第25話

 先生が慰問から戻られて九日が過ぎました。昭和十九年十一月二十九日の夕方。築地の興国映画社からご帰宅された先生に、台所のお母様が、

「手紙が届いていますよ。卓袱台の上にあるでしょう」とおっしゃいました。

タンスの上のラジオから、明るく元気な少年少女たちの歌声が流れていました。


     ♪見たか銀翼 この勇士

      日本男子が精こめて

      作って育てたわが愛機

      空の護りは引き受けた

来るなら来てみろ赤蜻蛉

ブンブン荒鷲ブン飛ぶぞ(作詞・東 辰三『荒鷲の歌』より)


封書には、『慰問御礼状在中』と記され、裏返して送り先をご覧になると、陸軍省情報部となっていました。先生は封を切られました。巻紙に黒々と毛筆で綴った礼状でした。「謹啓 霜秋の候 貴殿におかれましては御清祥のことと 慶賀の至り……云々」と堅苦しい形式で始まった手紙でした。こんなもの会社に送れば充分で、わざわざ森彩子の名前で、小川町の自宅に送ってくるまでもない。先生は眉根をお寄せになって、巻紙を解かれていらっしゃいました。すると、「小生 近日中に日本に戻り 新たな大命を拝する次第と相成り その節に 御礼を申し上げる機会あれば 幸甚の限り……」と書かれた文字がお目に入って来ました。先生は、あれっと思われ、急いで巻紙を末尾まで解かれると、そこに陸軍中尉 江川史承拝とありました。先生の全身の毛細血管に熱が走りました。江川中尉は、塘沽(とうこく)港でやり切れず、日本海で割り切れず、神戸港で吹っ切った人でした。やっとの思いで線引きした人からの手紙に、全身がわなわなと崩れそうになられました。

(わたし宛に、丁寧に送ってくれたこの手紙は、単なる礼状だろうか。礼状ではなく不器用な恋文ではないか。そう思う自分は、本当にお調子者過ぎるのだろうか)。先生は、江川中尉のボォーンと弾く視線を思い出されました。何度も申し上げますが、先生はご本がお好きな方でした。そのため長い間、少女趣味の延長のような恋愛を胸に隠していらっしゃいました。しかしここに来て、少女趣味はその色合いが違って来たと、何よりご本人がお気づきでした。

 わたくし、先生が大陸で江川中尉にジリジリ恋焦がれていった、お気持ちの高まりの過程を、実は筆を抑えて流しております。その理由は、わたくしの筆が先生のお気持ちの高まりに水を差してしまい、読まれている方が、覚めた気分になられるのではないかと気になったからでございます。ここはわたくし、安っぽいロマンチズムを振り捨てて、先生のお気持ちの高まりの過程を、冷静に振り返ってみたいと思います。話はつまる所、『恋に恋した気分』と言う、顛末でございます。

 大連駅に向かう車の中で、江川中尉に一目惚れなさいました。それは、腰が抜けそうになった、頭に血がのぼった、心臓が激しく鼓動を打った、何でもようございます、何でもようございますが、その瞬間、性的衝動が走ったのが事実でございます。もっと厳密に申せば、人間の脳にプログラミングされている「この人の胤で自分の子孫を残したい」……。あっ、いえ。生々しい事を申し上げるようですが、これが本能の感覚と言うもので、『性』とも呼ばれ、一目惚れの正体でございます。「この人の胤でも」ではなく、「この人の胤で」が、先生の純情と思し召しくださいませ。そして、その本能的純情感覚は、落ち着かない、気もそぞろな、切なく悲しい気持ちを掻き立てました。水底の沈殿物を、かき回すようなものです。その不安定な気持と申しましたら……、人はそれを『恋愛』と、白百合も赤らむ美しい言葉で表現します。それからが、先生の『恋に恋した気分』の始まりになります。笑い事ではございません。これが女(をんな)の恋の本性です。稚拙な表現を、誤解されないよう少し冗々に話せば、まず先生は鈴の視線を江川中尉に送りました。先生はお綺麗な方です。江川中尉は先生を意識するようになりました。そして、弦を弾く視線で応えました。琴瑟相和です。はい、相思相愛です。間違いございませんでしょう。つまり先生が、江川中尉を誘惑した訳でございます。誘惑に成功した満足が、先生の喜びでした。誘惑? はい、確かに先生は映画女優でございます。人を誘惑させるのが、ご商売でございます。ただ、「この人の胤で自分の子孫を残したい」とまで思った相手を誘惑できたご満足は、ご商売以上の深い感慨がございました。『恋に恋した気分』と申し上げております。女(をんな)の究極の喜びは、意中の男を夢中にさせる事でございます。先生が、江川中尉の礼状をお胸に掻き抱かれた時こそは、究極の喜びに、お浸りになられた時でございます。

