第21話

 ところで、昭和十八年春から秋にかけて、戦争の行方はどうなっていたでしょうか。まずヨーロッパの状況を簡単にさらっておきます。ドイツでは、大西洋で戦果を挙げていたUボートによる通商破壊が、連合国のレーダーに屈服し、北アフリカ戦線も、アイゼンハワーの総指揮下の連合国に、五月十三日降伏しました。膠着状態であった東部戦線は、スターリングラードの攻防戦に二月二日に敗北しました。イタリアはどうであったかと言うと、七月十日に連合国のシチリア上陸を許し、九月八日にとうとう全面降伏しました。次に日本の戦いに目を向けます。ガナルカナルの陣取り合戦はアメリカの圧勝で終結しました。三月二日、日本軍はガナルカナルを撤退しました。二万人の犠牲者を出ました。その多くが餓死者であったと言われております。目を覆いたくなるような酸鼻な敗北でございます。大本営はガナルカナルの撤退を転進と発表しました。五月三十日、北太平洋アリューシャン列島のアッツ島が全滅しました。大本営はこの全滅を玉砕と発表しました。モノは言いよう。大本営は、言葉の綾で責任を誤魔化しました。アメリカは軍服に付いた砂をポンポンと払い、太平洋を眺めながら、ラッキーストライクの煙を景気よく吐き出しました。

 日本国内を見てみます。各家庭へのガスの割り当てが決まりました。すると、周りから枯れ葉、枯れ枝がなくなりました。金属の回収が始まりました。先生宅も、蚊帳の環、アルミ・鉄製の鍋釜・火箸、そして七台あったミシンのうち五台とすべての電気アイロンを供出なさいました。お母様のご実家陽清堂では、餡や葛を煮る鍋や薄皮を焼く鉄板まで、強制的に供出させられました。町から、村から、ご近所から、次々に青年が徴兵されていきました。昭和十八年十月には、学業半ばの学生までもが徴兵されました。学徒出陣です。一刻も早く銃を手にしたいと、鼻息の荒い若者がいました。鼻息の荒いフリをする若者もいました。『戦争は、その経験なき人々には甘美である』。これは、古代ギリシャの詩人ピンダロスの言葉です。


      ♪夢に出て来た 父上に

         死んで還れと 励まされ(作詞・薮内喜一郎 『露営の歌』より)


彼らの中には、このような軍歌を歌い、ヒロイズムにうっとりする若者もいました。当時の男子なら一度は誰もが、戦場での晴れ晴れしい壮絶な死を夢見たことでしょう。そう教育されていたのです。しかし召集令状を目にすると慌てました。当時、意識調査などなく、あったとしても本当の事は書けず、【戦争に行きたい・戦争にやや行きたい・戦争にやや行きたくない・戦争に行きたくない】と言った四択があっても、そしてそれが無記名でも、本音を記載しなかったでしょう。と同時に生き残った将兵が、平和主義に塗り込められた戦後に、「戦争には反対でした。行きたくはありませんでした」とインタビューに答えていても、真には受けてはいけません。ただそれを差し引きましても、わたくしの記憶の中では、七割から八割がた、いえ……、九割がたの若者は、召集に慌てておりました。実際、右手人差し指を傷つける若者もいました。右手人差し指は銃の引き金を引く指です。ただそんな事はお構いなしです。銃が引けないのなら刀を握れと、あちこちで出征の万歳が叫ばれ、そこここで日の丸の小旗が振られました。そして若者は目を瞑るようにして入営をしていきました。男に生まれなくてよかった。そう思った女性は多かったと思います。徴用の数も日増しに増え、周りから働き盛りの男性がいなくなりました。先生の叔父様健一郎様も、川崎のタイヤ工場に徴用されました。国民生活がじわりと厳しくなって参りました。何と申しましても一般的な商売が禁止となり、すべて配給制となりました。その配給さえも、物不足から十分な数量を国民に割り当てる事が困難になっておりました。お米の不足分は、麦・粟・大豆で補われました。肉や卵は手に入りませんでした。魚や野菜は月に六・七回ほど配給されました。大根には長さの制約があり、葉物も枚数が数えられました。配給所で「内緒ですよぉ」と勿体付けられて、大根の葉っぱや芋の葉や蔓をもらえたら人々は驚天動地で喜んでいました。魚で、アジやマグロなどはまずお目にはかかれませんでした。ニシン・塩鮭・マス・スケソーダラ・ローソクホッケがもっぱらで、時にサメが配給されました。サメは臭くて食べられませんでした。砂糖・酢の配給は途絶えました。それでも塩と味噌と代用醤油(アミノ酸醤油とも言われ、豆粕や麩を原料としました)だけは配給されていました。国民は不足した食材で、何とか満足できる料理を作ろうと工夫を凝らしました。国策炊き(熱湯で米を膨張させてから炊くと通常より三割量が増えました)や楠公飯(炒った玄米を一晩水につけてから炊くと、五割量が増えました)が推奨されましたが、余り普及いたしませんでした。芋・豆・雑穀を入れた炊き込みご飯がよく作られました。ここに昭和十八年七月号の雑誌『婦人世界』がございます。そのページを開いてみますと、衣都子先生が台所にお立ちになって料理なさっているお写真がございます。『足らぬ、足らぬは、工夫が足らぬ』と言う標語がそのお写真に添えられています。そのページには、先生が考案された代用食が紹介されています。『塩鮭の骨を炙ってそれをすり鉢で細かくし、干したお茄子の蔕などもすり鉢で細かくします。それを塩と混ぜますと、美味しいふりかけになりますの。炒りゴマが入ればもっと香りが出ますわ』。これもヤラセでございます。先生はそんなふりかけを発明されておられませんし、召し上がった事もございません。先生は国民啓発の宣伝にも使われました。何しろ先生の月給は三百円でした。目いっぱいコキ使われました。

