第20話

 黒部邦夫監督、カメラ勅使河原久雄、主演内田衣都子の映画『弟』は、昭和十七年八月に封切られました。興国映画が監督に黒部邦夫を指名したのは、彼が早撮りの名手であり、ドイツ・イタリアとの歩調を合わせようとしたからでした。ただ、ドイツで『Jüngerer Bruder』、イタリアで『Fratello minore』が撮影されたようですが、三国でのフィルムの行き来はなく、この二本の行方は現在ようとして知れません。ドイツはその夏、アメリカからイギリスに向かう輸送船団を潜水艦Uボートで遮断してイギリスを追い詰め、更に北アフリカの一部を占領するなど戦果を挙げておりました。反面、東部戦線においてはモスクワに接近したものの冬将軍に撃退され、次にカスピ海油田を狙ってスターリングラードに突入し、膠着状態となっておりました。イタリアは、資金不足と時代遅れの軍備に悩まされ、ドイツに追随する形で北アフリカとバルカン方面の戦況を乗り切っておりました。さて日本はどうなっていたのか。中国大陸では共産党八路軍が、多くの農民を戦闘員(便衣兵と呼ばれていました)に育て、ゲリラ活動で日本軍に対抗しておりました。兵と民の区別が困難になった日本軍は、万里の長城南北五百キロ地域の徹底掃討(そうとう)を行いました。なりふり構わないこの戦略を中国人は、『三光作戦』と名付け恐れました。日本側は『儘滅(じんめつ)掃討作戦』と呼んだらしいのです。ただ正式な作戦ではなかったので詳細な資料が残っていません。毒ガスも使われたと言われております。太平洋に目を移しますと、昭和十七年六月のミッドウェー海戦で大敗し、同年八月には飛行場まで作ったガダルカナル島へアメリカ軍の上陸を許してしまいました。インドネシアと日本を往復していた石油タンカーが次々にアメリカの潜水艦に沈められました。日本の優勢が劣勢に転じたターニングポイントが、昭和十七年の夏でした。映画『弟』は、まさにその夏に封切られました。

ではその夏、つまり日本が敗戦へと転がり始めた夏、日本国民に危機感があったのかと申し上げれば、まだまだ甘うございました。戦争の実情を握っていた大本営は、勝利し続けていると嘘を国民に流しました。嘘を流した理由は、「負けたのなら、この辺で戦争をやめませんか」と、国民が言い出しかねないと恐れたからでした。そしてもっと深い理由が、敗北した責任を負わされると恐れたからでした。嘘の帳尻は、その後の戦果で埋め合わせしようとしました。しかし、帳尻合わせの戦果はもう二度と訪れませんでした。

嘘の戦果に沸き立っていた内地の日本人に泣き所があったとすれば、それは生活必需品の欠乏でした。昭和十七年一月には、繊維製品の自由な販売と移動が禁止され、二月には衣料品が配給切符制になりました。先生のお母様の高級注文服の洋裁店は見る影もなくなり、日常着を扱う洋品店に様変わりしておりました。生活必需品の配給は、昭和十五年五月のマッチや砂糖が嚆矢です。昭和十七年には、塩、味噌、醤油、油、米と、配給の範囲が広がっておりました。調味料と主食が、市場で自由に売買されなくなったのです。大日本帝国の善戦は、兵隊さんの奮起努力のお陰と報道されておりました。内地の日本人は、大陸や南洋の兵隊さんに少しでも多く食べてもらおうと、我慢我慢を合言葉にして、歯を食いしばっておりました。