 先生はその夜、江川中尉の手紙をお胸に、布団に入られました。甘い、うずくような眠りに落ちていかれ……、その瞬間です。

【ウワァーンァーン。ウワァーンァーン。ウワァーンァーン】

けたたましいサイレンのユニゾンが、先生を夢の国から引き戻します。警戒警報です。先生は、眼鏡を掛けられます。耳を疑われながらサイレンに耳を澄まします。すると警戒サイレンが空襲警報に変わります。外では、警防団員が「退避、退避」と叫び声を上げています。

「彩子、早く。彩子、着れるだけ着こんで、降りて来なさい」階下からお母様のお声です。

「彩子、何しているの。グズグズしないで、早く!」

お母様が、勝手口を開ける音は、荒々しいものです。

「着れるだけ着て来るのよ。頭巾も被っていらっしゃい。リュックはここにありますから。早く早く」今度は裏庭からお声を絞られます。

先生はモンペを三枚、上着を五枚、手当たり次第に着こまれます。

ただ「まさか、この神田が……」と、半信半疑でございます。

お母様の慌てようが、可笑しくさえお思いです。

江川中尉の手紙を、懐深くお仕舞になられます。

勝手口では、お母様が足踏みして、お待ちです。編上げ靴を結ばれる先生のお手をもどかしそうに引いて、お母様は裏木戸に走られます。

【ウワァーンァーン。ウワァーンァーン。ウワァーンァーン】

サイレンは、鳴り続いています。

【ウワァーンァーン。ウワァーンァーン。ウワァーンァーン】

見上げられれば、サーチライトの筋が交叉しています。

靴紐が結ばれていない先生のおみ足は、倒(こ)けつ転(まど)びつ、あれあれと、それでもお引きになるお母様のお手の強さ。

「お母さん、そんなに慌てなくても大丈夫よ」

お母様には、先生のお言葉など耳に届かないようで、もうナリもフリもなく、這う這うの体。そして辿り着いた防空壕。中はご近所の人で満杯。毛布やドテラを掻き合わせる人。鉄兜を被った人。鳶口を抱えた人。その中を丸山組長が、子供たちに折り紙を配っています。

やがて【グゥーー】と言う重苦しい呻り声が聞こえてきます。敵機の音です。壕の中の人々の表情が変わります。気配を探る、打ったような静けさ。自動豆電灯が、ジーと音をたてています。

そこに、【ドカン。ドカン】と、鼓膜を圧する轟音。地面は揺れます。響きます。そしてその度に、悲鳴が起きます。爆撃です。

【ドカン。ドカン】

先生は、轟音を皮膚で聴いていらっしゃいます。

【ドカン。ドカン】

どこがやられているのでしょうか。近いようです。しかし壕の中では、何も分かりません。それだけに、怖いです。

先生は、「まさか、この神田が……」と、現実を信じられないようです。

【ドカン。ドカン】

瞠目する人、数珠を爪繰る人、口で何やら沈吟する人が、悲鳴の渦の中、異様です。

【ドカン。ドカン】がなくなりました。静かです。

人々は互いの目を探ります。恐怖は人の数だけ少なくなります。壕の中には、何人いるのでしょうか。この人数では、ただただ恐ろしいだけです。

先生は、お胸の手紙を確かめらようとなさいます。気付かれればお手は、まだお母様がギュッと握られています。

「お母さん、靴紐を結ぶから手を放して」と先生は囁かれます。お母様はハッとお手を放されます。先生は胸元を押さえられます。手紙はあります。先生は紐を結ばれながら、何とかここをやり過ごさなければ、とお考えです。また、お母様が先生のお手をきつく握られます。あちこちで子供が泣き始めます。丸山組長が折り紙を持ってあやしに行きます。子供は泣き止めません。壕の奥に、丸山の奥さんが防空頭巾を目深に端座しています。流石です。陸軍中将の娘です。落ち着いています。

