序章-3

 最初に、湖で水を補給した。

 意を決して、湖面に映る姿を見たが、その外見にまるで覚えはなかった。

 良く言えば気品があるが、病弱と表現するほうがきっと的確だ。手入れのされていない髪は長い戦争のせいか。ルノアよりは少し若く見えるが、子供と呼べる年齢でもない。

 早歩きするだけでも、軽く息が切れることを考えても、間違いなく、野山を駆け回るような人間ではなかったようだ。

 そこを離れたあと、長い時間歩かされた。

 草原だったはずの地面は、ほとんど土だけになり、丘から見えていたはずの山はいつの間にか姿を消していた。

 体力的にはかなりきつかったが、追手がいるのであれば、弱音を吐ける状況ではないのだろう。

 二度目の休憩のときだ。

 岩に腰かけるルノアに、まるで会話をする気配がなかったが、どうしても確認したい疑問があって、おそるおそる声をかけた。

「一ついいか。オレを森の外れまで運ぶとき、何か特別な方法を使ったんだと思うんだけど。今、ずっと歩いているのはどうしてなんだ?」

 また無視されることも想定していたが、予想に反して、相手は水筒から給水していた動きを唐突に止め、首だけ振り返った。その眉間に深い溝を作って。

「拙者には重力制御グラビティコントロールのアビリティなんかありません。仮にあったとして、こんな荒れ地では十分なエーテルは存在しない。仮に満ちていたとして、歩くのが面倒だという理由で貴重な霊石を使えるはずがない。仮に石が豊富だったとして、我々を二人同時に――」

「ごめん、わかったから。無知で悪かった」

 急いでそう言うと、彼女は帽子の上から頭を抱えた。

「ああ、もう……。何だか拙者が悪人みたいじゃないですか。あのですね、アビリティはエーテルのない場所では使えないんですよ。そのエーテルは、動植物の生命反応の濃い場所に集まる。それで、今はどうです?せいぜい雑草しかないような、こんな場所で、いったい、どの程度アビリティが使えると思うんですか」

 ルノアは不機嫌そうにため息をついたあと、右手を空に向けた。それから、戦場で聞いたのと似た言葉を口にすると、手の先に小さな明かりがともる。次に、左手をレーヴに向け、同じく何かの言葉を発すると、微風が起きた。

「せいぜい、これくらいです」

「そのアビリティは誰にでも使えるのか?」

 素朴な疑問を口にしただけだったが、相手は表情を激しく歪めた。

 また罵倒されると身構えたが、彼女は一度下を向いて深呼吸をしてから、顔を上げ、自制するかのように、ゆっくりと答えた。

「そんなわけないでしょう。様式スタイルを持った、選ばれた者だけの力です」

「スタイル……は、アビリティとは別物?」

 尋ねるばかりで気が引けたが、いつ一人になるかわからない状況で、情報を集めることは生き延びることに同義だと思う。

 彼女は小さくため息をついた。

「……とりあえず、移動を再開しましょう。日が暮れるまで、あまり時間がありません」

 それから、目的地へと向かいながら、三つの用語の説明を受けた。

「まずはエーテルですね。目には見えないですけど、この世界の至るところに存在しています」

「空気みたいなものか」

「どちらかと言えば液体の――燃料に近いですね。生命のあるところに集まりやすい、すべての自然現象の源という感じでしょうか」

 アビリティは、エーテルを、光や風のような自然現象として変換、発現させるための能力だそうだ。

 スタイルは、その力を発揮するための手順書のような物で、人によって違いがあり、その結果、表現できるアビリティに個性が出るという。

 料理にたとえるなら、エーテルはいわば万能食材で、調理の工程がアビリティ、スタイルはレシピ集といったところか。

 彼女が見せたアビリティは、光と風だった。あとは重力制御があって――確かレーヴ自身も、オークを倒すとき、火を使っている。種類はどの程度あるのだろうか。

「今まで見てきた中であれば、重力制御がすごく使い勝手がありそうだけど。応用すれば、自由に空を飛べるってことになりそうだし」

 だが、彼女はまたしても「はあ」と、深く長いため息をついた。

「石ころくらいに小さく、軽ければ、多少は思い通りに動かせるかもしれませんが……。対象物が重くなるほど、操作の難易度が、急速に高くなるのです」

「でも、逃げるとき、オレを運んだんだろ。意識がなかったから、はっきりとはわからないけど、結構な距離と時間だった。違うか?」

 その問いかけに、ルノアは面倒くさそうに、レーヴの胸元に手を伸ばすと、ペンダントを引きちぎり、手のひらに置いた。

「霊石を使ったんですよ。といっても、重力制御を付与したのは拙者ではなく師匠ですけどね。それだって、大雑把に地面から浮かせただけなんです。空中を自在に移動できるような力を発揮できる人間など、この世に存在しません」

 そう言って、太陽に石を透かしたあと、遠くに投げ捨てた。

 霊石は、正式名を赤燐光石せきりんこうせきという、かなり希少な鉱物だそうだ。スタイルを転写することができ、アビリティの発動を、人の介在なしに持続することができる。

「つまり、こういうことか。霊石に転写した重力を制御するスタイルで、オレの体を継続的に浮揚させ、その上で風のアビリティで移動させた、と」

「その通りです。人は同時に二つのアビリティを使うことは絶対にできないのですが、霊石を使うことによって、利用の幅が大きく広がることになります」

「なるほど。だったら、そんな貴重な物を、捨てたのはどうして?」

「使っていくうちにどんどん濁って、そのうち効力を失うのです。あれは、元々寿命が尽きる寸前で、もはや使い物になりません」

 利用可能な時間は、石の大きさや純度、稼働させるアビリティの難易度などによって決まるのだという。

 彼女がカバンを開くと、布に包まれた小さな赤い石が三つ見えた。

「あなたに使ったのを含めて、これが王宮に保管されていたすべてです」

「こっちの小瓶は?」

「ポーションとエリクサー。ちなみに、あなたが飲んだのは金貨二十枚もするエリクサーのほうです」

「なるほど、あの苦いのか……」

 アビリティの中には治癒もあるらしいが、それで回復できるのは、体の傷までらしい。瓶の中身は、血液などを補給するための、ある種の栄養剤とのことだ。

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