そんな世情を慮(おもんばか)って、政府は国民が厭戦的にならないよう腐心しておりました。つまり明るく戦い抜くために、明るい材料を探しました。様々なメディアに協力を求めました。明るければ何でも良いわけではございません。国威高揚を促し、戦闘意識を高め、皇国を尊ぶ材料。けっして劣情や怠惰を助長させない材料。内閣府の検閲の目は厳しく光っておりました。新聞雑誌では、開戦当初、つまり快進撃を続けていた間、ゼロ戦に怯え逃げるローズベルト大統領やチャーチル首相のカリカチュアを滑稽に描いておりました。ミッドウェー海戦以降は、鬼畜に化けたローズベルト大統領とチャーチル首相が、日の丸鉢巻の桃太郎や金太郎に、ぎゃふんと懲らしめられている線画(漫画)が評判でした。少年雑誌は、空想のヒーローだけでなく勇敢な一般少年が悪と戦う武勇談や冒険談でにぎわっておりました。ラジオでは、前線で八面六臂の活躍をする兵隊の奮闘談や、銃後の生活を愉快に描く落語漫才が大流行りしておりました。娯楽映画も作られました。ただし、石油を原料とする貴重なフィルムは軍に優先されたため、各映画会社の年間製作本数は規制されていました、興国映画は年間四十八本まで許されました。興国映画は、元来メロドラマや家庭ドラマを得意としておりましたが、竹林社長が陸軍に近づき、国威高揚映画を主要とするご用映画社の顔を持つようになっていました。当然、観客はギリギリの線で検閲を通った喜劇役者のドタバタ劇や美男美女のロマンスを好んでいました。と同時に、真珠湾攻撃やマレー上陸の特撮映画にも熱狂しておりました。そう言う意味では今回の興国映画が作った、先生ご主演の陸軍ご用映画『弟』は、観客の嗜好から申せば中途半端な作品でした。

では『弟』が、明るい材料にならなかったのかと申し上げれば、いえいえこうなのでございます、大評判になったのでございます。『弟』には、作曲家関口祐太郎・作詞家八木無常のコンビによる軍歌『国境の勇者』『嗚呼、幾万の』『履帯(りたい)行進曲』の三曲が挿入されておりました。まずこれが大評判となりました。今でも歌い継がれております。皆様ご存じでしょう? 脚本(ほん)も良うございました。黒部邦夫の演出は、脚本の意図を的確に汲み取っておりました。勅使河原久雄のカメラも良うございました。彼は光の乱反射を独特の感性で扱い、『弟』を斬新な作品に仕上げました。そして、そして、そしてそこに、先生の美貌、いえまだお若い頃でしたので、可憐さと申し上げた方が良うございますかしら、ただし単に可愛らしいだけではすまない強い意志も見え隠れし、とにかく先生は、圧倒的な存在感でスクリーンに輝いたのです。映画雑誌『銀幕』は、『内田衣都子が登場すれば、香水漬けされていたダイヤを掬い上げたように煌(きら)めく……』と褒め上げました。新聞の文芸欄は、先生のお美しさはさることながら、その演技を『若年にして貫禄あり』とか、『明暗のぼかしに揺らめく悲喜表現は繊細』とか、『その映(うつ)し、紅蓮の露の如。妙にして麗』と言った賞賛で飾りました。先生は後年、戦中にお出になられた映画について、「すべて未熟で」とおっしゃった後、「特に『弟』の芝居は、穴があったら入りたい程でございますのよ」と折節に語っていらっしゃいました。さほどに卑下なさる演技であったか……、それは皆様のお目でお確かめくださいませ。国立フィルムセンターや興国映画のライブラリーにあると思います。映画『弟』はあまりにも軍国的であったため、現在は忘れられた作品になっております。

映画『弟』だけでなく軍国少女を演じた先生ご自身もまた、政府が探した明るい材料となりました。先生のブロマイド(プロマイドと呼んでいた東京人も、この頃にはブロマイドに落ち着いていました)は、居並ぶスターを押しのけて、売り上げ一位になっておりました。映画雑誌『銀幕』の巻頭写真に、先生のお写真が掲載されない号はありませんでした。『写真週報』や『婦人世界』や『少女之友』と言った雑誌の表紙に、先生の笑顔が頻繁に使われました。