 先ほど、標語について少し触れました。昭和十八年に流行った標語は、

『頑張れ! 敵も必死だ』『その手ゆるめば戦力にぶる』『理屈言う間に一仕事』『兵隊さんは命がけ、私達は襷がけ』『欲しがりません、勝つまでは』などでございます。まだ、何か少し、すくいのある明るさが標語に出ていませんか? 耐久困窮生活の中、わずかな明るさを持ちえたのは、大本営発表の嘘の戦果にすがる事が出来たからでした。

 先生は、『姉』の封切り前から、次の映画の撮影に入っておられました。昭和十八年夏から十九年の春にかけて、先生ご主演の映画が三本撮られました。松江城の人柱となった少女の物語『乙女の本懐』。会津籠城の足手まといにならないように自決した西郷頼母の娘の物語『覚悟』。日本武尊を救うため海に身を投げた弟橘姫の物語『英雄の妻』。すべて犠牲の『死』が描かれた映画でした。観客が主人公の『死』に涙しながらも、国や皇室への報恩に心熱くするように筋立てられておりました。ご出演の先生は正直申し上げますと、映画の中の『死』を美しいとご理解されていらっしゃいましたが、その行動は愚かだと思っていらっしゃいました。これらの映画が撮影されました頃、映画会社の社員スタッフや役者の多くが徴兵徴用され、映画会社の統廃合も進んでおりました。最終的に三つの映画会社が生き残りました。関西の鉄道王が東京に作った帝宝。中小の独立プロが統合した総映。そして興国映画、略して興映。ただフィルムの極端な不足から、各社の撮影本数は十本以内に制約されていました。その内の三本が衣都子先生ご主演の映画でした。陸軍が内田衣都子を主演にと具申した三本でしたが、興国映画の先生への力の入れようも伺えます。

 昭和十九年一月早々、ドイツはソ連からの全面的な引き上げを開始しました。それを追撃するソ連軍によって、ドイツの勢力範囲は狭まっていきました。日本に目を移しますと、二月十八日にトラック島が、同月二十三日マーシャル諸島が陥落しました。アメリカ軍を一挙に日本本土に近づかせました。国内の物資は底をついておりました。その底を抉るようにして配給が行われました。困窮したのは何と申しましても食料です。お米はおろか、麦・粟・大豆さえも滞りがちでした。芋の茎・大根の葉・野草の、お米が十粒ほど浮いた薄い塩味の雑炊を、国民は啜っておりました。また、大豆粉・トウモロコシ粉・米ぬかが混じった小麦粉を溶いて、野菜くずと一緒に炊くすいとんがよく食べられました。ふかした芋が半分だけとか、かぼちゃを炊いたものが五切れだけだとか、そんな食事もありました。『足らぬ、足らぬは、工夫が足らぬ』どころではもうございませんでした。工夫する食材がなかったのです。日本人の顔が、艶なく不健康に陰りました。陰っても財政にしめる軍事費は、85.3パーセントに膨れ上がっておりました。食べ物より、一振りの刀、一丁の銃が大事なのでした。

ここに昭和十九年三月号の雑誌『婦人世界』がございます。紙も劣悪なものです。ページを開いてみます。先生が野原でタンポポを摘んでいるお写真がございます。『タンポポを茹でて塩もみしてみました。思ったほど苦みも無く、噛めば噛むほど甘く感じました』と文章が添えられております。これもヤラセである事は申し上げるまでもないでしょう。政府も必死でした。食料不足を乗り切ろうと、栄養学・植物学の権威を集め、研究をさせました。配給だけでは生存さえ危うくなっていたのです。食べられる野草の料理がさかんに紹介されたのはこの頃です。また、芋とカボチャの栽培が奨励されました。自宅の庭・運動場・ビルの屋上・甲子園や国会議事堂の前庭・江戸城の天守台まで畑になりました。

人気女優と言えども、配給が優遇された訳ではございませんでした。先生宅の裏庭でもカボチャが栽培されました。ミサさんは根を上げて、生まれ故郷の千葉に帰ってしまいました。ただ先生は時々、陸軍から流れた肉や魚や果物の缶詰を入手される事が出来ました。『国策映画の貴重な少女役』は、竹林誠造専務が言ったように運が良かったのです。

昭和十九年六月二十一日マリアナ海戦敗北。同年七月七日サイパン島陥落。日本は本土防衛のために何が何でも守らなくてはならない『絶対国防圏』を設けておりました。千島列島から小笠原諸島、そしてサイパン島を含むマナリア諸島からニューギニア・ビルマに至る広大な範囲でした。サイパン島陥落で、『絶対国防圏』が破られてしまいました。アメリカは、日本本土を直接空爆できる基地を作りました。(同年の六月十六日には、B29による初の空爆が、北九州の八幡製鉄所を目標にありましたが、それは中国の成都から発機したものでした)。東條内閣は責任をとって総辞職しました。国は防空壕を作る事を奨励しました。丸山組長下の隣組も、駿河台の斜面に防空壕を掘りました。ただ政府が防空必要性を叫んでも、多く国民は今ひとつピンと来ていないようでした。過去二度の空襲を受けてはいましたが、日清・日露・第一次大戦で国土を攻撃された経験のない日本人には、空襲の現実感がなかったのです。ラジオ・新聞・回覧板で、消火の心得が鼓吹(こすい)されました。それがまた、これでもかと言うほどに、アメリカ兵器を馬鹿にした情報でした。

