第33話風邪にはりんご

風邪を引いた。

気が抜けたからかもしれない。

情けない。


旦那様は私に付きっきりで、ほいさほいさと世話を焼いてくれた。

「ほら、りんごだ。口を開けなさい」

「じ、自分で食べられますから」


「む」と言って、旦那様がフォークに刺さったそのりんごを食べてしまった。

「この手から食べないのなら、やらん」

「…うっ」

瑞々しくて美味しそうなりんご。

輝いて見える。

甘くてすっきりした水分が、今とてつもなく欲しい。

観念して、ぽかっと口を開けた。


「よろしい」


旦那様は満面の笑みで、私の口にりんごを運んだ。

しゃくしゃくと心地良い歯触りが堪らなく爽快である。

結局全部食べ切った。


「少し寝るといい」と言って布団を掛けてくれたので、そんなに眠くもないはずなのに、すぐに眠ってしまった。



夢を見た。

何のパーティ会場だろう。

旦那様がたくさんのご令嬢に囲まれている。ああ、行ってしまわないで。

--動けない。どうして。身体が、指先一つさえ、目線さえも動かせない。

みんなが私を鑑賞している。

ああ、私は、絵になってしまったんだ。


--助けて。



「う、ん…」

目が覚めると、まだあたりは薄暗い。


(嫌な夢を見た気がする)


とても喉が渇いた。

水差しの水を飲む。


身体がベタベタと気持ち悪い。汗を拭いて着替えたけれど、どうも熱が篭っているようで堪らず窓を開けた。

もうすぐ夜が開明けようとしている。

冷えた風が吹き込んでくる。熱ほてった身体を冷ましてくれた。


(気持ちいい風…あら?)


見覚えのある顔が門の外からこちらを覗いている。

ブランケットを肩からかけて、バルコニーに出た。


「あら、貴方は」


その人は、私に気がつくと、ぺこりとお辞儀をした。





✳︎ ✳︎ ✳︎





簡単な装いに、外履きを履いて門を出た。

「いつかの画家の…どうかされたの?何かご用?」

「ドレッディです。あ、その、すみません。僕、まだ絵だけでは食っていけなくて、パン屋で朝の仕込みを手伝っているんです。ここは通り道なので…毎朝ここを通ると、皆さんはどうされているかなと思ってつい足を止めてしまうのです」

「まあ!パン屋で…旦那様からは報酬貰ったかしら?」

「ええ、結局あんな事になってしまったので…お断りしたのですけれど、その、十分すぎるほどに…それよりすみません、夜が明ける前だと言うのに」

「こちらこそ、その節は申し訳ありませんでした」

私は頭を下げると、ドレッディは恐縮したように笑った。





✳︎ ✳︎ ✳︎





それで、何がどうなったのか、どこまでが夢で、どこからが現実なのか分からない。

ただ一つ言えるのは、今とてもまずい状況にあると言うこと。


「奥様、汗をかいていらっしゃる」

「…風邪を引いているの、触らないでくれる」

ドレッディはにっこりと笑ったあと、私の頬を思い切り叩いた。

「ああ、奥様の髪は本当に美しい。頭を振った時が1番煌めくんだなぁ。うん、これは色々と試してみたくなる」


ぎりぎりと締め付ける縄が自由を許さない。

朦朧とする。

「あなた、タダじゃ済まないわ。こんなこと、今すぐやめて」

「…あの女が悪いんだ…僕の最高傑作…」

ナイフを床に思い切り突き刺した。

怖くて叫びたくなる衝動をぐっと堪えた。

絶対に大声を出さないという約束で猿轡さるぐつわを免れたのだ。

多分、彼は私をモデルに絵を描きたいのだと思う。彼としても、猿轡があっては邪魔なのだろう。


「わ、私も旦那様も、もう一度貴方に絵を描き直してもらうつもりでしたわ…だから、家に帰してちょうだい」

ドレッディはこちらを見た。

どうして笑っているのだろう。

「僕、気付いたんです。奥様の恐怖に歪む顔、とっても美しいんですよ。良いなあ、すごく。創作意欲が掻き立てられる。きっと今なら、あの作品を超えられると思います」

「なら、描いたら帰して」

笑顔のまま、ドレッディは首を傾げた。

「どうしてです?」

「どうしてって…」

「奥様は、何か作ったことがありますか?僕たち画家はずっと描き続けたいんだ。描きたいものが見つかれば最高。一生探し続けても、本当に自分が描きたい物が見つけられない人だっている。で、描きたいものを描けたら満足だと思います?ううん、そんなことはない。まだ描きたい。もっと描いて描いて描きまくりたい。突き詰めて、追求して、もっともっと…」

だから--ドレッディはゆっくり私に近づいた。

「僕は一生奥様を鑑賞して描き続けます。窓の向こうにいる内は良かった。まだこの衝動が我慢できた。でも、奥様は一人で簡単にこちら側に来てしまった。そうしたらもう…衝動は抑えられないですよね?なんであなたは…」

--あんなに無防備だったのですか。

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