それらのページを開きますと、

『ご武運を八幡様にお祈りしながら、心を込めて糸を通しています。十七針しか通せないのが、悔しいかぎりです』と添えられて、街頭で千人針を通される先生、『少しお小遣いがあまったので、国債を買ってみました。少しでもお国のお役に立てるなら嬉しいです』と添えられて、貯金局で債券をご購入される先生、『戦場に立つ将兵さんのご苦労を思えば、居ても立っても居られません。皇軍の勇者と心をひとつにしたく、手拭を500本、寄付されていただきました』と添えられて、手拭の箱を後ろに陸軍恤兵(じゅうへい)部の窓口に立たれる先生、と言ったお写真がたくさん掲載されておりました。これらは全部ヤラセでございました。添えられたコメントも、先生は一言もおっしゃってはいません。雑誌社の人に言われるがまま、カメラの前にお立ちになって、笑顔をお作りになっていただけです。このように先生は、国や軍への献納献金を促す、明るい広告塔として重宝がられました。

また大陸や南洋の兵隊さんに配られる慰問雑誌でも、先生は人気者でございました。陸軍は『陣中倶楽部』海軍は『戦線文庫』を、両軍それぞれの恤兵(じゅっぺい)部が発行しておりました。両雑誌の巻頭写真の常連でした。先生は綺麗だとか可愛らしいなどと言った表現以外のものをお持ちでした。お綺麗なのですよ。間違わないでください。ただその容貌には底光りするキリッとした強い意志ありました。これがまことに軍国少女らしく、単に兵士の消閑の良友ではなかった所以でございます。兵隊は先生のお写真を切り抜き、それを鉄兜に挟んで戦ったと言います。たまたまわたくしの手元に、昭和十七年九月号の『陣中倶楽部』がございます。表紙は富士を背景に日の丸の下、制服姿で直立敬礼している先生のお写真でございます。その表紙をめくりますと早々の巻頭が、日の丸を見上げられる先生のお写真です。『皆様が晴れて内地に凱旋なさった時には、日の丸の旗を振って、いの一番に駆けつけます』と言葉が添えられています。更にページをめくりますと、また先生の大きなお写真がございます。先生は制服に襷かけで慰問袋をお作りになっていらっしゃいます。『皆様の戦場でのご苦労に思いを馳せながら、お慰めになる贈り物を、粉骨砕身して作っております』と、あたかも先生がお口にされたような文章も記載されています。言わずもがな、これもヤラセでございました。このように、先生は、妹のように、従妹のように、あるいは初恋の人のように、丸ごと愛され、時には兵士を励ます材料になられたのでした。その年の『現代映画俳優名鑑』に、内田衣都子先生のお名前が載りました。

ところで昭和十七年十七歳におなりの衣都子先生は、高等女学校の五年生で最終学年でございました。先生は左程に成績優秀の女学生ではございませんでした。その上、映画の撮影で中の下ぐらいだった成績が、下の上ぐらいになっていらっしゃいました。先生は『弟』の撮影が終わり一段落なさったので、遅れを取り戻さなくてはとご勉強に集中なさいました。

ただ先生を取り巻く環境は大きく変わっておりました。お母様のお店を、配給切符を持って遠くから訪ねて来る人は絶えませんでした。それは映画『弟』の姉役を一目見るために、わざわざ足を運んで来た人達でした。特に、女学校の行き帰りが大変でした。やはり知らない人から頻繁に挨拶をされ、突然に声をかけらました。その度に笑顔を作る煩わしさ。時には、学生帽を目深に被った中学生・高校生・大学生が、ブロマイドを先生の目の前に突き出して、サインを求めて来ました。恋文のようなファンレターを差し出す男子もいました。またやむを得ない事かもしれないのですが、脅迫じみた手紙が興国映画社や先生のご自宅にも届くようになりました。先生が一番ご面倒に思っていらっしゃった懸念が起こってしまいました。役者や歌手がこの禍(わざわい)から逃れる事は難しいものです。チヤホヤと衆目を浴びる事が好きな芸能人は数知れません。しかし先生は、面倒だ厄介だと思っていらっしゃいました。