そこへ、バサッと防空壕の小さな扉が開きます。中の人たちは驚いて一斉に扉を見つめます。警防団員です。

「まだ、こんなところへ居るのか。退避。退避。ここらも火の海になるぞ。退避。退避。蒸し焼きにされるぞ」

そう怒鳴った警防団員の後を、キーンと言う落下音がしたかと思うと、バリバリバリと機銃掃討。火花が飛び散ります。石が弾けます。土煙が立ちます。警防団員は壕に飛び込み扉を閉じます。閉じた扉の外から熱が伝わります。コゲ臭い匂いも扉の隙間から漏れます。封じられた人々は、唇を引き締め、目引き袖引きを始めます。狭く暗い壕の中、泣き止まぬ子供の声を耳に、みんな恐怖に耐えられなくなっています。その時、

「ギャ―ア。焼け死ぬ。焼け死ぬ」と、絶叫しながら外へ飛び出した人がいます。女の人です。誰でしょう? 誰だったのでしょう。

「丸山の奥さんが、飛び出した! 組長の奥さんが、逃げた!」誰かが叫びます。

折り紙を配っている丸山組長は、壕の奥を細目で伺っています。組長の表情が見る見る凍り付きます。そして、折り紙を投げだしかと思うと壕から飛び出しました。それを潮に、壕の中の人々は出口に殺到します。

「落ち着け、落ち着け!」警防団員の怒声です。

「落ち着け、落ち着け!」誰も落ち着いてなどいません。我が先にと出口は大混乱です。先生のお手を、きつく握られたお母様がおっしゃいます。

「おじいちゃん、おばあちゃんは大丈夫かしら?」

「きっと、大丈夫よ」

お二人は、出口の混乱の隙間を縫って外へ出られます。障子紙なのか、襖の紙なのか、赤い火を燻ぶせらた焦げた紙がフワフワと、辺りに飛んでいます。駿河台の崖に掘られた防空壕からは、周りの状況が見通せません。ひとまず大通りへと駆けられます。硝煙の臭いが、鼻を衝いてきます。土煙が霧のようです。半鐘を激しく打つ音が聞こえます。そして先生のお顔が引きつります。通りを隔てた錦町の立ち並んだ建物の窓々から煙が噴き出ています。煙は瘤の上に瘤を重ね、上へ上へと膨らんでいます。あちこちで炎が建物を這っています。這いながら炎は舌のように震え、天を舐めようと控えています。火の粉は、夜空を梨地に変えています。サーチライトが交叉して梨地の空を彷徨っています。再びサイレンが鳴ります。焦ったように鳴っています。大東京の泣声のようです。

【ウワァーンァーン。ウワァーンァーン。ウワァーンァーン】

お母様は、粉雪のような火の粉を払いながらおっしゃいます。

「おじいちゃん、おばあちゃんが心配。蔵に逃げているかもしれない」

「近くに防空壕があったはずよ。何で蔵に?」

「前にそんな事を、言っていた気がするの。お母さん、見に行って来る。防空壕に逃げたとしても心配。彩子、あなたは逃げなさい」

「何を言っているの。わたしも行くわ」

お母様は頷くと、ご自身と先生の頭巾を防火用水樽にザブンと浸します。お母様の瞳は緊張の薄氷が張ったようになり、それが炎を映し出しています。あの、古いファッション雑誌を眠るように見ていた目ではございません。

 小川町は炎に赤く照らされています。炎の揺らめきに合わせ、小川町は赤く揺れているようです。家々の壁に、リアカー、大八車、そして、さ迷う人、怒声を上げる人、悲鳴を上げる人、消火に右往左往する人の影が海の藻のように揺れています。先生とお母様の影は、その中を疾走します。まっしぐら。お母様のご実家、陽清堂にまっしぐら。