「爆弾に水をかけて機能を消失させよう」

「爆弾をスコップで庭に放り出せ」と言った具合です。これが、空襲恐れるに足らずと言う気風を日本人に醸成していました。

しかしここにお一人、「どうしましょう。どうしましょう。怖い。怖い」と空爆をご心配なさっている女性がいらっしゃいます。心配性の衣都子先生のお母様でございます。お母様はリックサックに、炒った大豆と梅干と缶詰、宝飾品・現金・通帳・国債の証書・株券などを詰め込まれ、「いざ!」の時の準備に余念がございませんでした。暗いお顔で作業なさるお母様を横目に先生は、『神州日本が、ひどい目にあうことはない』と自信を持っていらっしゃいました。そしてオロオロなさるお母様を、可笑しくさえ感じていらっしゃいました。しかし何と申しましょうか、お母様の余りのご熱心さをお目になさいますと、何か安心させる材料はないものかとご思案されました。そして、

「あっ、そうだ」と小声を出されました。先生はご自分のお部屋に駆け上げられ、ブリキ缶と小さな紙袋を持って来られました。

「何なの?」とお母様。

先生はブリキ缶を開けました。その中にはキャラメルが整然と並んでおりました。キャラメルは幾度かお分なさっていたので、三百粒ほどになっていました。

「どこで手に入れたの?」とお母様は驚きのお顔を先生に向けられました。

「慰問袋に入れるキャラメルを、少しずつ残していたの」

「まあ」

「何かの時に、役に立つかもしれないから、半分に分けて、おかあさんとわたしのリュックに入れておきましょう。この袋の中には、キャラメルの箱もあるから、これも」と先生はおっしゃいました。

「リュックサックに入れて、持って逃げられないものは、どうしましょう。おじいさんは、庭に埋めるって言っているのよ」

「そうなの」

お母様は頷かれました。

「うちも、埋めておこうかしら」

「そうね。万が一って事も……、あるかもしれないわね」

先生はコホンと咳でもなさったかのようにおっしゃいました。

お母様は黒い布で覆われた電灯を不安顔で見上げられました。

 次の日曜日、プレさんにお願いして、先生宅の裏庭の桐の木の下に穴を掘りました。一メートルほどの深さの穴でした。暑い夏の日でした。休み休みでなければプレさんの身体がもちません。半日かかりました。掘り終わったプレさんは陶器の椅子に腰掛けて、出された缶詰めの蜜柑を美味しそうに食べていました。そこへ先生とお母様が、木箱を三つ持ち出して来られました。

「えらい、ぎょうさんどすなぁ」プレさんは額の汗を手拭で拭きながら言いました。

「箱、開けても、よろしおすか? ほぉ……、ええ食器ですなぁ。これは何でっか? ああ、銀でっかぁ……、よお、供出かわされましたなァ」と言って銀のスプーンを新聞紙にくるみ直しました。

「銀は、あきまへんでぇ。錆び付きまっしゃろ。銀のもんは、あかんなぁ。それは何だんねん? ああ着物。ええもんどすなぁ、せやけど、あかんなぁ。残念どすが、黴ますやろ。そっちの新聞紙にくるまれた四角いもんは何どすねん? ほお、これがあんたのおとうさん画いた絵? 大事なもんやけど、これもあかん。そのアルバムも、あかんなぁ……。あれ? それ何どす? フィルムちゃいまっか? えっ? あんたのちっちゃい頃が映っとる……? 開けてもよろしおすか? おお、9.5ミリフィルム。古いもんやなぁ。写す映写機があるんかいなぁ? ええ! お宅にある? そりゃあ貴重品やぁ。このフィルムも埋めん方がええやろぉ。そうどすなぁ……、この食器ぐらいしか埋められしまへんなぁ……」

お母様は、悲しそうに木箱を見つめられました。プレさんは、そのお目を掬い上げるように盗み見して、上下の唇をギュッと歯に挟みました。そして、

「どうですやろ? 今、会社の映画フィルムを全部、地下の倉庫に移してんやけど、食器以外のもんは、そこで預かとこかぁ? あんた、内緒やでぇ。迷惑……? ああ、かまへん、かまへん」と掌を振りました。お母様と先生のお目は喜色に輝きました。その四つの瞳の輝きを見て、プレさんは少し胸を反らせました。

「出社の時、車に積んでこっそり持って来るんやで。」

人気女優になられた先生は、車で送り迎えされていました。

「映写機も、預かっておくわ」

プレさんは頭を手拭で撫ぜ、後ろポケットからベレー帽を取り出しあみだに被りました。

 日本人が空襲の備えに翻弄していた頃、それは出征の見送りと英霊の出迎えに忙しい時でした。ラジオでは大本営が、

「我が国は赫赫たる戦果を上げ、熱い必勝は疑うべくない事実となっております。国民の皆さんの、増産、貯蓄、勤労の頼もしさ、その健気さを裏切る事のないよう、大御稜(だいごりょう)威(い)の下、皇軍の必勝をより確固とすべく、我ら将兵は、断じて頑(がん)敵(てき)を撃滅し、輝く八絋為宇(はっこういう)の大理想顕現(けんげん)に、いよいよ忠誠を発揮せんと誓うものであります」などと奮舌しておりました。しかし勘のいい人は、「誓うものであります」と切り上げた歯切れの悪さに、首を傾(かし)げていました。その上、白い布に包まれた英霊の帰還が引きも切らぬ状況で、赫赫たる戦果を疑う人も少なからずいました。