先生には尋常小学校の頃から、取り巻きのご友人からなる女子の親衛隊がいらっしゃいました。目立って可愛らしい先生は、何かと男子にちょっかいを出されました。恋占いの悪戯の対象になっているとも、お耳になさっていらっしゃいました。先生は、何かと男子にチョッカイを出されやすかったので、いつとはなく、誰ともなく、親衛隊が出来上がっていたのです。彼女たちは、スターとなった先生を前にもまして固くガードし、サインやファンレターの盾になろうと俄然はりきりました。また先生はお目が悪かったので、眼鏡を外されますと何もかもがぼやけて見えます。そこで先生は、眼鏡を外され人の挨拶が目に入らないようにされ、作り笑顔の煩雑さを避けられました。こうして、余計なものをお目にされず、親衛隊のご友人に前後左右をがっしり守られて、勉強の遅れを取り戻そうと女学校へ通われました。

先生のご勉強がはかどったかと申し上げれば、それは嘘でございます。期末の試験がございましたが、やはり下の上。あまりご勉強がお好きではなかったので、仕方のない事でした。ただそんな中、ご熱心になったものがございました。それは人の感情やそれに伴う行動の観察でございます。お母様やミサさん、ご親戚やご近所の人、また女学校の先生やご友人の仕草を、先生はこと細かく観察されました。それは映画やお芝居の鑑賞で身に付けられたお癖の延長でした。人は、嬉しい時、悲しい時、怒った時、どのような反応が瞼に出て、指の震えに出て、肩の傾きに出るのか。声の掠れ、高低、抑揚、テンポが感情に合わせてどう揺れるのか。呼吸、唾の飲み込みが、感情にどう関係しているのか。リアリズムの観察、それが面白いように出来ました。

「彩ちゃん。何で私の顔をそんなに見つめるの」とご友人から何度も笑われました。

先生はお気づきになりました。どんな人も、感情にベッタリくっ付いた類型化された反応をするものだ。そしてその判で押したような反応に接していれは、どんな人も安心していられるのだ。ただ、先生はそれよりもっと深くて細かい、人が気付かない反応を盗み取って演技で活かしたいと、眼鏡をかけられて周りの人々を観察なさいました。女学校のご勉強にはあまりお力の入らなかった先生でございましたが、演技の探求にはご熱心でした。

そんなある日、いえ正確に申し上げれば昭和十八年二月二十七日の深夜、ある事件が起こりました。先生は暖かいお布団の中で夢をご覧になっていらっしゃいました。爛漫の桜が、夢の映像を縁取っていました。そこへ、鼓の刺繍が入った萌黄縮緬の振袖姿の先生が登場いたしました。先生は空を見上げられました。先生の夢は総天然色でした。青空を覆った桜の中に、何故だか不自然に揺れる一枝がありました。先生はお手を伸ばしその枝を掴もうとなさいました。すると、「Einer Zwei Einer Zwei!」としゃがれた声がしました。先生がその声の方を向くと、臙脂色のシルクサテンのドレスを着たエラ・メイヤー女史が、五センチきざみに印を刻んだ棒を片手に立っていました。女史がまた、「Einer Zwei Einer Zwei!」と言いました。そして女史はスキップをしました。先生に同じ動作をしろと言っているようでした。先生は、「振袖姿でスキップしますと、淑やかでなくなるので、映画が滅茶苦茶になってしまいます」と訴えられました。その日本語は女史には通じませんでした。女史は怪訝な顔で先生に近づいて来ました。先生は女史の目をご覧になりました。それは透き通るような青色でした。先生はその青色に引き込まれました。っと、その時、満開の桜の花が青色に変わりました。それはいつかセロファン紙を通して見た空の色と同じでした。「まあ、きれい」と先生が口にされますと、一陣の冷たい風が耳を掠り、あの不自然に揺れていた枝からさんさんと、青い花びらが散って参りました。先生は、女史の演技指導を受けようと必死になられたのですが、花びらが、瞼に頬に唇に、触れては落ち触れては落ちし、演技どころではございませんでした。花びらは払っても払ってもしつこく、先生のお顔に散って参りました。先生はお顔を左右に振られ、花びらを避けようとなさるあまりに、パッとお目がお開きになりました。そのお目の前に、黒い影が見えました。咄嗟に先生は、青い桜はどこへとエラ・メイヤー女史に尋ねそうになりました。そしてややあって、お目の前の影が、女史ではないと気が付かれました。影は指先で先生の頬を撫ぜていました。さっきまで見ていたものは夢だったと気付かれ、お目の前の影が不可解であると認識なさいました。認識なさるが早いか、「キャー!」と絶叫されました。飛び跳ねたのは、先生も影も同時でした。先生はお胸を掻き抱き、おみ足でお尻を滑らせながら仕切り襖へと、影は後ろ足で開け放たれた窓辺にと、それぞれに後ずさり……。仕切り襖の向こうからバタバタと梯子段を駆け上がる音がしました。影は暗闇の中でもギラギラ輝く瞳を先生に向けたまま、窓を跨いで外へ飛び出しました。仕切り襖をパッと開かれ、「どうしたの!」とお母様がおっしゃいました。お母様の後にミサさんもいました。先生は唇が震えるだけでお声もお出にならず、ただ黒いカーテンが揺れる、米の字に紙を貼った窓を指さされるのが精一杯でございました。

