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 ここまで続けてきて、身勝手だけれど不安になってきている。あんまり無鉄砲に文章を続けてきたし、私の人生というのも右に同じ。だから『理由書』としては誰も扱ってくれないかもしれない。理由書っていうのは、もっと懇ろな言い回しを使うと、である。


 ――置き忘れてごめんなさい でもどうか気にしないで


 そんな感じの文句をホーム画面にでもでかでか映しておけば、差し迫るような問題にはならないだろう。運命も私の善行に気を良くして、今晩は疲れ切った肝臓のアルコール分解酵素に神明的な忖度でも働いてくれるだろうか。そうしたら、明日はもっといい目覚めになりそうだ。

 どすん、と又も衝撃が走り、鉄の箱は停止した。そして(鉄の体を持つなら当然だが)鉄の胃袋から人間がまたも行き交った。プラットホームと車内の交換、7歳児の頭を悩ませる算数の問題になりそうな一連の動作が終わった後は車内の見通しが利くようになり、同じくして私の両隣には誰も座っていなかった。こんなモノが運命の用意した僥倖なら、直ちにリコールを行いたい。


 生憎、文章というのを書くというのは真っ直ぐに話の出来ない時の代替案のようなもので、文脈ストーリーに沿って話すとしばしば脱線してしまう。話を戻せば、私についての『どすん』というのを紹介していなかったように思う。だけどある一つの理由で以て語られるべきでないと考えていた。

 自分語りエピソード・トークとは一に退屈二に退屈、得てして面白味に欠ける為である。


 ◆


 "音が聞こえてくるとき、我々は音という属性における相互作用の中に居る"


 たった今引用できるのは、相対主義者の発言だ。何故なら私の友人にはそう呼ばれる人種がいるからで、彼らは野党支持者でリベラルを自称し、正義と悪の宇宙の命運を分ける二陣営の対立を「はい」「いいえ」ではなくて、「どちらでもない」と考えている。私もそう思う。そして彼らの先の発言を噛み砕けば、音というのが確固とした独立存在ではないと言いたいらしい。彼らは自身の位置すら宇宙運行上の相互作用の一つだと考えていて、概すれば他力本願的現象と名付けてもいい(この表現は彼らの顰蹙を買うだろう。仏教信者と相対主義者は只ならぬ間柄のようで、二者の理論は摩擦しながらの所は共通していたりする。彼らをキャラクターの類型に沿って喩えてみると、幼馴染系短気ヒロイン。考えるより先に手が出るような、"距離が近い"という言葉を"乱暴な"と誤訳したような少女に該当する)。

 音の波とは衝突や接触、そういう二者間の細やかな関わり合いの結論なのだ。


 さて、上の講釈をまず踏まえよう。それが終わったら少しばかり時間旅行に付き合ってもらう必要がある。正確には旅行ではなく、一先ず光速に追いついて膨張する存在論に於いての有のに立ち会い、その後引き算的に目標を、索引検索を掛けるように探す。そんな流れになっている。難しい要素は見当たらないが、問題は目星が付いていない点だろうか。


 すると第一の「どすん」は5m強の柱の直ぐ傍で観測された。その柱は天井や床を支える代わりに、青空を支えているように見える。しかし大気圏を支えるにしては物足りない長さなのでこの大役は他に譲ってしまって、同じ位の太さで渡された柱上の棒を支えることになっていた。数メートル先にもこの柱の双子が突っ立っていて、その二点で棒とそれに乗っかるカマボコ状の構造物を支えている。そのカマボコは二本の棒の間に幾つも桁が渡され、一方の上にドーム状の覆いがされてある。

 詳しく説明したのは、この構造物を裏から見てしまったから。表から来る観覧者のつもりでそちらに回ってみれば、それはただのゲートでしかない。門の柱、その周りには私たちが居た。私ともう一人がステージが組み上がる工程をスロープ上から眺め、もっと近くにはステージ委員の二人が監督を務めるフリで駄弁り合い、すぐ傍には一人が柱に塗られたペンキの具合を確認し、柱に体を預けているのはモノ言わぬ砂袋三つであった。相対主義者の論に従うと『どすん』が産声を上げたのは、この関係者たちの関わり合いに決着するだろう。

 そして確かに、その通りになった。


 例えば、監督を務めていた二人がもう少し気を回していれば、柱を支える為の砂袋があと二つほど足りていないことに気づいたかもしれない。私達がもう少し近くに寄って来ていれば咄嗟に加勢が出来たのかもしれないし、砂袋の諸君も秋口の涼し気な風に心をかまけることなくを踏ん張って、彼が柱から離れるまで耐えてくれれば良かったのだろう。そうはならなかった。

