第43話感情の名前

夜風が頬に当たる。

さらさらと乾燥した風だ。


私は少し寒いので、ストールを肩から掛けたけれども、酔っ払った旦那様はこの夜風が心地よい程には熱っているらしかった。


アルコールで紅潮した顔、月明かりではっきりと形作られる堀の深さや、それから大きく吸い込んで吐き出される呼気。


どれをとっても男性的で私が持っていないもの。

それを大いに自覚したその瞬間、強い衝動が湧き起こる。

味わったことのない甘い胸のざわめきに

(この感情を愛しいというのかしら?)

などと考える。


人はどうやって感情を引っ張り出して名前をつけているのだろう。

だから、聞いてみたのだ。

「旦那様、胸が疼くような…重たいような、押し上げられるような…そういう気持ちはなんという名前でしょうか?」


旦那様は、怒っているのか、悲しいのか、よくわからない顔をしている。

「それは」と言って私を抱きしめた。

「こうすると、その気持ちはどうなる?」

と耳元で聞かれたので

「っっ!!…すごく…強く、大きくなります…」


旦那様は腕の力を弱めると、私をしっかり見て言った。

「夜風に当たって、少しはアルコールの匂いが飛んだと思う。口付けの許可をくれ」

「えっ……」


私が返答できずにいると、泣きそうな顔をした。

「もう、アルコール臭かったら、後でぶん殴ってくれ」

それでも躊躇うような口付けは、なんとも甘くて少し苦い。


何度か名前を呼ばれた気がする。

私も何度か呼んだ気がする。

湿った音が耳をくすぐって、呼吸の音で誤魔化そうとする度に、旦那様は少しずつ強引になってきた。

少し遊ぶような口元の動き。私はそれについていけなくて、小さく泣き声を上げた。

旦那様がおでこをくっつけて来たので、はっと我に帰って急に恥ずかしさが去来する。

それでも旦那様の月明かりに光る産毛をみるとなんとも甘い気持ちが押し寄せてくるのだ。


「リリア。今の気持ちは?」

「…切なくて、辛くて、なぜだかどうしようもなく涙が出ます」

「…それはきっと"恋"なのかもしれないな」

「私が知っている恋とは違います。私はこんなにも強烈な激情を知りません」


ぽろぽろと涙が頬を伝うのが分かる。


余裕がなさそうな顔が近づいて来て、今度は深く口付けされた。

拒むどころか、もっと欲しくなる。

だからもっと欲しがってしまった。

大きくくっきりとした月がそんな私を愚かしく見ている気がしてならないけれど、そんなこともうどうでも良い。

唇がひりつく。

旦那様は私の手を取り、まだ熱い頬に手の甲をくっつけた。

その手にまた一つ、二つと口付けが落とされる。

切なくて堪らない。呼吸が上手にできなくなる。


「おいで、リリア。ベッドに行こう」

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