この事件は、新聞に取り上げられ、ちょっとした騒ぎになりました。

『新人女優内田衣都子の部屋に不審者侵入!』

不審者は、裏の掃溜めを足掛かりにして塀を越え、裏庭の桐の木を登り、屋根を伝って窓から先生のお部屋に侵入したようでした。先生は窓に枢(くるる)鍵を掛け忘れていらっしゃったそうです。これはお母様にさんざん叱られました。警察に侵入者はどんな人間であったか、どんな服装であったかと尋ねられました。ギラギラ輝く瞳をした男の人と先生は答えられました。「それ以外、何か特徴は?」と重ねて聴かれても、先生はただ首を横に振られるだけでした。この事件は、芸能人に降りかかってくる災難のひとつなのかもしれません。ただ笑い事で済む問題でもございません。しばらくは叔父様の健一郎様に、隣部屋へ寝泊まりしてもらいました。興国映画は陸軍を介して、先生のお宅の見回りを警察に依頼しました。陸軍にとって先生は、『国策映画の貴重な少女役』だったのです。警察は全力を挙げて捜査しました。しかし侵入者は捕まりませんでした。

 先生に次の映画ご出演のお話があったのは、昭和十八年三月のことでした。『弟』の続編でした。監督もカメラも、挿入される軍歌の作曲作詞も、『弟』のスタッフと全く同じでした。撮影は先生が女学校を卒業してからと決まりました。つまり、先生が正式に興国映画に入社されてからの撮影になりました。入社については、支度金三千円、月給は三百円(現在で申し上げれば百円は二十万円ぐらいです)と提示されました。別途として、映画の出演料が出る事も契約されました。新人女優の待遇としては、目を見張る待遇でした。

 先生はなんとか女学校をご卒業なさいました。何と申しましても、お母様とのお約束を守れた事にホッとなさっていらっしゃいました。さて、新たに撮影された映画の題名は『姉』。前作の『弟』が内向的な弟を陰に陽に励ましながら、お国の役に立つ青年に成長させる姉の物語でした。今度の『姉』の筋は、不治の病に罹った姉が、陸軍士官学校を卒業して戦地に赴く弟に自分の魂とともに戦って欲しいと懇願しながら死んでいく、そんな映画でございました。映画では、実際その霊魂が弟と伴に戦いエンドとなっていました。この映画は、後年『死』を演じれる最高の女優と絶賛される先生のプロローグとなりました。『姉』は、昭和十八年の夏に封切られ、『弟』以上の動員客数を記録しました。特にラストの、黒紋付きに袴姿となった姉の亡霊が、軍歌『魂闘譜』をバックに弟と伴に戦うシーンは、辛口の大御所の評論家さえも唸らせました。竹林誠造専務は言いました。

「あの事件が、封切りの寸前だったら、観客をもっと動員できたのだがねぇ」

「あの事件……?」

先生は専務が何を言っているのかお分かりになりませんでした。

専務は眉間に線を彫って言いました。

「あなたの部屋に不審者が侵入した事件のことだよ」。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る