 「どすん」。そう言ったのはおそらく人体だった。有機物、特に肉が強く圧迫される時にはそんな音が鳴るのだ。そして効果音が過ぎ去り喜劇が終わった後、現場にはもはや音の属性から取り残された私たちと柱が居て、柱に至ってはつんのめって、けれど時間旅行中は手が出せないので(『お客様。アトラクションの走行中は危険ですので、手や足を出さないようお願いいたします』)、後の祭り。地面に倒れ込んでいた。


 それに結局、一連の出来事は私の探していたお目当てではなかったのだし。


 ◆


 『どすん』とは何か、それは変化ではない。つまりの音が私たちに何かを提示する時、もしくは私たちがその現象に取り組む時、それは変化である。

 『どすん』とは不変である。それは現在いまが変えられないように、同じく未来と過去が変えられない様に。それらは何かが為された名残である。もしくは経験と記憶の違いである。「証拠エビデンスデンス」、それは丁度私たちの身体が常に数十種の病原体に侵されていてもそれが無害である限り無視され、症例が出て初めて科学的な診断が始められ、身体の不調を区分けして症例と為すように。

 ともかく、先の一節は人生における『どすん』とは性質を異にする経験だろう。私はあれから、デカい柱に潰されるのだけは勘弁だと考える様になった為である。


 走査の結果、二つ目の『どすん』はすぐ傍で見つかった。そこは校舎中庭入り口から入って右に曲がり、突当りで左右を見渡せば飛び込んでくる階段を進み、踊り場を一つ越えた後階段を出て先程の順路をシミュレートする様に逆に辿れば行き当たる。

 そこは"特別教室"と呼ばれ、正式な名称を確認したことはきっと誰も無いに違いない。中等部が主に授業を受ける空間である為、(分かりづらいけれど当時でも)ここ数年訪れたことのない部屋だった。私はじんじん、と痛む脚に意識を殆ど乗っ取られながら扉に手を掛ける。すると窓が開け放たれたままの室内から廊下に、新鮮な空気がバックドラフトのように吹き戻され、欠伸を隠せない"午後の澱み"を押し流す。

 午後の澱み、というのは生徒たち全員の足を捉えて離さないモノだった。その所為でじんじんと痺れてしまっているのである。


 英語の担当教師が出て行った後、カレンダー通りの日程なら騒々しくなるような教室は、そうはならなかった。一方で室内に満ちた気まずい沈黙は用意されたモノではなく、向かう所のない生気の溜まり場レザボアの決壊が生み出す洪水の前の静けさであり、手放しのエネルギーが生み出した澱である。して正体は文化祭間近の短縮時間割に割り込んできた学内行事であって、その内容は神の国に迎えられたり、そうでなかったりする学園関係者を赤の他人が悼むという所である。

 生気の失ったような屍人たちがぼそぼそと数えられる程度の言葉を交わす以外は、みな脱力していた。そう見せかけていた。もし一向に進まない準備やリハーサル、集会の後の放課後について思いを馳せたりなんかすれば、若さと活気に目を付けられて壇上で揺れる蝋燭と神父の言葉にソレを吸い取られてしまうだろう。

 だから皆、死んだフリをしていた。


 そういう事情であったから、つつがなく進行する集会の主役は今のところ欠席なされている物故者一同ではなく、死んだように座る私たちなのではないかと思い始めた。パイプ椅子で黙りこくる生徒たちは生きる為に息を潜め死者に紛れ、水面下では放課後に向けてもうエネルギーが蠢いている。壇上の聖職者らは気づいていないけれど、この状況はある種何かの神話世界の再現だったのだろう。

 私はというと、時間旅行の受け入れ準備をしている最中であった。時間旅行の条件は二つある。一つ、アルコールを摂らないこと。二つ、瞼の裏を眺めること。私は二つ目の要件を満たそうと眼に力を込め、するとその儀式は成功し、再び目を開けるとあの特別教室の中に居た。


 外から活気が声に乗って聞こえてくる。そう、もうあの集会は終わったのだ。では何故この教室にやって来たのか?それは数時間前に再び戻ってみればいい。


さん、アナタね。呼び出しよ」と呼び止められたのは、殊勝にも朝から職員室に立ち寄った際のことである。

「私ですか?」

「ええ、放課後に」

「何処ですか」

「"追って伝えます"ですって」そう言いながら担任は私に走り書きされた付箋を見せつけた。教師間の連絡というのは案外いい加減なモノで、割を食うのはいつもの生徒たちである。

