03 奇跡の少女 -1-

「うっわまじで⁉」


 オリヴィエは手にしたライトを照射してに壁に描かれた絵画を見た。そして息を吐いた。


「まじ! で! レオニス・ミレッティじゃん! えぇー、何なの、やっぱリゲルくん天才かよ」


 それにしてもこいつどうやって見つけてくるんだろう、しかも人気の高い人物画――少女を描いた絵画を。

 むう、とオリヴィエが唸っているところでリゲルはこんこんと、絵の周囲の壁を叩いていた。しかし骨が折れるぞ――持ち帰るのが面倒だ。帝国美術館から専門家を呼んで取り外してもらう必要があるだろ? それになによりまず解決しなきゃなのは……。


「なあリゲルくんよー、この絵の所有者誰なんだ?」

「さあ」


 さあ、って。


「じゃあどうやって許可取るつもりだよ」

「許可?」


 なんとも話が噛み合わない――オリヴィエは頭を抱えた。

 こいつ新人じゃあるまいしいままでどうやって絵を持ち帰ってきたんだ……? いや、考えたくないし知りたくないっ。余計なこと訊くとオリヴィエまで共犯扱いになってしまう。


「と、とにかく、だなあ……」


 オリヴィエが【画商】たるもの、どうあるべきかの説教を始めようとしたときのことだった。

 ぴしゃり、と水滴がしたたる音がする。この地下道、もしかすると海の下を通っているのかもしれない。

 どことなく潮の香りがするような、しないような――などと考えていたあの頃はいま思えば、楽観視が過ぎた。楽天的なのは性分だけど、もっと危機意識とか持っているべきだろう。オリヴィエも、世界各国を飛び回る【画商】の端くれなのだから。


「ん……?」


 ふわんふわんと波打つような高音ソプラノの歌声が地下道に響いている。

 これといった歌詞はなくハミングのような柔らかな音から始まり、ラだかルだかで口ずさむようになって――美しい音色が地下道の中に反響していた。

 

 上手いことは上手いのだが、技巧というよりは声質が素晴らしい。


 張りがあって豊かで、甘くなめらかなその声音はずっと聴いていたいと思ってしまう。音楽に対しては人並み程度の関心しかないオリヴィエでさえ、思わず目を瞑って聞き入ってしまったほどだった。


「どこから聞こえてくるんだ――?」


 ふらりふらりと声のする方に歩みを進めていたときのことだった。

 後ろからぐい、っと強い力で腕を引っ張られた。なんだよせっかく気持ちがよかったのに。まだ耳の中で鳴り続ける女の歌声を掻き消すように「オリヴィエ・ベルナール!」と無粋な男の声が重なって来た。


 いや、この声もまあ悪くはないな。一曲歌でも歌ってくれればいいのに、とふにゃふにゃした思考から引き戻すように男はもう一度「オリヴィエ!」と呼んだ。


「……ん? リゲル?」


 先ほどからオリヴィエを呼んでいたらしいリゲルに顔を向けるとうんざりしたように息を吐いた。


「なにやってるんだおまえは」

「何って……うげっ」


 オリヴィエは地下道の壁に激突寸前だったことにようやく気が付いた。このまま突き進んでいたら勢いよくオリヴィエの愛嬌たっぷりのおでこに傷がついていたところだ。危なかった……。


 てかなんで、こんな壁にまっすぐ突き進んで行っちゃったんだろ。謎だ……。

 顎に手を添えて考え込んでいると、ふふふ、と女の笑い声が響いた。

 大人と言うよりかはまだあどけなさが残る、少女の声音だ。


「な、なんだ、俺らのほかに誰かいるのかこの地下道にっ」

「――いるだろう、最初から」


 最初から? 

 何を言ってるんだリゲルは。何気なくリゲルが視線を向けた先に、オリヴィエも目を向けたときだった。


「……え?」


 いない。


 壁面に描かれたレオニス・ミレッティの作品。

 確かにオリヴィエはこの眼で見たのだ――ほんの少し前に。


 荒々しい海を背景に、岩場に腰かける髪の長い少女の絵で腕には竪琴を抱いている。濡れた髪は頬に張り付き、大雨が降りしきる中で少女は歌っていた。

 それがどんな歌なのかはわからないが……何故だかひどく悲しそうに思えたのをオリヴィエはありありと思い出せるのに。


 目の前の壁には、誰もいなかった。


 物憂げな表情の少女が忽然と姿を消しているのだ。海や岩場、雨は描かれているのに肝心の「少女」だけがいない。ついでにいうと、彼女の持っていた竪琴もなくなっているが――頭を高速回転させながら状況を分析していると。


 ぽろん、と物悲しい楽器の音色が洞窟の中に響いた――もちろん空耳に決まっている。そんなわけがない。絵が。絵の中にあった竪琴の音色がいま此処で聞こえるなんてありえないことだ。


 頭では必死に否定しているのに現実を受け容れろと促してくる。

 竪琴の音色と共に聞こえ始めた少女の歌声が、あの絵の中にいた少女のものだなんて。


 歌声が止んで、オリヴィエはハッとした。どこから聞こえてきたんだあの声は――あの人魚の歌声は。

 きょろきょろ周囲を見回していたオリヴィエの、ジャケットの裾がぐい、と引っ張られた。


「おい、リゲルいまはおまえと遊んでる場合じゃ」


 ぐいぐい、今度は二回。

 仕方なく「なんだよ、リゲル!」と振り返るとそこには――。


『ふふふふふふっ!』


 ずぶ濡れの少女が、立っていて。じいっと大きな瞳でオリヴィエを見つめていた。

 そして次の瞬間、目の前が真っ暗になったのだった。

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