第34話行かないで!
意識が朦朧とする。
(水が、欲しい)
もう丸二日、水を与えられていないのだ。
(私、このまま死ぬのかしら)
飢えは我慢できても、渇きはそうはいかない。
イコール死だと簡単に結びついてしまう。
人間だけではなく、生き物というものは、生きるために生きているのだな、とつくづく思う。
栄養を取らなければ死ぬし、水分を得られなければ死ぬ。
呼吸を止めればすぐに死ぬだろう。
常に何かを得る事によって生きているのだ。
神様はなぜこんなに面倒に作ったのだろうかと、こういう状況がそう思わせる。
(きっと生きることへの渇望だわ)
生きることに貪欲な者だけが、生存競争に勝ち抜ける者だけが、未来を掴み取る事ができる。
(私は負けない。この日のために生きているんじゃない。もっと先の未来を旦那様と一緒に見るために生きているのよ)
ドレッディは美味しそうに何やら飲んでいる。
私の視線に気づいたのか、笑顔で言った。
「ああ、奥様も欲しいでしょう?今差し上げますね」
(ああ、水、水が)
彼は立ったまま、びしゃびしゃと床にその液体を垂れ流した。
「どうぞ、お召し上がりください」
(私がこれを屈辱だと思っている事が貴方の傲慢さだわ。生きて旦那様に会えるなら、私は何だってするのよ)
床に溢れた水を啜り舐める。
「!!!」
(白ワインだわっ!)
酒はあまり得意ではない。けれどこれも貴重な水分、そう思ってできる限り飲み込んだが、体調不良も重なって、不慣れなアルコールのせいで頭痛がしてきた。
「さあ、奥様、この椅子に座ってください」
言われたままに、この家の中では一番高そうな椅子に座った。
ドレッディは一心不乱にキャンバスに向かって下書きを描いているようだ。
「その椅子、パン屋のご主人に貰ったんですよ。とても良いでしょう?『絵を描くなら本物を知っとけ』って言われたんです。どうせならテーブルも欲しかったんですけどね。まあ、ここは狭いし、椅子だけで丁度良いわけです。…ああ、そうです、その顔のままでいてくださいね」
頭痛に勝てない。
(もう、だめ…)
転がるように床に伏した。
ぜえぜえと息をする。
その様を--
彼は一心不乱にスケッチしていた。
(狂っているわ)
薄目を開けて、ぼんやりと見る。
時折汗を拭いながら、五感全てで絵に向かう。その熱量に圧倒されてしまう。
(この人は、やっと自分の求めていたものに出会えたのね…それは貴方の中で生命維持と同じくらい渇望していたものなのでしょうね)
自分だけの宝物をじっくりと眺める子どものような目を向けてくる。
彼と私では時間の流れ方が違いすぎる。
(私はここでの一日が一年にも感じるけれど、彼が絵と対峙している時、1秒すら経っていないように思うんだろう)
コンコン、とドアのノックが響いた。
ぴくり、とドレッディの耳が反応する。
雑音には驚くほど敏感だ。
もう一度、コンコンとノックが鳴った。
「あいよ!今行くから待っててくれ!」
と大きな声で戸外に言うと、私の口に布切れを突っ込んだ。
仕切り板で簡単に私を隠す。
久しぶりに見えた外の光は細く煌めいている。
「この前はすまなかったな。君にもう一度依頼をしようと思っていたんだが…今日はまたちょっと違う用件でな」
それは、旦那様の声だった。
「いえ、こちらこそ、残念な結果になってしまったにも関わらず、報酬を頂きありがとうございます」
ドレッディの声が上擦っている。
「チラシは見たか?」
「あの、えっと…探し人の…?」
(探し人…旦那様…!私を探してくれていた…!)
私はここにいますと言いたかったけれど、乾きと頭痛とで、呼吸をするのがやっとである。
「知り合いの元を訪ねて回っているんだ。何か知っていることはないだろうか?」
「いえ…お役に立てず申し訳ありません」
「そうか…」
(行ってしまわないで!!旦那様!助けて!)
「もし何か情報を得たら、ぜひ知らせて欲しい」
「分かりました」
「…ん?絵を描いていたのか?」
「はい。ご依頼を頂いたので」
「仕事中すまなかったな、失礼する」
「とんでもないです。奥様、早く見つかるといいですね」
「…ああ、ありがとう」
そうして扉は閉ざされていく。
遠ざかる足音にもどかしい気持ちがした。
でも、その足音は
「?まだ何か?」
「中を見せてくれ」
「し、仕事中なんですよ…あ、絵の具も散乱してますし、お洋服が汚れてしまいます!なにすん…やめろ!!!!」
がつがつがつと革靴の音が近づいてくる。
仕切り板が一気に外されて、光が目に刺さった。
逆光で立っている人は私を抱えあげる。
「……あ、だ…ん…な…さま…」
「もういい、喋らなくて良い」
ドレッディは戸口から逃げようとしたところを、ソバタに捕まえられるのが見えた。
「…どうして…!」
羽交い締めにされたドレッディは、バタバタと抵抗しながら食いかかる。
「…どうして?その探し人のチラシ、カールライヒ家から失踪人が出たとは書いたが、リリアがいなくなったとは書いてない。……お前は何で知っていた?簡単だ。お前がリリアを誘拐したからだ」
「あっ……!!!」
ドレッディは観念したように地面に顔を伏せた。
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