 隣組の家族の中にも、英霊として小川町に戻って来た人がいました。山口さんの長男もその一人でした。山口さんの奥さん、つまり英霊のお母さんは、隣組組長の丸山の奥さんの取りまきの人でした。そうです。組長宅の常会で先生が天照大神の寸劇をなさった時、天岩戸ならぬ襖を開いた人です。先生はお母様に誘われて、山口さんのお宅にお悔やみに行かれました。祝儀・香典などの儀礼は、国の方針として推奨されておりませんでしたが、さすがに手ぶらではと、お母様は幾分かの現金を包まれました。紙不足から香典袋がなかったので、スケッチブックの一枚を破られ、そこに包まれました。

『誉の家』と記された表札を潜られると、奥よりチンを叩く音が聞こえました。山口さん夫妻は奥の間の仏壇の横に座っていました。ご主人の握り拳は、国民服の膝の上にありました。喪服の奥さんは頭を垂れて正座していました。その部屋には、丸山の奥さんと安田の奥さんもいました。丸山の奥さんは黒紋付きの着物をモンペに突っ込んで、お勝手近くに端座していました。真夏の時間は油照りした暑気に止まっておりました。駿河台からツクツクボウシの鳴き声が聞こえました。先生のうなじに汗が流れました。

お母様に続いて先生がご焼香をなさいました。正面に白布に包まれた箱がございました。お母様は、何と言葉をかければいいのか困られたのでしょう、山口夫妻にただ黙って頭を下げられました。夫妻も言葉なく頭を下げました。悲痛な挨拶でした。線香の煙が英霊の遺影の前を曲を描いて流れました。唐突に丸山の奥さんが、

「山口さん、お気持ちは分かります。しかし、あまり悲しんではいけません」と、低い声で言い放ちました。そして、更にゆっくりとした口調で続けました。

「ご子息は、身を挺して皇国の鉾(ほこ)となり、忠烈なる日本人の証を示されたのです。その赤(せき)誠(せい)は天に届き、天晴れ、日ノ本を見守る軍神となられたのです。あなたは、後に続く若き母親たちに、軍神の母としての範をしめしていかなければならないのです。ご子息は、靖国神社で軍刀の鍔に親指をかけ、爽やかに笑ってあなたを見守っておられます」

山口の奥さんは腰を折って頷きました。

「きっと『お母さん、そんなに悲しんでくれるな』と、鈴の向こうで言われているはずです。わたしには、聞こえます。『自分は、闘魂の鬼となり、七生報国、またお母さんの子供として生まれ、天皇陛下の赤子として働きます』。ご子息はそうおっしゃっています。あなたも、ご子息に負けないよう、乗り越えて行かなければならないこれが試練なら、喜んで踏み越えなければならないのです。そこに忠義と正義があるのです」

山口の奥さんはまた腰を折って頷きました。

「わたしも、時が来れば、ご子息の仇を討ちたい。憎き敵の首を掻き切って、ご子息の墓前に捧げたい。しかし、今はまず、怒りも悲しみも腹の帯に巻き〆て、乾坤(けんこん)比類ないご子息のお働きを汚さぬよう、靖国の御霊ともに堅忍(けんにん)し、尽忠(じんちゅう)報国の勤めを、ただただ果たす事を第一にしていきたいと思っております」

山口の奥さんは、頭が畳に付く程に頷きました。

丸山の奥さんの隣に座っていた安田の奥さんは、悲痛な面持ちでした。安田さんの長男と次男も、戦場へと駆り出されていたのでした。

「『君がため なにかおしまん若櫻 散って甲斐ある 命なりせば』。これは、真珠湾で敵の駆逐艦に突撃された古野(ふるの)海軍少佐の辞世の句です。ご子息も、この小川町から出征された時、『散って甲斐ある』と、胸に立派なご覚悟を抱いていたと思います。山口さん、分かりますか」

山口さんは、肩を震わせて折っていた腰を立てると、真っ赤な目を丸山の奥さんに向け、

「分かりません」と鋭い声で言いました。ナリもフリも構わず、目も鼻も濡れておりました。

「分かりません。丸山さんには、子を持つ母の気持ちが分からないでしょう」

さてこの頃ヨーロッパでは、昭和十九年六月六日にノルマンディー上陸を成功させた連合国が、次々にフランスのナチスの拠点を陥落させていました。ベルリンのヒトラーは、東のソ連、西の連合国に挟み撃ちされる形となりました。太平洋では、八月十日、グアム島の日本軍が全滅いたしました。イギリスと互角で戦っていたインド・ビルマ方面は、インパール作戦の失敗によって瓦解(がかい)しました。国内では、見送る出征の数より、出迎える英霊の数が多くなって参りました。召集・徴用の年齢制限はなし崩しになり、町から村から青壮年男子の姿が消えました。学生が、学徒動員・女子挺身隊として軍需工場の奉仕に駆り出されました。学童疎開も始まりました。女が列車やバスの運転手になり、不足した労働力を補いました。そうなりますと、未婚の若い女と既婚男の接点が出来ました。不倫が日常茶飯事となって参りました。