 陽清堂のガラス戸は鍵がかかって動きません。お二人は裏手に回り、裏木戸を押します。開きません。火の粉がヒラヒラ舞っています。見上げる空の煙は赤を吸い込んで不気味な色です。先生はその煙を見上げられながら、裏木戸に体当たりされます。ビクともしません。再びお二人は表に回ります。先生は何かの映画でご覧になった、泥棒が家に侵入する場面を思い出されます。そしてガラス戸の鍵の辺りに、手拭で包んだ石をぶつけられて、ガチャリ。先生が鍵へとお手を伸ばされたその手背に、キズが一筋。

「あっ」

「大丈夫、彩子!」

「大丈夫」

先生は必死で鍵を外されます。鍵は外せました。お二人は奥の蔵の方へと急がれます。蔵の白漆喰は橙色に光っています。蔵の入口にはトタンが立ててあります。お母様がそのトタンを外して、

「おとっつあん、おっかさん」と叫ばれます。

「お前。逃げて来たのか? よく来たよく来た。入れ入れ」おじい様の声です。

「何を言っているの。助けに来たのよ」

おじい様とおばあ様は、蝋燭を間に木箱に向かい合って座られています。

「気でもふれたか。外に居らんで入れ」

「こんなところに居たら、やられてしまうわ」

「何を言っている。この二百五十年持ちこたえた陽清堂の蔵が、鬼畜米英の弾にやられるものか」

「錦町に、火の手が上がっているのよ」と、お母様はおじい様の手を引っ張り上げられます。おばあ様は戸口から外を覗かれます。

「きな臭いねえ。火の粉が降っているねぇ。逃げた方がいいかねぇ」

「いいかねぇ、なんて呑気な場合じゃないの」お母様は叱るように言います。おじい様は腰を上げ、おばあ様の後から外を眺められます。

「火に囲またら、大変だ。逃げた方がいいなぁ」

通りに出られます。通り隔てた錦町は、この少しの時間で火の範囲が広がっています。火の粉は緋色の吹雪です。地面が炙られ熱いです。おばあ様はその場にへたり込まれます。おじい様はびっくりなさいます。

「おばあさん、大丈夫か」

「神田が、こんな事に」とおばあ様は涙ぐまれます。

「俺の背中に」とおじい様はおばあ様に背を向けられます。おばあ様はその背にお手を掛けられます。

「神田が、焼かれてしまう」おばあ様の声は震えています。

炎は、熱風に煽られ不気味な掌のようになり、路面電車の柱を撫ぜ擦ろうとしています。木材がパチパチと爆ぜ返り、ギュウギュウ軋んでいます。バサッバサッと、あちらこちらの建物が倒れていきます。手押しポンプとバケツリレーの水が、あざ笑う炎に飲み込まれています。

そこへ不気味な機械音が、肌をヒリつかせる熱い空気を震わせて、西から近づいて来ます。再び鳴り始めた空襲警報のサイレンが鼓膜を押します。先生は、まだ攻撃して来るのかと空を見上げられます。不気味な機械音が正体を現します。青い光を放つB29です。鈍い銀色の翼が、頭上のすれすれを飛んでいるように見えます。高射砲が、銀の曲線を放ち迎撃します。当たりません。東条英機は言いました。「敵の飛行機は、精神で撃墜するのだ」。先生は、撃ち落せるよう祈られます。しかし当たりません。数機のゼロ戦が飛んで来ます。「日本男子が精こめて作って育てたわが愛機」です。「空の護りは引き受けた 来るなら来てみろ赤蜻蛉」と歌われたゼロ戦です。サイレンが悲痛な呻りを上げます。サーチライトの交叉は狂乱です。ゼロ戦の迎撃が始まります。空中に火花が走ります。B29は機体を翻し、弾を器用に避けています。B29が反撃を始めます。サーチライトと高射砲の光が縦で、攻撃の青白い光が横。空に模様が引かれます。先生は、東京で空中戦が行われている現実が信じられません。臭いと熱と振動のある映画のようです。悲しい事に、空の護りゼロ戦が、次々と撃ち落されています。やがて、ゼロ戦を全部撃ち落としたB29は、悠々余裕で照明弾を落します。落下傘に吊られた照明弾は、ひらひらと閃光を放ちながらゆっくり落下して来ます。先生は眩しさに、お目を細められます。次に、【ヒュー、ヒュー、ヒュー】と爆弾が落とされていきます。一機一機が、掌に掴み切れない豆をばら撒くようです。その爆弾は途中で炸裂し、パラパラと細かい弾となり、青白い閃光の驟雨となります。閃光の驟雨は、ベターとありとあらゆるものに貼り付き、ありとあらゆるものを燃やし始めます。油脂が爆ぜる音。その臭い。焼夷弾です。先生は、すべてが……、正直申し上げます、すべてが怖く美しいと、見惚れられていらっしゃいます。

