッさせたもんです。『大和魂』を、やせ我慢の親戚ぐらいに思って、それに忍耐って言うきれいなオベベを着せました。したってダメです。気合いだ根性だと喚(わめ)いても、すきっ腹とアメ公には勝てねぇ。結局、生き残ったヤツは、人間を食らう度胸のある天晴なヤツってことです。アメ公は利口です。無駄な爆弾は落としません。日本兵であふれ返った島を無視して、そんでもって海を遮断すれば、自然に兵隊さんは飢え死にします。こりゃあ太閤さんの、三木の干殺しと鳥取の飢え殺しを一緒くたにしたようなもんです」

「今こうしていても、そんな悲惨が続いているの……、よね。同じ南の島でも、香港島はこんなに静かなのに」

「ここが静か? ああ、確かに静かです。アメ公の目が、日本本土に向いてしまったから、ここも空爆さぁされなくなった、ってわけです。でも、これはいつわりの静けさです。日本が香港を占領してからってもの、兵隊さんは大威張りです。チャンコロ(中国人のこと)が、兵隊さんの前を通るとき、最敬礼や脱帽をしなかったと言っては殴り、人力車から降りなかったと言っては蹴り、サングラスを外さなかったとケチを付けては軍刀の柄(つか)で小突く。チャンコロは、うっかり兵隊さんと目を合わすこともできません。それにです、気に入らんぇチャンコロがいたら、やれ重慶のスパイだ共産党だと因縁を付けて、憲兵本部の地下室に連れて行きます。そこでは、長い時間をかけて改良に改良を重ねた拷問が待ってるって算段です。何せ日本の拷問さぁ、思想犯をギュウギュウ言わせた筋金入りの代物でぇ、どうするっぺが一番効き目があるのか、洗練を極めてます。真っ赤に焼けた火箸を頬っぺたさぁ押し当てて自供しなければ、爪と肉の間に竹べらを差し込みます。それでも口を割らないと、口を割るって言っても、濡れ衣を着せられていて、割る口もねぇ訳ですが、そんなのお構いなしです。とにかく、半死のチャンコロを道端にゴロリと投げ出せば、みんな震え上がって、へへへェ……、シャレじゃあねぇですが、チャンコロがコロってなるってぇ算段で」

亀山青年の目の色は少し赤くなっておりました。

「日本の兵隊さんが、そんなに残酷なことをしますか?」

「それが戦争ってもんです。占領をするってことは、きれいごとじゃあ、ないっしょ。ただ、僕たち日本人は、他の国民より残忍かもしれないです。真珠湾をぶっ壊したとき、この香港にも帝国陸軍が入ってきましたが、あの時、日本の兵隊は、イギリス兵を追っただけで済ましはしませんでした。チャンコロを殺しまくって、あっ、いや、そりゃあ日本の兵隊さんの気持ちは分かります。誰が味方か敵か分からねぇんですから。気を許してズブって刺される前に、疑わしきは消すって言い分もたつわけです。したってです、入城式が終わってからの三日間、ここ香港で無礼講のドンチャン騒ぎがありまして、その祭りで、日本の兵隊さんは、寸鉄も帯びていないチャンコロから、略奪の限りをやらかしまして。指輪を隠していないかと、ばあさんの髷まで解かした話もあります。乳母車で略奪品を運ぶヤツもいました。若い女を見れば、誰彼構わず襲い掛かりました。そうすると女は隠れます。日本兵は、天井板を剥がしてまで、女漁りをしました。病院には看護婦がいるっしょ。看護婦は隠れることができない。酔っぱらった日本兵が、徒党を組んで病院に乗り込む。すると看護婦を匿う医者や職員がいます。そいつらを邪魔だと殺して、その死体をベッド代わりにして強姦したんです。あの三日間で、香港は空っぽになりました。この香港の静けさは、空っぽになって、精も根も尽き果てた、抜け殻の成れの果てです」

「軍の上層部がよく黙っていましたわね」

「兵隊さんは、それが楽しみで戦っているって面がありますから。暗黙の了解って次第です。ただ、三日間の祭りが終わったら、さすがに引き締めを始めました。したって、あれから三年経った今でも、残り滓のような品物を、手を変え品を変えて、まだかき集めているヤツもいます。軍のお偉いさんは、半山(プーンサーン)の高台に住まいを構えて華族様のような生活で、見て見ぬふりを決め込んでます。中には強奪品の上納を、涎を垂らして待っているヤツもいます。僕は何か、軍のお偉いさんは卑怯だと思います。特攻なんてやっているでしょう」

先生は頷かれました。レイテ沖の海戦から敵艦に突っ込む特攻が現れました。それは正式な作戦と言うより、自発的に若者の情熱が選んだ行動と先生は聞いていらっしゃいました。自爆した若者たちの名前が、美辞麗句を添えられて、新聞に晴れ晴れしく記載されていました。

