04 奇跡の少女 -2-


 真っ暗な海の中、岩の椅子に人魚が腰かけていた。

 青翠の鱗が星明りに照らされてぬめぬめと輝いている。濡れた髪がぺったりと肌に張り付いてその艶めかしい肢体を隠していた。


 人魚はどこかで聞いたことがあるような、郷愁ノスタルジアを誘う美しい歌声を響かせながら、通りがかる者を待っている。


 彼女の美しさとその歌声にふらふらと近づいてきた者たちを水中に引き込んで、仲間の人魚たちと一緒にばりばりと頭から食べてしまうのだ。

 

 あ。


 爪先がいきなり押し寄せてきた波で攫われて、海中に飛び込んでしまった。

 濡れて水を吸った服が身体に絡まって身動きが取れない。ごぼり、がばりと口から泡を吐きながら沈んでいく「俺」の眼前に彼女の端麗な顔が迫る。

 鋭い眼差しで串刺しにされ、首を鷲掴みにされる。思いのほか力が強くて、抵抗することもかなわない。

 水のなかに潜んでいた人魚たちが笑いながら近づいてきて、「俺」の両手両足を掴むとまるでお人形遊びをするかのように思いっきり引っ張り合いをし始めた。


 痛い、痛い痛い痛いちぎれる!



「うわああ!」 


 オリヴィエはがばっとふとんを跳ねのけて跳び起きた。

 嫌な汗を掻いたせいで寝間着代わりのシャツがぐっしょり濡れている。


「……夢か」


 荒い呼吸を整えながらちら、といまいる場所を確かめた。帝都に借りている安アパート――ではない。そうだった、オリヴィエは出張に出ていたのだった。隣の国の港町まで、同僚と一緒に。

 ということは此処は宿屋か何かだろう。ベッドと簡素なテーブルと椅子といった必要最低限の嗅ぐしか置いていない簡素な一室だった。

 そのとき、ドアを軋ませてリゲルが中に入って来た。


「起きたのか」

「お、おぅ……」


 なんだか間抜けな鳴き声じみた応えをしてしまったが、まだ寝起きだから許してほしい。一方でリゲル・フォン・リヒトホーフェン様は朝から完璧だった。


 ぱりっと糊のきいた清潔なシャツに黒のジャケット、鮮やかなブルーのタイに【画商】のみに支給されるカメリアを模したピンをつけている。

 ちなみになぜカメリアなのかとゆーと、ミレッティが愛したモチーフとして椿の花カメリアが挙げられるからであーる。


 階下で自分だけもらってきた珈琲を啜りながら新聞に目を通すさまはいかにも出来る男だった。うーん、様になっている。たぶん年下なんだろうけどなあ。


「ねー、リゲルくんて何歳?」

「十九だが」

「じゅ……俺より五つも年下かよ……」


 がくりとオリヴィエは肩を落とした。そういえば飛び級したとかいう話も聞いたことあるな。これが天才様と一般人の差ってやつ。

 それよりももっと気になっていたことがあったことを思い出した。ようやく頭が回って来たらしい。


「ねえリゲルくん」

「………」

「おーい、無視しないで!」


 ようやく新聞から目を離してくれたリゲルは「なんだ」と冷たく言い放った。


「俺、昨日さあ……もしかして」


 ああ、と興味を失くしたとばかりに新聞に視線を戻してリゲルは言った。


「おまえが地下道で急にふぎゃあだかはぎゃあだか奇声を上げて倒れたことか?」

「ねえ俺ほんとにそんな声上げた⁉」


 恥ずかしいにもほどがある。


「で、でさあ、もしかしてリゲルくんが此処まで……?」

「ああ。大きめのキャンバスや彫像と比べれば軽いものだからな、人間なんて」


 あらやだ顔に似合わずたくましい。

 背はオリヴィエよりもちっちゃいし、なよっとしているように見えるのに意外と鍛えているのかもしれない。喧嘩とかになったら負けちゃうかもだった。怒らせないようにしとこ。


「あは、ごめんごめん、お世話になっちゃって。助かったよ」

「――別に構わない。僕は午後にはもう発つがおまえはどうするんだ」

「ん? 発つって?」


 リゲルは珈琲を啜りながら言った。


「あの絵は僕の探していたミレッティものじゃない――だからもう、用はないから帝都に戻る」

 

 数拍分の間を置いてから、オリヴィエは叫んだ。


「はああああああ……⁉」

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