国内の食糧事情は悲惨でした。主食の配給は芋と豆粕だけになりました。ばった・かえる・ヘビを食べる人もいました。町にも村にも、野良猫・野良犬はいなくなりました。ここに昭和十九年七月号の雑誌『婦人世界』ございます。ページをめくりましても、内地の雑誌には、もう写真などはありません。『食料不足を補うために』の見出しのページを開いてみます。衣都子先生などの女優が、明るく調理法を説明しているような余裕など、もうなくなっております。ネズミの食べ方が載っています。よく消毒し骨は食べないようにと注意が添えられております。専売制だった塩を採る方法まで載っています。七輪と鍋を海に持って行って、流木やゴミで火をおこすように説明されています。さらにページをめくってみますと、『わたしの工夫談』と言う欄があり、のこぎり屑、ドングリ・稲藁の粉末を小麦粉に混ぜたパンの焼き方が紹介されています。のこぎり屑やドングリ・稲藁が美味しそうに見えたのです。わたくしの記憶に、新聞がやたらと、

『大陸や南方の兵隊さんの苦労を思えば、空腹などクソくらえだ!』

『もう少しの辛抱だ! 大和魂は弱音をはかない!』

『気合で腹の虫を押さえつけろ!』などと、気炎を上げていた事を覚えております。国が書かせたものなのか、根性論や精神論で空腹を誤魔化そうとしていました。大本営は、相変わらず善戦が続いているように宣伝していました。本格的な空襲はまだ始まっておりませんでした。それだけが幸いでした。ただ、都市部の飢餓状況は限界に達しておりました。人はヤミ取引に走りました。地方の農村に大金と土産を持って行き、そこでいくばくかの食料を分けてもらったのです。

健一郎叔父様の工場の休日に、先生のお母様も買い出しに連れて行ってもらう事になりました。陸軍からの横流しもなくなっていました。先生も行くとおっしゃいました。しかし健一郎様は、

「女優が買い出しってことあるか」と笑われました。

 買い出しのお土産に、お母様は田舎の人が喜ぶだろうと、ご自身がお作りになった洋服を持って行かれました。しかしそれは役に立ちませんでした。こんなものいつ着るのかと、歯牙にもかけない扱いをお受けになったそうです。そして、大金を払って手に入れた三合のお米とわずかな野菜くずを台所に並べられながら、お母様は、

「指輪を持って行こうかしら。それか、プレさんに預けた着物か……」とため息交じりにおっしゃいました。

「お母さん、それはいくらなんでも」と先生。

「汽車でいっしょになった人がね、総鹿子の振袖を持って行って、農作業を手伝いながら、頭を地面に擦り付けて、公定価格の五十倍のお金を払い、やっと米一升分けてもらったって、言っていたのよ。その人に、世間知らずねって、笑われたわ」

「そうなの」

「ええ、もう、お百姓さん、威張って威張って。お母さん、腹が立ったわよ。でも、我慢してね。やっと三合」とお母様はおっしゃって、一握りのお米を大切そうに鍋に入れられました。先生はお母様のお手からポロポロ落ちるお米をご覧になって、

「キャラメルはどうかしら」とおっしゃいました。

「キャラメル?」

「リュックにしまったキャラメルよ。箱も取っていたから詰め直して……」

「キャラメルねぇ」

「きっと喜んでくれると思うわ。だって、キャラメルなんて手に入らないのですもの。指輪や着物は、それが駄目だった時の方法よ、ねぇ、お母さん」

先生のご想像は見事に的中いたしました。お母様は次の買い出しの時、二箱のキャラメルをお百姓さんに土産だとお見せになったそうです。黄色いキャラメルの箱を見たお百姓さんの目の色は変わり、希望されただけのお米と野菜を分けてくれたのだそうです。背中と両手に、荷物を抱えられたお母様は戻られるなり、

「二箱なんて、勿体なかったわ。一箱で充分ヨ」と本当に嬉しそうにおっしゃいました。残りのキャラメルを詰めると二十七箱できました。

「これだけあれば、四ケ月ぐらいのお土産になるかしらね」とお母様。

先生は、余った六粒を三粒ずつ二つのりリュックにしまわれて頷かれました。

 お母様がヤミの買い出しにお慣れになった頃、国が新たな義務を国民に課しました。貴金属の強制供出を命じたのです。その知らせの回覧板を丸山の奥さんが、台所の上がり框のお母様の膝前に差し出しました。

「特にプラチナがいいと書かれています」

ちょうど先生もご在宅でした。丸山の奥さんは、台所へ来られた先生を目にして一瞬驚いた表情になりました。映画の中で幾度も犠牲的な死に方をなされた先生が、丸山の奥さんに眩しく感じられたのです。食糧不足がたたっていたのでしょうか、丸山の奥さんの顎は尖って見えました。先生に一瞬気を抜かれていた丸山の奥さんは、一息飲んで気を持ち直し、

「そもそも、戦争に関係のない贅沢品はこの緊急時には不要なものではございませんか」と先生に同意を求めるように言いました。

「勝利まで、もう一息だそうでございますよ。必勝の信念を曲げずに、わたしたち銃後の国民が、お国のために犠牲に出来る事は、すべてやり尽くしたいものです。そうでございましょう。聞いたところでは、上海のインフレがひどいそうで、貴金属を売って貨幣を回収しなければならないそうです」

