第22話

 昭和十九年十月二十三日から二十六日にかけて、フィリピンのレイテ沖で大きな戦争がございました。それはアメリカに一矢むくいようとした決戦でした。陸海両軍は総力を傾けて挑みました。特に海軍は、台湾沖の誤認を隠したままでございましたので、必死でした。必死は、『必』と『死』の文字で出来ています。海軍が十死零生の特攻を正式な作戦としたのは、このレイテ沖戦からでした。片や誤認を信じ切った陸軍は、アメリカの機動部隊が弱体化していると侮り、錯誤含みの作戦を練ってしまいました。レイテ沖の戦いは、陸海両軍の足並みが揃わず大敗北で終わり、アメリカのフィリピン上陸を許してしまいました。

 日本国内の食糧事情は破滅しておりました。「食料増産、食糧増産!」と政府が金切り声を上げましても、農村の成年男子は徴兵徴用され、農耕具も肥料も足りず、収穫高は落ち込み、少ない収穫から強制供出が行われ、農村は荒廃していきました。ヤミ取引で糊口をしのいでいた人々も、食料を手に入れる事が困難になりました。やっとの思いで手に入れたヤミの食糧も、抜き打ちで取り上げられました。お母様も、幾度か駅で抜き打ちに会い悔しい思いをなさいました。人の夢と希望は、お腹いっぱいにご飯を食べることのみでした。イライラは日本中に蔓延しました。投稿階級の人々は、『軽薄な文芸や、享楽的な娯楽が、我々日本人の精神を腐らせておる。うかれている場合ではない』と、イライラの矛先を精神論に向けました。政府はその声に引き摺られ、多方面に規制を厳しくしていきました。日本はイライラしながら暗くなっていきました。バス(当時のバスはガソリン不足から木炭を燃料としていました)や電車の中では、乗客同士のいがみ合いが絶えませんでした。ラジオから流れる音楽は軍歌のみ。番組はもっぱら『産業戦士慰安の夕べ』『前線に送る夕べ』『本日の配給』『大本営発表』などで、娯楽はドラマ『宮本武蔵』ぐらいでした。落語や漫才もなくなりました。ただこのイライラは、集団ヒステリーと言ったレベルで、大陸や南洋の惨状に比べればまだまだ甘いものでした。内地に爆弾は降ってはおらず、都市の破壊、大量の殺戮はまだ始まっていなかったからでございます。

 衣都子先生は、弟橘姫の物語『英雄の妻』を撮影されてから、映画のお仕事がなくなっておられました。築地の竹林興行本社もそれに隣接した興国映画社も、パラシュートを縫う工場に変わっておりました。先生は、そこでミシンを踏んでいらっしゃったのです。ここに昭和十九年九月号の陸軍の慰問雑誌『陣中倶楽部』がございます。特集『銃後の守り』とありまして、その女優編には先生がミシンを踏んでいらっしゃるお写真が載っております。内地の雑誌は紙質も悪くなり、写真が掲載される事はなくなっておりましたが、慰問雑誌には女性の写真は必須でした。さて、下はモンペ上は白ブラウスに割烹着を着さばかれ、漆黒のおみ髪(くし)に鉢巻長く垂らし、真剣に手先を見つめていらっしゃる先生のお写真。眼鏡をお掛けになっていらっしゃいませんので、これもポーズと分かります。

そして例の言葉書き。「故国を遠く離れ、連日連夜ご奮闘なさるみなさまのご苦労を思うと、胸が熱くなります。そのご苦労の萬分の一でも報いようと、わたしたち女優も、一針一針、心を込めてミシンを踏んでおります」

ところで人は、理性よりも、精神よりも、何よりも早く身体が大人になるようでございます。先生のお写真をよく拝見いたしますと、ご肢体の一つ一つが、例えば首、胴、腕、腿などが分離したように、首、胴、腕、腿となっておられます。それは、お母様譲りの白皙の首、胴、腕、腿が、先の丸い彫刻刀だけで彫り出されているようでした。お母様のヤミの買い出しは、取り上げられる事もございましたが、キャラメルの効で滞りませんでした。先生は当時としては、恵まれた栄養をお摂りになる事がお出来になりました。そのため、肉(しし)の血色も艶も良く、全体柔らかく丸みを帯び、譬えれば、開花を待つ花びらが最後の伸びをする瞬間、と言った風情で、芳齢十九の匂いがお写真に光っております。

 昭和十九年十月二十四日。先生が築地の俳優養成所の稽古場でミシンを踏んでいらっしゃるところへ、社長秘書が声を掛けて来ました。

「専務が、お呼びになっています。社長室でお待ちです」

先生は割烹着を脱がれると隣の本社社屋に向かわれました。エレベーターは電力節約で止まっておりました。先生は社長室迄の階段を登られながら(今年の興国映画の撮影可能本数はもう越えているのに)などと、呼び出しをいぶかしく思っていらっしゃいました。