「軍のお偉いさんは、もうこの戦争に勝ち目はないって分かっているんです。ヤケクソになってます。ヤケクソになったら、性根は腐ります。だから生きた人間を突っ込ませて、アメ公をひるませるなんて、とんでもねぇ作戦を立てたんでっしょ。『向う見ずな俺たちに勝てると思っているのか。そっちもタダでは済まないぞ』と脅し、アメ公を震え上がらせる心理作戦でっしょや。戦争の尻拭いを講和に持ち込んで、特攻をチラつかせながら、少しでも有利に話を進めようってコンタンです。そったらこと、なぜ考えたと思いますか? 無条件降伏したら、自分たち軍人の立場がどん底に落ちるからです。どん底どころか、死刑だ。自分だけじゃねぇしょ。軍人の家族だって威張っていた身内も、肩身が狭くなっしょ。軍人の家の面子が丸つぶれだ。それがおっかなくて、はぁー、他人(ひと)ッコを、どんどん殺しているんです。特攻は志願で募っているてぇ……。そったらことあるはずねぇ。分別のねぇガキをおだてて、無理ッコ手を挙げさせているんです。海軍じゃあ、兵学校出の士官を殺すのがもったいなくて、学徒出陣で集めた予備学生を『お前たちが国家の命運を背負っている』なんておだてて、艦(ふね)に突っ込ませているらしいです。大学に行っていた、金持ちのお坊ちゃんに対するやっかみ半分で。はぁー、誰が好き好んで、死にますか……。『特攻を希望する者、一歩前に出ろ』って詰問するとき、ヤラセを忍び込ませて、引っ込みがつかない、断るに断り切れない状況を作っているって、噂もあります。あくまでも本人の志願って建前を作らないと、命令した方も、夢見が悪いっしょ。とことん卑怯です」

「まあ、そんな」

先生はご立腹でした。香港に来られる前に慰問された鉾田教導飛行師団は、特攻隊の養成所でした。訓練を受ける兵隊も訓練する上官も、真剣そのものの表情で、先生はお忘れになる事が出来ませんでした。

「軍人さんは、帝国の興廃をかけて作戦をなさっているのです。若い航空兵も、己が本分を尽くそうと、命をはって頑張っていらっしゃるのよ。不謹慎です」

熱を帯びた先生の口調に、亀山青年は慌てました。

「ああ、そうです。きっとそうですぅ。言い過ぎました」

その時です。亀山青年の目がラウンジの遠くをギラリと睨みました。

「おっと!」

亀山青年はプレゼントのズタ袋を、クロスを敷いたテーブルの下に隠しました。それからすかさず腰を半分浮かし、

「今日は、僕の一生の宝物になりました。これでお暇しますが、お互い命ッコを大事にしまっしょう。また、内田さんに会えたらなぁ。いや僕、また内田さんに会える気がします。無事に、内地に戻ってけらっしょ。僕も潮時を逃さないように、香港におさらばします」と言い、テーブルの両端を握り頭を下げました。そして天衣無縫の笑顔で、

「そったらコーヒー代は、日本で返します」と言い、走り去りました。

先生は、亀山青年が何に動揺したのかと後ろを振り返られました。そこに先生の護衛兼案内役であった、陸軍情報部員が近づいて来るのが見えました。先生は首を傾げられ挨拶なさいました。

「今、ここにおりましたのは、呉(ウー)辰(ダウ)平(ピン)ですな?」

「いいえ、日本の方でしたわ」

「そうですか、山崎銃太郎と名乗りましたか、あるいは鈴木平蔵とか……。何のお話でしたかな?」

情報部員は香港の元憲兵でしたので、謎かけのような尋問口調でした。

「はい、わたくしの映画をずいぶんご覧になってくださったようで、このバラを渡したいと、わざわざお持ちになって」

「ほほぉ……。殊勝なことですなあ」

「お名前は、亀山……」

「亀山勝己ですか?」

「はい。よくご存じですのね」

「本名を名乗りましたか。珍しいことだ。真面目に名乗るなんぞ……、こりゃあ本物の内田さんの信奉者ですな。いらん話はしませんでしたかな?」

「はい?」と答えた先生のお顔の色を、情報部員は針穴に糸を通すように見ました。

「かかわらん方がよろしいですなあ。しかし、油断のならないヤツだ。貴女と接する機会を、手回しよく狙っておったんでしょうな」

「いったい、どう言った方なのです、亀山さんは?」

情報部員はフンと鼻で笑った後、

「札付きのワルですよ」と唾でも吐くように言いました。確かに、時折り鋭い目つきをしましたが、先生には礼儀正しい純情そうな青年に見えていました。

「あの方が、そんなに悪い人?」

「内田さんにそう思わせた。まさしくワルですなぁ。貴女、役者でしょう? 見抜かなきゃあ、ねえ」

「はあ……」

「ヤツは、香港じゃあ蠍妖(シンヨウ)って呼ばれていましてな。香港の爛仔(ランフォー)(やくざ)を従えて、西環(サイワン)の顔役でしてな。青(チン)龍会(リュウフイ)って名の、組をまとめていましてな。もともとは、広州の大親分に可愛がられていましてな、日本軍が香港を占領した時に、ここへ送り込まれましてな。ドサクサに紛れて、銅鑼(トンロー)湾(ワン)の倉庫のイギリスの備蓄品をですな、ヤツ、軍より先にいいとこ取りしましてな。しかし、北平語(北京語)も広東語も、英語もやるものですから、いろいろとまあ、重宝されましてな」

「まあ、そんな方でしたか。お優しい方と思っていましたが」

「ほほぉ…、そうお思いになった? さすがワルですなぁ。縄張りの西環は、香港で一番多くアヘン窟がありましてな。相当荒稼ぎをやっておりましてな。荒稼ぎと言えば、密貿易もやっておりましてな。人の売り買いなんぞも、繁盛しているようでしてな。飛行場や神社を作りました時も、いっとう人足狩りが得意でしてな。賃金のピンハネもお家芸でしてな。昼飯代が無いときは、仲間を売った懸賞金で間に合わせる、といった塩梅でしてな。香港の憲兵ってものはですな、裏でワルと手を組んでいませんと、仕事が上手くいきませんでしてな。そこをヤツ、器用に泳いでおりましてな。まあ、そんな感じで、これ以上は言えませんがなあ」と、情報部員はニヤリと笑いました。

先生は話を聞かれながら、お行儀の悪い事でしたが、足先でプレゼントのズタ袋を、テーブルの中央へと押し込んでいらっしゃいました。


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