【序章】

 次に意識が戻ったときに感じたのは、体中の激痛と、頭の中を揺さぶられるような気持ちの悪さ、そして激しい嘔気だった。

 目が回る、という表現ではまるで足りない。人が感じる苦痛をすべて引き受けたような感覚。

 少しでも楽にならないだろうかと、体勢を変えようとして、手足がまるで思い通りにならない。周囲の状況を確認しようとしたが、目を開けることすらままならない。

 いったいどういう理由で、こんな地獄にいるのか。経緯を逆にたどれば、苦しみから解放される糸口が見つかるのではと、そこまで考え、愕然とした。

 ここに至るまでの記憶どころか、自身の名前すら思い出せなかったのだ。

 いっそ、一思いに殺してくれと叫ぼうとして、どうにか口を開けたときだった。

 声が聞こえた。

「おおっ。蘇生したぞっ。これまで、ネズミでしか成功したことがなかったのにっ」

 年老いた男の声だった。

 続けて、今度は女の、何かに追われているような、そんな焦りを含んだ叫び声が周囲に響き渡る。

「すぐに追手がやってきます。早くここから離れましょうっ」

 だが、そんな彼女の鬼気迫る提案は、老人には届かなかったようだ。

 彼は、打って変わって、落ち着いた様子でこう言った。

「レーヴさまとともに、お前だけ行け。深手を負った殿下を連れ、追撃を交わして逃げることはさすがにできん。誰かが防波堤になる必要がある。わかるな、ルノア」

「無茶ですっ。いくら師匠でも……」

 ルノアと呼ばれた女はそこで口を閉ざした。師の覚悟を察したのだろうか。

霊石れいせきを出しなさい。お前の力では殿下を運ぶことはできんだろう」

 やがて彼女が動く気配がして、聞こえるかどうかの涙声でこう言った。

「レーヴさま、失礼します」

 どうやらそれがこの体の名前らしい。

 続けて首から紐のような物がぶら下げられたあと、老人が聞き慣れぬ言葉をつぶやいたかと思うと、直後に体が地面から離れるのを感じた。

 どこかで経験したような浮遊感。

 記憶をたどろうとして、少し前までの気分の悪さが、多少は和らいでいることに気づく。あるいは、体が苦痛に慣れただけかもしれない。

 いずれにしても、最悪の状態は脱したようだ。

 そのことにほっとしたせいで、浮かんでいる理由が、人の手によるものでないことにまで、頭が回っていなかった。

 やがて、腕を引かれ、空中にいる状態で、体が水平に移動を始める。

 何が起きているのか、どうにか目を開けようとしたが、頭の指示が、体の各部に伝わらない。

 ルノアがそばにいることだけを認識してしばらく、気圧が変化したように感じた。連れて、周辺の光量が増し、何かの草の匂いが風で運ばれてくる。

 どうやら、建物の外に出たらしい。

 確か、追手がいると話していた。体の自由が利かないことと関係があるのだろうか。

 危機的状況だとしても、呼吸以外にできることがない。

 生死が見知らぬ人間に委ねられている。

 そのことに、改めて恐怖を覚えたとき、さほど遠くない場所で、激しい爆発音がした。

 衝撃が空気を伝播し、爆風となって押し寄せる。遅れて、何かが、おそらくは生き物の皮膚が焼けたときのような匂いが鼻をついた。

 すぐそばで、ルノアが息を止めたのがわかる。

 彼女が泣いたように思えたのは、短い時間だった。腕を掴まれたかと思うと、再び、意味のわからない言葉が聞こえ、それから文字通り、風のような速さで、その場を離れた。


 それから、移動が終わるまで、あまり時間はかからなかったと思う。

 目覚めてから、いったい何が起きたのか、苦痛に支配された脳の一部をどうにか使い、説明しようとして、結論を導くことはできないのだと悟った頃、再び体が地面に着地した。

 間もなく、人の手が下顎のあたりに触れる感覚があって、それが口を開くための行為だったとわかったのは、何かの液体が喉に達したときだ。

 ひどく苦かったが、吐き出したい、などという反抗心が起こるほどには体調は回復しておらず、ただそれを嚥下した。

 それが理由かは不明だが、体の不快感が少しずつ、今度は本当の意味で薄れるのを感じ、やがてそのまま眠ってしまった。

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