社長室のソファーに誠造専務が座り、その横に竹林興行の芸能興行部部長が起立しておりました。二人ともカーキ色の国民服を着ていました。専務の組まれた足にはゲートルが巻かれていました。竹林誠二社長は、持病の心臓疾患が悪化して、築地の社屋に出社する事は稀になっておりました。

専務は先生に、

「こちらに掛けたまえ」と手招きをしました。

専務は相変わらず足を気障に組んでいました。先生がソファーに座られると専務は、

「内田君、いよいよ君の出番だ」と、意味深長な言葉を口にしました。

「はぁ?」

「慰問だよ。慰問団を新たに組むんだ」専務は足を組み直しました。

 専務の話はこうでした。関東軍第一方面軍の司令官が交代になった。新司令官より、配下将兵の心機一転を画して、内地のスター来満の要請が、陸軍を通して竹林興行にあった。そこで瀬川一郎先生を座長とする慰問団を結成する事とした。いくら大スターと言えども、瀬川一郎先生の看板一枚では色気がない。そこで内田君に同行をお願いしたいと思う。いや内田君の来満は、陸軍からのたっての願いでもある。

「はぁ……、しかし、わたくし何をすればよろしいのですか?」と先生。

 先生は一瞬、(専務は自分に寸劇を演(や)れと言っているかしら)と思われました。そんなことは無理だとも思われました。支邦事変が始まった頃から、内地の様々な芸人は、戦地の将兵の無聊を慰めるため、その芸をもって次々に大陸に渡っておりました。漫才師、落語家、歌手、奇術師、芝居役者などが一座を組み、歌謡曲・踊り・コント・漫才・落語などがあって、最後に寸劇で締めると言った、そんな娯楽で将兵を慰めておりました。

「瀬川先生には、『宮本武蔵・巌流島の決闘』を演っていただく」と、横から興行部部長が口を出しました。ご存じの方も少なくなったと思われますが、瀬川一郎さんは歌舞伎の女形からスタートされた興国映画が誇る美男男優で、良家の若侍から武骨な荒武者まで芸域の広い大スターでした。昭和初期から太平洋戦争が始まるまで、瀬川一郎さんのブロマイドは、男優では一番の売り行きで、多くの婦女子の人気を独り占めしておりました。映画の主演をなさった先生にとりましても、格の違う雲の上の役者でした。

「内田さん」と、部長は金歯を覗かせ、

「あなたには、舞踏をお願いしたい」と言いました。

 部長の話はこうでした。映画『姉』のラストは死んだ姉が霊となって、軍歌『魂闘譜』をバックに弟と伴に敵と戦う場面で終わっている。このシーンを、藤間流の何某氏に振りを付けてもらい舞踊にしようと思っている。あなたには、それを踊ってもらいたい。一座に奇術師の豊楽斎天山師匠も加わってもらう。君の仲良しの田沢君と春日君にも行ってもらう。田沢君と春日君の座組みは、あなたが心細いだろうと思っての配慮だ。幸い、あの子たちは歌が上手い。前座で歌ってもらうのに丁度いい。二人とも二つ返事で快諾してくれた。

「急な話で申し訳ないが、出発は五日後だ。それまでに振り付けを覚えておいて欲しい。にわか仕込みの舞踏で結構だ」と立ち上がりながら専務。

そして、ポケットからモンブランの万年筆を取り出すと先生に手渡して、

「サインを頼まれたら、使いたまえ」と一言残し、先生のご返事も聞かないまま部屋を出て行きました。

先生は言われずじまいでしたが、ご返事は「お受けいたします」でした。先生は万年筆を弄ばれながら満州に想い馳せられました。満州は当時の若者の憧れの地でした。縦横に整然と走る並木道。その両側には瀟洒なビルヂング。ビルヂングは、ハイカラな気配を街に添え、すまし顔。しかし夜ともなれば濃い影が窓辺に宿り、支邦人の胡弓か、ロシア人のヴァイオリンか、哀しく細く綿々と、弦のビブラートがガラスを震わせる……。スタイリッシュでエキゾチック。そして牡丹に例えられる馥郁たる大地。社長室の米の字に紙を貼った窓からは、夕陽が差し込んでおりました。先生はその夕陽にお目を細められました。芸能興行部部長も夕陽を見つめながら、

「満州は、南方や北支と違って安全ですが、内地とは違います。念には念を入れて、陸軍が護衛を付けてくれるそうです」と、金歯を光らせて言いました。

 先生は満州に向かわれる間際まで、舞踊のお稽古に精を出されました。その舞踏は、五つ紋の黒羽二重に米沢の袴を着け、五分ある『魂闘譜』に合わせて、芝居用の薙刀を振りかざしながら立ち回る、黒田節のようなものでした。お稽古からご帰宅されると、心配性のお母様が毎日、「満州は、断れないのか」と先生を突(つつ)かれました。

「満州は安全よ」と、先生は受け流していらっしゃいました。出発の二日前には、陸軍省でコレラ・チフス・天然痘の予防注射を打たれました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る