「私だけですか」

「分からないけど…、こっちに回ってきたのは貴女だけ」


 そして何時限目かの終わり際に場所が伝えられ、また時間は進み、集会が終わると私はその足で特別教室に向かったのである。

 教室を開けるとバックドラフト現象が起こり…、いやこれはもう言ったか、時間旅行をするとこういうミスが付き物だ。ともかく教室には誰も居なかったから、私は余りモノのようで高さがまちまちに並べられた机の一つを占拠した。すると先程の潜伏の疲れからか、若しくは日付を跨いでも明度を変えずモニターを見つめながらテンキー欄のエンターを強打していた所為だろう、強烈な眠気が襲ってくる。

 大丈夫だ、大丈夫。眠くはない。眼を閉じるだけ。私はそう思いながら瞼の裏を見た。気を紛らわすために取り留めの無いことも考える。の養殖は"shrimp culture"、養殖は"culture"、教養は"culture"、エビの養殖、エビの養殖…。


 授業内容を復習したお陰で私は眠らなかった、時間旅行をしただけで。


 ◆


 時間旅行の先はまた同じ教室、特別教室であった。私の視界にはひょこひょこと動く学生服が二着見えて、どうやらその二人と話している最中のようだ。

「三好クンってだったっけ」

「そうだよ。え、知らない?」

「いや。部活入ってたかなって」

「ああそれは――」と三好クンではない方がバスケ部の内情を話す間、『私』は彼らの顔を必死に照合していた。ここで言及する「私」というのは今の『私』であって、恐らく先程まで話していた"私"はどちらともそこそこ交流があるようだった。覚えていないのは年月が後悔と恥と、ついでに彼らとの思い出すら流し去った為である。そして悩み始めると脈絡なく先程の景色がぶり返してきて、一人はあの柱のあったステージを監督していた彼だと分かった。"三好クン"の方は分からないままだ。


「じゃあ忙しいんだ」と私は相槌を打った。

「最近はね。ちょっと前までは暇だったんだけど」

「確かに。卓球とかしてたよね」

 三好クンは少し頭を掻くようにした。体育館担当はここ一週間が始まるまでは随分と暇だったようで、誰も居ない壇上で卓球やらバトミントンやらで気持ちのいい汗を流していた、と風の噂で聞いたのである。

「ちょっとは手伝ってほしかったけどな」

「いやいや、一応手伝ったけど――」

「じゃあさ」と私は話を遮った。「二人とも忙しいんじゃない、今日?」

「そうなんだよね。何で呼び出しなんか…」

「鵜飼さんはさ、何か聞いてたりする?」


 ステージ監督の彼がそう私に聞くや否や、開けっ放しの教室の扉を避けておどおどとした姿がまた二人入ってくる。見覚えのない新顔はどうやら後輩のようであり、それぞれ席を見繕って静かに座った。三好クンは学生服の上を机の上に脱ぎ捨て、入ってくる秋の風で頭と体を冷やそうとしている。

 そして彼ら以外の、私とステージ監督の一人は、たった数秒のことだが顔を見合わせていた。お前には見当が付いているんだろう?いや、アナタこそ。と目線がかち合ったように思う。その見当というのは、学内でも況してや学外のニュースにも一切なっていない、二日前の『どすん』の件である。


 その時私は気づいたのだが、私はどうやら時間旅行などしていなかったようである。何故なら、彼の後ろに見える黒板のチョーク粉受けに立て掛けられた掛け時計の針は私が席に着いた時から殆ど動いていなかったから。つまり"エビの養殖"戦法は成功し、一方で時間旅行は成功しておらず、絶えず流れる時間に生きていたのである。

 私が「多分だけど」と口を開きかけると、後輩二人のすぐ後をついて来ていたのだろう、セーター姿の男性が一人また滑り込んだ。見たことの無い教師だ。私は開いた口を噤み、それを見た二人は前に向き直る。そして静まった教室を軽く見渡したその男教師は頭を掻き、「ええ、あの…」と言葉を繋ぎながら脇に抱えていたクリップボードを教卓に置くと、眼鏡の蔓を弄り、うめき声以外の言語を口にした。


「皆さんに集まってもらったのは、備品管理の話でして、最近倉庫内から――」


 私はもう殆ど聞いていなかった。強く風が吹いて開けっ放しの扉がどすん、と閉まってから、乾いた目を守る為に瞬きをして時間旅行の要件を満たしてしまった為である。

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