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 パスワードという機構に元より備わった安全装置を無視したリーグ戦的総当たりによって黙り込んでしまったままの画面が少し揺れて、再挑戦のチャンスと更新の合図を静かに知らせたのは、と車内が規則正しく二度揺れた後の事だった。ただ幾度と経験した"どすん"の中でも今度は凄まじく強烈で、席に着いてとうに眠りこけた乗客まで振り落とそうと藻掻いている風に見える。そこで思いついたのは、私たちは各々一人だけの『どすん』を持っているんじゃないかという推論である。

 例えば私の友人が『どすん』と出会った場所は産婦人科であった、そこは数秒に一回という驚異のペースで以てこのオノマトペが生まれ出づる場所である。現場では母胎の一細胞から生物へと変わり果てた凡そ3kgの質量、中身を少し抜いた米袋相当が落っこちて来るのだけど臍帯へそのおなんてのは命綱にはよっぽど不向きな代物だからもう沢山という位に白衣姿が行き来しているのだし、人手不足も手伝って獣医に研修場として提供されているらしい。彼らが滑りやすい床に運良く接触せずに済んだ赤子を保育器に放り込む様子を眺めていると、私たちが未だ抜け出せない保育器について――ソイツはあらゆる物を己が内に引き込む力を持つお陰で成長し私たち寄生種を柔らかい皮膚の上で歩かせていて、家の前の表札にはと書かれている――幾らかの考察を持ち込むことが出来そうだ。

 ある隕石があった。眼にへばり付いた筋肉の収縮を超える速さで通り過ぎるのでナンバープレートが確認できず地元が何処かは未だ分かってない。そしてもう一つ隕石があった、此奴も数億光年の流れに乗って漂う石塊である。そして一方が他方の後部に勢いよくカマを掘った時にもどすん、と音がして瞬間めり込んで一体を成し、すぐに絡み合って燃え上がる事故車二台と弾け飛んだ破片ドアの二つに別たれた。

 今は冷えて固まった鉄塊の中に私たちが居付いて、ドアの方には兎が住んでいる。


 別の友人が『どすん』と出会ったのは、いつかある日の球場の一角である。彼女は親しい友人(叙述の視点から離れるとその友人の正体というのは私であった)に譲られたチケットの扱いに困り果てていて、その苦悩には彼女の生立ちが関係していたのだけど、ともかく日付は進んで陽は昇って沈み、そして球場は入場口の見える辺りまでやって来ていた。

 生立ちというのも説明すれば訳はない、彼女は野球観戦の経験に乏しい所があったのである。ボックス席を知らないしビールの売り子がどうやって狭いプラスチックの席の合間を通り抜けるのか知らない、どうして両チームが大抵9回まで攻防を行うのかも知らなければ、入場口手前でもたもたしていれば人の波にすぐ揉まれてしまう事も勿論知らなかった。彼女は所謂"お嬢様"であった為である。果たしてお嬢様とやらが弟君だけを伴って球場にやって来るのかという点に目を瞑れば、全く姉弟愛が成実してある二人は紙切れを見せるだけで受付を通過した事に胸を撫で下ろすと、秋口の洗礼とでも云うべき突き刺すような寒風をその顔で受け止めるしかない吹き抜けが続き、そしてすぐに土と放射状に広がる舞台が見えてきた。

 

 広がる球場は想定していたよりは大きく、期待していたよりは小さいモノだったので、彼女らは唇と目尻以外に感想を漏らすことなく場内表示に沿って指定の席へ進んでいく。到着すると、その場所は孤独を週に一度のつけ麺の日より愛する一定の人々にとって、そして興味の無いモノに傾ける熱意を持ち合わせない高校生にとっての天国に相当する角席であると共に、完全なるアウェイ。敵地に潜入する工作員の訓練には持って来いの場所であった。白状してしまうと、彼女は野球についての興味の持ち合わせが無いどころか、今後融資の予定もないという感じであった。『人生経験』とかいう綺麗な文句に踊って白線の外に飛び込むのは恥知らずで無責任な彷徨でしかない、そんな小賢しい哲学を信奉していたのではない。