「さようですか……」とお母様は回覧板をお手にされました。

「お宅は、宝飾品が沢山ございますでしょう」

奥さんは、回覧板をお撫ぜになるお母様の指先を見つめました。そして唐突にお母様の横に腰を下ろし、

「お国のために、ここは辛抱のしどころでございます。わたしは、親の形見もなにもかも、すべてお国に捧げようと思っております。回覧板の後に、家庭にある宝飾品を書き出す用紙が付いております。一つ残らず書き上げて、回覧板に記載された日時に、隣組組長、つまりわたくしの所へ、お持ちください。お宅が、まさか誤魔化しなどなさいませんことは、よく知っていますから、信用しておりますが」と言いました。そして、

「念のために申し上げておきますが、違反した場合には罰則が適用されるそうでございますよ」とお母様の顔色を窺うように見上げました。

「はぁ、それはもう、よく分かっております」

丸山の奥さんは、鍋釜の無くなった台所の隅々に目を流してから、

「それでは、期日までのご準備をお願いします」と立ち上がり、

「彩ちゃん、次の映画はいつなの?」と尋ねました。先生は今のところ映画の声は掛かっていないが、近日中に竹槍訓練とバケツリレーのニュース映画に出る予定だと答えられました。

 丸山の奥さんが帰ってから、お母様は暗い表情で回覧板をお手に、居間に向かわれました。

「国に、何もかも、全部持っていかれるわ。ウチに、男の子がいなかったことだけが、お母さんの救いよ」お母様は卓袱台に座られました。

「宝飾品は、何かあったら持って逃げようと思って、リュックサックに入れているのよ。いざの時には、食べ物と交換できるものね」お母様は長押(なげし)に掛けてあったリュックサックを見上げられました。先生はお母様の目先を追いかけられ、

「誤魔化すわけにはいかないの?」とおっしゃいました。

「だめだめ。ご近所の人たちは、お母さんがどんな指輪やネックレスを持っているのか、宝石箱の中を覗いたように、全部知っているのよ。彩子、なにびっくりした顔しているの。お母さんだって、ご近所の人たちが、どんな指輪を持っているか、箇条書きできるほど、知っているわよ。それが、女ってものなのよ」

「報国貯金に、国債の割り当て。その上に貴金属の供出まで強制して……」と、溜息交じりに口にされた先生は、金銭に関して非常に几帳面な方でした。それは、やはり、いえ当然、累々と続いた商売人の血と気質を受け継いでいたからだと思います。国を熱く尊く思う気持ちに、揺らぎはございませんでした。しかし先生の損得の感情は、また別でありました。そのお気持ちからか、

「お母さん、万が一、戦争に負けたら、元も子もなくなるわ」と口になさいました。

「彩子、そんなことは、もっと小さな声で言いなさい」

「何も正直に、申告する必要はないのじゃあないかしら。他の人だって、誤魔化す筈よ」

「だめだめ、丸山の奥さんの目は誤魔化せられないわ。誤魔化して、特高に捕まったら、大変なことになるわ」

「一か八か、誤魔化してみて、ばれたら、奥さんに注意はされるけど、特高には告げ口しないでしょう……」

「だめ。あの人は変なところが真面目だから、融通が利かないわ」

「そういうところ、あるものねぇ」

「丸山の奥さんだけじゃないわ。他のご近所の人の目だってあるのよ」

先生はリュックサックを壁から取り下ろされると、それを抱きかかえられて、

「そうだわ。いい考えがあるわ、お母さん。きっと上手くいくわ」と、大きなお声を上げられました。

お母様は、「シー」っと指を唇に宛がわれました。

「任せて、お母さん。きっと上手くいくわ」

先生のお目は、いたずら好きのあの目になっておりました。

 それから数日後、興国映画大森撮影所で、竹槍訓練とバケツリレーのニュース映画の撮影が行われました。と申しましても、実際の演習を撮影して、切り貼りするだけの映画でございました。台本などございません。演習は、在郷軍人からの訓示で始まりました。

「諸君は、この戦争に勝ちたいか、負けたいか……? そのとおりである。我々は勝って勝って勝ちぬいていかなければならないのである。鬼畜米英、何するものぞ。ただ撃滅するのみである。ここで、必勝の思いを改めて気を堅固なものにしたいのである。我々の万歳を、アメリカでも、イギリスでも聞こうではないか。天皇陛下万歳!」

その後は、『興国映画に於きましても、銃後の乙女、銃後の護りの誓いも固く、戦場の勇士に負けぬとばかり、意気軒高たるところを示したのであります』と言うナレーションに違わぬ、お決まりの演習を実際にするだけでございました。看板女優の栗崎その子さんも、モンペ姿に『大日本国防婦人会興国映画分会』の襷を掛けて、「エイ! やーあ」と、一生懸命に竹槍を藁人形に突き立てておりました。栗崎その子さんに続いて撮影の時間が長かったのは、衣都子先生でございました。新聞社も来ておりました。翌日の新聞には、栗崎その子さんと先生が並んで竹槍を突いている写真が掲載されました。

 さて話は戻ります。丁度、竹槍・バケツリレーの演習が終わりました頃、カメラマンと打ち合わせしていた内閣府情報局員のところへ、先生はおしぼりを重ねた盆をお手にされ近づかれました。

