序章-2
手のひらの中で、液体が渦巻くような感覚を覚え、直後に、同じ場所で熱が生じるのを感じた。
それが何か、確かめる間もなく、熱源が手先を離れていく感覚があり、やがて視界の前方に橙色の球体が現れたかと思うと、あっという間に、それは獣の腹のあたりへと到達し、ほとんど同時に、二度と聞きたくないような、うめき声がして、敵はうしろ向きにはじかれ、背中から地面に落ちた。
それっきり、ぴくりとも動かなくなり、間もなく、胸から腹にかけての外皮だけを残して、躯体の大部分は蒸発した。
そろそろと立ち上がり、数歩近づく。
残された皮には、腹のあたりに拳が通るくらいの穴が空いていて、とりあえずは、幻を見たのではないことだけは確かのようだ。
「いったい――何が起きたんだ……」
確認しようと手を伸ばしたときだった。
強い風を感じたかと思うと、空の視界の一部がさえぎられ、直後に人が、文字通り飛んできた。
どうやら自身でもその状態を制御できていないらしく、きりもみしながら絶叫とともに近づき、息ができなくなる程度の衝撃で、レーヴの体に激しくぶつかった。
敵にしては攻撃が雑だなと思いながら立ち上がると、そばに転がっていたのは、つばの広めの帽子をかぶり、腰くらいまでのマントを着た少女だった。
「もうっ……。風で移動しようなんて、思うんじゃなかった」
十代の半ばくらいだろうか。みかん色の髪を肩まで伸ばし、髪整った顔立ちだが、なぜか不満そうな表情だ。
「大丈夫か?」
「大丈夫なわけ、ないでしょっ!いったいどうして、勝手に歩き回ってるんですかっ。しかも、オークに襲われてるとか、拙者の立場がなくなるでしょうっ」
その声には聞き覚えがあった。
あの木の根元まで運んでくれた人間。今度こそルノアだ。
ただ、元いた場所から離れたことはともかく、襲われたことに関しては不可抗力だったような。
「オークって、その獣のこと?」
指さした先を一瞥すると、彼女は声を低くした。
「いったい何があったんですか?まさか、あなたが倒した、なんてことはないとは思いますが」
「それがよくわからないんだ。気づいたらそうなってた。きみは――ルノアって名前で合ってる?」
少女はそれには返事をせず、死体の元そばに近づき、膝をついた。
「腹部を貫通する裂傷。その周囲に焼けたあとがあります。まるで火球が通り抜けたような――。ですが、オークの外皮は防火の装備に使われるほどの耐火性能があるはず――」
早口にそう言いながら、腰から抜いた小刀で、穴から外側に向けて裂こうとしたが、皮は硬く、まるで歯が立っていない。
彼女は、本来死体があるはずの地面から、小さな墨色の石を手にして、振り返った。
「もう一度聞きますね。いったい誰が
「なるほど、やっぱりオレはレーヴなんだ」
「は?何ですか、その言い様は。さっきからくだらない質問を連発してますが、拙者をバカにしてるんですか――って、今、オレって言いました?」
「バカになんかしてない。それで、できればこれ以上、機嫌を悪くしないんでほしいんだけど――。オレが今、持っているのは名前くらいで、それ以外の何も、もちろん、どうしてここにいるのかもわかってないんだ」
おそるおそるそう言うと、相手は口をぎゅっとつぐみ、顔に影を作った。
「そうですか――。やはり蘇生が完全じゃなかったってことですか。そんなの、できるはずないって。すぐに逃げようって、言ったのに。こんな機会は滅多にないからって。師匠は本当に大馬鹿者です」
あの時と同じく、涙混じりにつぶやいた。
蘇生に加えて師匠という言葉に、目覚めたときの記憶が改めてよみがえる。
「もう一度聞くけど――君がルノア?」
「……ええ、そうです」
そう言うと、シャツの袖で目元を拭い、そばの木を背にして、力なく腰を下ろした。
それから、空をぼんやりと見上げたまま、人形のように動かなくなった。
風によって雲の形が変わり、木々が揺れる音だけが、時間の経過を感じさせる。
師と離ればなれになったことは気の毒ではあるが、記憶のない状況にも、同情の余地くらいはあるだろう。
そっと近づき、彼女のそばに座った。
「傷心のところ申し訳ないんだけど――。もし良かったら。オレのこと、あと少し教えてもらえないか。さっきも言った通り、何も覚えていないんだ」
彼女は目線を寄こしたあと、小さくため息をついた。
「そう、ですか……。あなたは、レーヴ・アンジェニュー。アンジェニュー王国の第三王子だったんです」
「王子――だった?」
「王国は、昨年の夏の終わりから続いていたあの戦争で――消滅したからです」
「戦争……。それがオレが瀕死になった原因でもある、と?」
彼女は何が気に入らないのか、その質問には答えず、またにらみ返した。
「何か変なこと、言った?」
「その喋り方、演技じゃないんですよね?」
どうやら、以前のレーヴとは口調が違っているらしい。
蘇生という言葉は、人事不省になった人間に使う言葉だ。頭の中が霞んでいてはっきりしないが、意識と身体の不調和を感じるのはそれが理由だろうか。
「まあいいです。とりあえず、荷物のところに戻りましょう」
ルノアはのろのろと丘を上がり、カバンを手にして、遠見をした。
「これから、どこか行くあてがあるのか?さっきの話だと、帰る場所がなくなったってことだろ?」
だが、彼女は再びその質問を無視して、カバンから地図を取り出し、地面に広げた。
「あと、こんなときに言うのもどうかと思うんだけど……。実は腹が減ってるみたいなんだ」
「うるさいなあ。そんなの、拙者だって同じです。近くで安全な町がどこか、考えているんです。少し黙っていて下さい」
小難しい顔で腕を組んでいたが、やがて指で地図を弾いてそれを仕舞うと、さっさと坂を下り始めた。
置いていかれてはたまらない。慌ててあとを追う。
殿下と呼ばれている割には、扱いが軽いというか、敬意が感じられないような。いったい、彼女とはどんな関係だったのだろう。
知りたいことは、もちろん、他にも山ほどあったが、相手の腹が満たされ、機嫌が回復するまでは、我慢することにした。
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