 それは見た感じ、野球というのが野蛮な催しにしか感じられなかった為である。


 そして彼女は恐らく生涯そんな考えを曲げないつもりであるのだけれど、野球と云うのはそれで且つ洗練された競技だとも気づくことはあった。チケットには練習試合だ何だと書かれてあったけれど、厳密なる運行の存在、それは選手たちと裏方によるセットアップと慣らし、顔合わせ、帽子を被った人々に行き交いの後に、ブザー音に要約される。また追従するようで彼らの挙動を定義する様にざわめく観客の構図。

 なのは、正にこの様子なのだ。


 ――そしてこの言説というのもある中年男性の語る一節、その引用である。その男は数分前に太い胴を二人の前を通し腰を下ろすと、肩に担いだ保冷ボックスを両足の合間に据え、持ち込み禁止である筈のビン類を一本取り出しついさっき飲み干した紙コップに中身を注ぐと、二人に突き付けて音頭を取った。


「乾杯!」


 アハハ、と彼女の弟は愛想笑いだけ返し、姉の方は左程気に留めていない。それは二人の席の周りの熱狂の為で、要は聞こえてすらいないのだ。ようやく区域についた白いユニフォームの群れに声援を送る人々を観戦しているような彼女は、弟とその隣人がいつの間にか、親し気に言葉を交わしているのを見つけた。


「ねえ、どうしたの?」と彼女は弟の腿を軽く刺激して話しかけた。

「あのさ、話しかけてきたんだよ――」

「――おじさんがね」と男が顔を近づけるが、弟を跨いだために左目の瞳孔の引き締められている所が見えるくらいの距離に留まった。

「そうアナタが」

「うん。ああほら、これで怪しくないだろ?」

 そう言って男がこちらにタオルを広げて掲げた、チームロゴの入ったソレは川岸に追い詰められた遊撃隊の掲げる白旗の如く立ち上がる。


 彼女たちは男を受け入れた。そうするしかない。何せ応援グッズという免罪符、辺り数十席超を囲む一団の資格をきちんと満たしているからで、そして話は少し巻き戻り、初めて下界に降りてきたお嬢様に一通りのルールと観覧のコツを伝授する運びとなったのだった。


「なあキミら、なんでコイツを皆んな観に来るか分かるかい」

 キミ、という呼び掛けに聞こえなかった振りをしながら彼女は応じた。

「好きな球団だから?」

「選手個人の応援とか…」

 二人分の回答をしっかりと待った後、男は話し出した。

「それはチケットが安くて、地元に根付いた球団で、それにのためだ」

「やっぱり安いんだ」と彼女はこぼす。無料招待券のお陰で受付の案内すら確認していなかったからだ。

「確認って、勝敗の?」

「そうだ。予想通り優勝候補が強く、ゲームの展開もいつも見る通り。選手たちも肩を楽にしているようで決して手は抜かず、安く大人数で爽やかな汗と喉越しを楽しむ。そういう営みの確認だ」

「勝敗は分かり切ってるんでしょ」

「ああ。だけど、十分に満足してるよ」


 そして男はイタリア半島の付け根くらいから輸送されてきて、今はしっかりと冷やされたロゼを口にまた含み、周りと同じように、もしくは思い出したように、席を立って興奮し始める。驚くことに寂れた地方都市にも球団の熱狂的ファンというのはいるらしく、痙攣するように人の波が揺れ、その躁状態に皮膚を灼かれながら姉弟は観覧を続け、そしてようやっと『どすん』が訪れた。


 糸が切れたようになった体が座るように軽くたわんだ。それはよく喋り、よく飲み食べるあの中年であり、狂信者の目を何とか醒まさせた医者のように静かに座り込んだ。きっと音は聞こえない筈なのだけど観測的には『どすん』の系譜に属するソレは意識的に行われたようで、その数十秒後、激しい痙攣と共にコンクリートに彼が倒れ込んだことでその予想は否定されることになる。

 ちなみに、あのロゼは漏れなくセメントの隙間に染み込んでいった。

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