「あのう、情報局の方でございますか。まあ、今日は本当にお疲れ様でございました。タオルを湿して参りました。どうぞ」

カメラマンと情報局員は、先生が差し出されるおしぼりを、恐縮しながら受け取りました。

「いい場面が撮れましたかしら。いつも台本にそって演技しますので、少し勝手が違いまして……。いえ、ひょっとしましたら、あれです、むしろ作為のないいいものに仕上がっているかもしれないと、先ほども栗崎さんと、そんな話をしておりましたの」

先生は、首筋をおしぼりで拭く情報局員の様子を針に糸を通すように観察されていました。どうやら、情報局員は先生に好感を持ってくれているようでした。

「もう、よろしいかしら」とニッコリ微笑まれて、盆を情報局員の前に出されました。

「ところで、貴金属の供出のご命令がお国からございましたでしょう。わたくし、近々、区役所の方へ直接伺って、供出の協力をさせていただきたいと思っておりますの。日本中に方に、供出のことを本当に理解していただきたいと、そう思っておりますの。何かお力になれれば……、浅はかにも考えてみまして……。もしでございますよ、もしわたくしが家族の宝飾品を全部、区役所に持って行き、供出をしている、そんなニュース映画が撮れたらなどと、ちょっと考えてみたのですが……」と先生は、情報局員の反応を窺いながら提案されました。局員は、それは素晴らしい案だと表情を散らしました。貴金属の供出については、全国民が渋るのではないかと内閣府でも懸念していたとも言いました。そして、早速上司に相談してみると嬉々としておりました。先生は、よろしければ是非とおっしゃってその場を去られました。勢いつかれた先生はその勢いのまま、今度は新聞記者の方に近づかれて、同じことをおっしゃいました。

 数日後、二大新聞の派手な戦争記事に並んで、

『銀幕の乙女、区役所に駆け込む! 供出こそいの一番』と見出しが付き、先生が神田区長に宝石をお手渡しなさっている写真が載りました。ニュース映画も撮られました。映画の中で先生は、区長に宝飾品を手渡されながらこうおっしゃいました。

「供出は義務でございます。大切な奉公でございます。お国から言われるまでもなく、勤めを果たしただけでございます。遅すぎたと悔やんでおります。母と母の実家から預かってまいりました。お国のためにどうぞお役に立ててくださいませ」

お母様と園原のおばあ様は、供出のための宝石選びに半日かけられました。選ばれた宝石は、お二人が手放しても惜しくないと値踏みなさったものでした。数も、お持ちの宝石の半分にも足りません。映画の中の先生は、宝石に負けない輝く笑顔を、カメラに向けられていました。

 この供出の件があって、お母様はモンペの腰の周りに、丈夫な隠し袋を縫い付けられました。そして供出を免れたお大切な宝飾品を、腰周りにお隠しになりました。これで文字通り、肌身離さずになさったのでございます。

 そのころ、太平洋の東から南からアメリカは日本に近づいておりました。そのアメリカを牽制するため、満州の関東軍は次々と南方へ援兵されていました。軍人不足を補うため、国は動ける男と言う男を内地から狩り集め戦地に送り出しました。それは竈に焚き木をくべるかのようでした。お母様の弟、健一郎様に召集令状が届いたのは、昭和十九年十月中旬でございました。健一郎様は、

「第二乙種の、三十五前の僕に、赤紙が来るようじゃあ、この戦争は危ないな」と漏らされました。確かに健一郎様はお身体が弱く、徴用された川崎のタイヤ工場の勤めも物憂いようでした。何より健一郎様は、大勢の人に合わせる事が苦手な方でした。先生は、健一郎様の切れ上がった繊細な二重瞼を盗み見なさいながら、叔父さんは軍隊生活に耐える事が出来るかしら、とご心配なさっていらっしゃいました。

「健一郎。そんな事は、もっと小さな声で……」とお母様は叱っておっしゃいました。

「姉さん。ここには身内しかいないじゃないか」

いつもは柔和な健一郎様の表情に、緊張が根を下ろしていました。端正なお顔立ちであっただけに、切迫しているように感じられました。健一郎様はその日の午前中に区役所の手続きを終えられ、午後、園原家が所属なさっていた隣組でささやかな壮行会を開いてもらいました。そして夜、おじい様、おばあ様、お母様、先生とで、ヤミでお買いになった鳥で鍋を作り、白米を炊いて、覆いを掛けた暗い電灯の下、お別れの夕食を囲んでいらっしゃいました。

「台湾沖の戦争では、日本が圧勝だったではないか」とおじい様。

そうなのです。数日前の十月十六日、台湾沖のアメリカ空母機動部隊を、日本海軍航空隊が撃滅したと報じられていました。

大本営発表。

敵の、空母十一隻・戦艦二隻・巡洋艦三隻・巡洋艦もしくは駆逐艦一隻、撃沈。

敵の、空母八隻・戦艦二隻・巡洋艦四隻・巡洋艦もしくは駆逐艦一隻・戦艦不詳十三隻、撃破。

敵の、航空機百十二機、撃墜。

我軍の損額、航空機三百十二機、未帰還。

この輝かしい大戦果に、日本は沸き立ちました。各家庭に、お祝いのお酒が配給されました。天皇陛下は、賞賛の勅語を出されました。提灯行列の洪水は、晴海通りから銀座、数寄屋橋から日比谷、そして宮城へと続いておりました。日の丸の小籏を必死に振る音と万歳の歓声は、怒涛となって築地の興国映画社の窓を震わせました。真珠湾奇襲・マレー上陸、武漢陥落時より、興奮した行列でした。何にもいたせ、肌で感じていた劣勢の、大逆転劇だったのでございます。その日ばかりは、モノトーンに沈んでいた東京が、色めきました。

