『最後の一局』

 副将戦が急展開を迎える中、三将戦に挑む雪花せっかは今度こそ折れかけていた。


 対戦相手は不知火しらぬいおぼろ。何処を見ているのか分かりづらい線のような瞳で盤面を睥睨し、冷徹に雪花を追い詰めてくる。彼女の棋力は有段格。中級者の雪花にとって、大量の置き石ハンデをもらって初めて勝負が成立するほどの格上だ。その差はとても、気合や根性で埋められるものではなかった。


 中盤戦が始まったばかりだというのに、雪花の白石は既にズタボロ。ここから形勢が逆転する可能性は万に一つか、それ以下だ。


「……ッ!」


 雪花は下唇を噛む。会場中の碁石の音が脳に響いてくる。もはや盤面に集中することもできていなかった。


 チームの勝利には勝ち星が二ついる。三将が負けたら、副将と大将が勝たなくてはならない。


 しかし大将、ステラの席は、未だに空いていた。鷺若丸さぎわかまる漆羽うるしば鬼神を倒さない限り、彼女が会場に訪れることはない。


 時間は無情に流れ続ける。ステラの不戦敗が確定するのは、対局開始から十五分後だ。雪花は、遠くの時計を盗み見た。タイムリミットまで、残り一分を切ったところだった。


 受付席の大会運営者たちが、時計と会場の入り口を見比べている。灰谷はいたに聖導せいどうの大将、シノブも副将戦から視線を上げた。


 雪花は恐怖と緊張で、目をつぶる。もはや出せる力はすべて出し尽くした。残された一分間でできることは、その瞬間を待ち望んで、祈ることだけだ。


(あんなに楽しみにしてた団体戦でしょ……! 早く囲碁をやりに来なさいよ!)


 まるでその想いに応えるように、あわただしい足音が聞こえてきた。


 思わず雪花は顔を上げる。さっきまでの身体の硬直がどこかへ消えて、気付けば会場の入り口、ガラスの扉を振り返っていた。その向こう側に、あの鮮烈な桜色の髪が現れた。


「来た!」


 それを見たシノブも、ニヤリと呟く。


「ほう、随分と粋なご登場だ!」


 ついに、漆羽神社から解放されたステラがやってきたのだ。彼女は、転がるように碁盤の前までやってきて、頭を下げる。


「ぜーっ、はーっ、お、おくれ、遅れてしまって、申し訳ありませんっ!」

「構わん。見ての通り、私の初手は既に済ませてある。そちらの番からだ」


 ステラは仲間たちをちらりと見やった。雪花は顔をぐしゃぐしゃにして頷き、天涅あまねは大将の登場に気付いた様子もなく、目の前の対局にかじりついている。


 ステラの赤く火照った顔に、感謝と賞賛の表情が浮かんだ。雪花も天涅も、期待されていた役割を見事に果たしてくれた。ここからはステラの番だ。


 着席し、碁笥ごけの蓋を開け、改めて頭を下げる。


「お願いします!」

「お願いします!」


 石を打ち下ろし、対局時計を叩く。いよいよステラの対局が始まった。


   ○


 女子団体戦会場の遥か上空。青く晴れ渡る空の下、丸々と肥え太った入道雲に腰かける人影があった。漆羽鬼神の右腕、仙足坊せんそくぼうだ。


 彼は純白の片翼をしまい、眼下に向けて一人、呟く。


「いやはや。これぞまさしく青天の霹靂、といったところでしょうか」


 彼はちょうど今しがた、漆羽神社から会場まで、ステラを送り届けたところだった。指示を出したのは、他ならぬ漆羽鬼神だ。それはつまり、決闘の勝者が鷺若丸だったことを意味していた。


「まさか我が主が囲碁で負けようとは……」


 仙足坊も囲碁を嗜む身。漆羽鬼神の強さはよく理解している。それだけに、衝撃は大きかった。


「……流石、と言う他ありませんな」


 本来は主の敗北を一緒に悔やまねばならないのだろう。しかし今はただただ、その偉業を成し遂げた少年を讃えることしかできなかった。


 やはりあの日、あの対局で彼に感じた威圧感は本物だったのだ。主が執着するにふさわしい、希代の碁打ちだ。


「……」


 仙足坊は、地上に鎮座する古びた校舎を見据え、口元を引き結ぶ。あの会場で、今まさに最後の戦いが繰り広げられている。


「こうなってしまったからには、是非もない。せいぜい見届けることにしましょう。あの少年が守ったものを」

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