09 泡沫乙女 -1-
リゲルの背で腰の位置ぐらいまで海水に浸かりながらたどり着いたのは海中洞窟だった。ちなみにオリヴィエだと膝と腿の中間あたりである。ふふん。
ほんとはこの洞窟、舟とかで来るんじゃないのかとも思ったのだが――それにしては水深が浅いからこうやってじゃぶじゃぶ突き進むしかなかったんだろう。
「あ、これ町中にある地下道の真裏じゃん」
奥へ突き進むまでオリヴィエは気が付かなかったが――浅瀬を回ってたどり着いた洞窟と、ホルツの地下道が繋がっていることに気付いた。地下道の中で見た水路のような場所がいま自分たちがいる洞窟の通路と一致しているようだ。道理でさっきから見たことある風景が続いていると思った。
先導するリゲルのあとについていったのはオリヴィエだけで、市長の付き人はご立派なスーツが潮水で台無しになるのが嫌だったらしく浜辺で残留しているようだ(振り返ったら姿がなかった)。いや、俺も御免被るんだけども……。
「ねー、こっち側から来た意味なんてあんの?」
オリヴィエはお気に入りの靴とスーツが水没したことをいまだ恨んでいた。
「地下道からこの洞窟の水路までは高低差があるし、飛び降りるのも危険だろうからな――こちら側から全体を確認しておきたかったんだ」
「全体……?」
そのときおもむろにリゲルが足を止めたので背中にどすんとオリヴィエが追突した。おいおい止まるなら止まるで先に言えよな。
リゲルがじっと斜め上を見上げているのでその視線をたどり――オリヴィエは息を呑んだ。
「うっわ」
語彙が消し飛ぶほどに眩い光の軌跡が薄暗い洞窟の壁に描かれている。
地下道の真裏に描かれていたのは、満天の星空と一艘の舟、そして星々が沈んだ海を泳ぐ大きな魚にも似た海獣だった。ぎざぎざの歯を剥き出しにしながらも心地よさそうに波間を漂っている。
目を凝らすと、舟の上で人間の少女が手を組み合わせて歌う姿が描かれているのがわかった。
穏やかな歌声が、洞窟内に押し寄せる波が砕ける音にまじって聞こえた気がした。
人魚の歌声――地下道側で聞いた歌と同じ旋律にも思える。ただすこし、掠れ、苦しそうな歌声だった。
「そうか……表の人魚の絵と裏の少女の絵――この壁画は二つで一つなんだ」
「ホルツの昔話では、人魚と漁師の娘の二重奏で怪物が眠りに就いたとある。それを描いているらしいな」
巨大な壁の表と裏に絵を描いて完成させる、というのがいかにもミレッティらしい。こりゃ確かにそのまま置いておくのが一番だろう。
片側の面だけでも十分美しいが――人魚も、少女も。ふたり一緒にいることでこの作品は「芸術」となる。無理に持ち帰ろうという発想こそがナンセンスだ。
そのとき、絵の中の少女と目が合ったような気がした。
え、と呟く間もなくしゅるりと壁画から抜け出てきた彼女は、オリヴィエに言った。
『妹はどこ』
「妹……ああ、もしかして人魚の女の子のこと? それ、実は俺らも探しててさ、うわっ」
そのとき洞窟全体が大きく揺れ始めた。足元が大きくぐらついてオリヴィエはしりもちをついた。うえ、これじゃパンツもびしょびしょだよ最悪……。
『かえして、あの子をかえして……!』
「待って待って俺ら無関係だからっ、あの俺をぶん殴った学芸員の女のせいだからね!」
大声で叫んでも聞く耳持たず。絵の中にいた少女はうえーん、と泣きじゃくりながら洞窟内を激しく揺らす。歌声ならまだしも泣き声は聞いているのが辛い。
「なんとかしてよリゲルくーん!」
「なんとか」
だからもうそれは要らんっつーの。
「あらこれはひどいわね」
「そうなんですよお嬢さん……ってお嬢さん⁉ 誰⁉ いつの間に⁉」
すぐ隣から鈴が転がるような笑い声が聞こえたかと思うと、すぐ隣にいた女はかぶっていたシルクハットを絵の中にいた少女に向かって投げた。
帽子のつばから零れ落ちた黒髪がぱさりと揺れる。
隣にいた女――少女の頭のてっぺんからつま先まで眺め、オリヴィエは、おお、と感嘆の息を吐いた。
「うわめっちゃ好み……若干幼いけど……十年後ぐらいに交際申し込みたいレベル」
「お断りよ軽薄なおにーさん。また会ったわね不愛想なおにーさん」
ダリアは片目を瞑って肩を竦めた。
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