一方、アメリカの報告はこうでした。

当軍の損害、空母一隻、小破。重巡洋艦一隻・軽巡洋艦一隻、大破。

敵軍の損害、航空機八十九機、撃墜。

そして、これが事実に近いものでした。

日本が大勝利と信じたものは、台湾沖から帰還した航空士の誤認でした。主に夜間の航空戦であったので、正確な状況把握が出来なかったのです。それに希望的観測が混じりました。やがて第二航空艦隊司令部は、この誤認に気が付きます。しかし、連合艦隊にも大本営にも天皇陛下にも、それを知らせませんでした。

「ちょっと景気が良すぎるよ」と健一郎様。

「大本営が発表した事だ。間違いがある筈がない」とおじい様。

「みんなして、一杯食わされているんじゃあないのかな」と健一郎様。

先生は、おじい様のお考えと同じで、国が正式に発表し、天皇陛下からお褒めの言葉まで賜ったのだから、一杯食わされているなどとは、微塵も思っていらっしゃいませんでした。

「そんなことより、健一郎、帰って来たら結婚をして、孫の顔を見せておくれよ。跡取りだって、作っておかなければいけないのだからね」とおばあ様。

「陽清堂の跡取りか……、そうだな。……。彩子、『出征兵士を送る歌』を歌ってくれないか。叔父さんへの餞(はなむけ)に。人気女優の歌で送り出して欲しいな」

「わたし、歌はそんなに上手じゃないの」

「いいんだ。歌って欲しいんだ」

「二番ぐらいまでしか、歌えないわ」

「二番までで、充分だ」

「本当に、下手なのよ」

健一郎様は、いつもの柔和な笑顔に戻られました。

    

    ♬我が大君に召されたる

     命栄(は)えある朝ぼらけ

     讃えて送る一億の

     歓呼は高く天を衝く

     いざ征(ゆ)けつわもの日本男児


「叔父さん、絶対生きて還って来てね」と先生。

健一郎様は、微笑んで頷かれました。


     ♬華と咲く身の感激を

      戎(じゅう)衣(い)の胸に引き緊(し)めて

      正義の軍(いくさ)行くところ

      誰か拒まんこの歩武(ほぶ)を

      いざ征(ゆ)けつわもの日本男児(作詞・生田大三郎)


お母様とおばあ様は、誰憚るまでもないと泣き崩れていらっしゃいました。

おじい様は、天井に顔を向け、目を閉じていらっしゃいました。

健一郎様は、微笑んで膝を叩かれながら調子をとられ、先生を見つめていらっしゃいました。

先生は、下瞼から涙点にキュッと線が走り、唇が凍り、最後の日本男児は、声になりませんでした。

 その翌朝は、静かに晴れ渡っておりました。神田区小川町は、金属製の看板が供出で外され、店々のガラスには米の字に紙が貼られ、要所要所に防火用水樽、火はたき、鳶口が置かれていました。街の景色は彩度を失っていました。エンピツの素描のような風景でした。

陽清堂の前に、モンペに割烹着の女達、それに国民学校前の子供たちが、日の丸の小旗片手に集まっておりました。谷文晁揮毫を刻した陽清堂の板看板の横には、青年部・婦人会・町内会の幟が並び、その中ほどに水飴と大きく書かれた木箱が置かれていました。昭和十九年頃の出征見送りの激励式には、テレビや映画でよく見かける派手さは、もうありませんでした。日章旗と旭日旗が交差する下に、氏名を書いた幟なども立てられなくなっていました。

 お店の中から、在郷軍人会神田区支部の世話役であった丸山組長を先頭に、おじい様、おばあ様、お母様、先生そして健一郎様が出て来られました。健一郎様は、国民服に編上げ靴を履かれ、寄せ書きされた日の丸の旗を襷がけに結んでいらっしゃいました。健一郎様は木箱の上に立たれて、

「滅私奉公のために粉骨砕身の覚悟でございます。いずれさまも、お忙しい処、不肖園原健一郎のために陸続とご集積いただきまして、心から感謝する次第であります」と挨拶されました。丸山組長が、

「園原健一郎君、万歳」と叫びました。日の丸の小旗が、パサパサと音を立てて上下しました。おじい様、おばあ様、お母様は、頭を下げられていました。先生は、叔父様を少しでも長く目に焼きつけておこうと、そっとその横顔を盗み見なさいました。盗み見た叔父様の視線は、ある一点に釘付けになっておりました。先生は視線の先を探られました。上下する日の丸の先に、ひとりの女性が居ました。先生は興国映画できれいな人を、星の数ほどお目になさっていました。ただ、その女性のきれいさは、別の種類のものでした。素人と言ってしまえばそれまでなのですが、清純で高潔で、そこに澄んだ小滝が落ちているようでした。その女性は泣いていました。健一郎叔父様の二重の切れ上がった目は、耐えきれないように、その女性から動きませんでした。先生は、その女性が健一郎叔父様の恋人だと思われました。

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