第26話復讐の種まき(前半ヴァンルード視点、後半ミーレ視点)
レディ・アイリル!
きっと彼女こそが僕の初恋の人である。
最近巷で噂の、かの自叙伝『偽りの花嫁が手に入れた真実の幸せ』
そこに破れた青いドレスの記載があった。また、そのドレスは転んだ子どもの膝に巻いたというではないか!これは間違いなく僕の初恋の人である。
やっと一筋の光が見えた気がした。
既に結婚されているらしいけれども、そんなことは瑣末な問題でしかない。
僕の方が幸せにできるのだから、当然彼女は僕と再婚してくれるだろう。
それにしても姉や父親もさることながら、この前夫というのは、どうしようもない野郎だと思った。
アイリル嬢を傷つけるなんて、殺してもまだ足りないだろう。
彼女を見つけた暁には、そいつを殺してやろうと思う。きっと彼女も喜ぶはずだ。
それよりもまずやるべき事は、この出版社に問い合わせてみることだろう。
きっとすぐには教えてくれないだろうが、実は傷を手当てした後、他でもない僕が怪我をした子どもに菓子を買ってやったのだとなれば、大きな話題にもなるだろうし、無下にはされまい。
僕は早速ペンを取った。
✳︎ ✳︎ ✳︎
私はこの屋敷に40年仕えた。
旦那様が御当主になられる以前からなので、雇用人の中では一番の古株だ。
最近では「ミーレは呆けてきた」と言われることも多い婆である。
老人だって呆けたフリくらいする。若いもんが偉そうなことを言ったって、年寄りの方が人生経験は豊富なのだ。呆けたフリというのは大変に有効であると知っている。
それだけ私は田舎に帰りたかった。
故郷では唯一の血縁者である弟家族が待っている。
死ぬまで屋敷勤めをしたいだなんて思っていたけれど、ご長女のフォレスティーヌ様が出戻りしてから一変した。
もともと雇用人に当たりが強いご長女だったが、最近では紅茶の蒸らし時間は一秒単位、窓拭きの拭き方にも細かく注意がいき、浴室の床が乾いていなければタオルを何枚使おうが拭き続けさせる。便所の掃除には殊更気を遣った。シーツのシワも許されないどころか、敷き方にさえこだわりがあった。
あまりにも神経質だ。
少しでも気に障れば喚く。
気がおかしくなりそうだ。
私のような老人には心身ともにこたえた。
ところがご長女は私に辞められたくないそうだ。
そりゃあ姉妹のおしめを替えたのは私だ。泣き止まぬ夜にホットミルクを入れ、眠れるまで絵本を読んだのは私だ。まるで彼女らの祖母のような気持ちであった。
きっと彼女らも少しは情を持ってくれているのだと理解はしている。
けれど、私は知ってしまった。
近頃、ご長女の部屋を清掃していると、何か"臭う"のだ。
原因も分からなければ、何の臭いかも分からない。ただ臭い。
刺激の少ない年寄りに少しだけ興味が湧く。
夜になるのを待って、こっそり鍵穴から中を覗き込もうと画策した。中から嬌声が聞こえる。
まさかと思い、鍵穴に左目を押し当てると、ご長女は汚らしい男と抱き合っていた。
あまりのことに驚き、すぐに自室に逃げ帰る。
動悸が止まらず、朝まで眠れなかった。
次の日は昼餉の前に覗いてみた。
フォレスティーヌ様は男の鼻と口を押さえてその汚い男の上に跨っている。
男は白目を剥いていた。
フォレスティーヌ様は見たこともない、恍惚の表情を浮かべて戦慄いた。
男は一度だけ大きく撥ね上がって、動かなくなった。
死んだようだった。
私は腰を抜かして、這って便所に駆け込んだ。
今見たものは、現実だろうか。
ショッキングな光景に、口を押さえて泣いた。
もうここにはいられない、そう思って翌日無理に辞表を受け取ってもらい、田舎に帰ることにした。腰を抜かしたお陰で、身体の限界という名目ができたのだ。
三日後、迎えに来た甥と一緒に屋敷を出る。
その三日間とて、どんなに恐ろしかったことか。
あの死体はどうする気だろう。
二度と帰ることのない屋敷を振り返る。
いや、もう私には関係ないのだと首を振った。
乗合馬車から外を覗く。もっと早く走れないのかと思う。
そんな私を見て、甥が一冊の本を私に差し出した。
「なんだいこれは」
「セレンの奴が、都に行くなら本屋で買ってきてくれってさ。さっき買ったんだけど、暇だろ?流行ってるんだと」
「へえ」
セレンというのは私の孫娘だ。
相変わらず本が好きらしい。
「なんだ、小さい文字は読めないよ。なに?『偽りの花嫁が手に入れた真実の幸せ』だって?セレンが好きなのは探偵が出てくるやつじゃないのか?」
「さあ?俺は良く知らねぇよ」
ぱらりと捲る。
「………字が小さくて読めやしないね」
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