「彩子、逃げるわよ」お母様の裂(さい)布(で)のお声です。先生はハッとなさいます。

「お母さん、どこに逃げる?」先生は火の粉が目に入らないよう、頭巾を目深に被っていらっしゃいます。

「淡路町の方は燃えていないけど、人家が密集しているから、九段に逃げましょう。お堀もあるし、見晴らしもいいから」

九段の方を見ますと、小川町三丁目付近が炎の断崖になっています。先生はその方をご覧になり、お身体をこわばらせられます。

「走り抜けるのよ」

先生は頷かれます。おじい様とその背の負われたおばあ様は、陽清堂の看板の文字を指先でなぞられています。

「おとっつあん、逃げるわよ」

「この看板を残してか?」

「そんなものに、未練を残さないで!」

「お前……」

「そんなに惜しいのなら、切り外しておけばよかったじゃない!」

「誰が、ここが空襲されると想像した!」

「後の祭りよ」

「クソ―、鬼畜米英めぇ」

四人は赤い熱を切り裂きながら走られます。

「そこの女、逃げるな。消火活動をしろ!」

在郷軍人らしき人が、メガホンを口に当てて先生を指さして怒鳴ります。その顔は炎に照らされ真っ赤です。先生は立ち止まられます。

「彩子。無視しなさい!」お母様は眦(まなじり)を吊り上げます。

先生は、首がちぎれる程に頷かれます。

「この非国人めがぁ」

声を振り切られます。呼吸される空気は赤く、鼻の奥を搾り上げ脳まで焦がしそうです。風が凄いです。それも皮膚を剥がすような熱い風です。喉が針を飲んだようにチクチク痛みます。トタンが、燃える襖が、木戸が、飛び交っています。

小川町を抜けた神保町は、被災の場所からは離れております。しかし、上がった火柱は目の前に渦巻いています。火鉢や丸太のようなものまで焚き上げられ、空を舞っています。阿鼻叫喚の声が熱風に歪んで聞こえて来ます。地獄のようです。すべてが真っ赤です。赤。赤。赤。赤は、気を高めます。血も赤色。先生は、炎の赤にご自身の血の赤が、煽られて、騒ぎ合っているように感じられます。血が青ければ、この怪しい感覚は起きないのに……。神保町は攻撃をうけておりません。しかし、熱い暴風に揺れおののいています。その暑い暴風は、先生の体温を上げていっています。

「お母さん、ちょっと待って」先生は立ち止まられ、上着を脱ごうとなされます。それさえ、暴風に邪魔され、ままなりません。やっと両袖を外されたとき、先生の胸元を熱い風が膨らませます。その風は、胸元深くお仕舞になっていた江川中尉の手紙をさらい、高く舞い上げます。

「ああっあ……」

先生は、手紙の舞う空へお手を伸ばされます。手紙は火柱に吸い込まれていきます。

「ああっ」

先生は、二歩三歩、お手を伸ばされたまま手紙を追われます。

「ああ……」

伸ばされたお手の手背に、先ほど鍵を開けた時の傷から、一筋の血が流れています。わたしの血は、赤い。先生は思われます。血が青ければ、手紙を捕まえる事が出来たかもしれない。先生は、流れる血に唇をお付けになりました。

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