『本当の対局開始』

 副将戦を戦う星薪ほしまきいのりは、絶好調だった。少なくとも、本人はそうだと感じていた。


 天狗に渡された片眼鏡の効果は絶大だ。相手が着手した瞬間、次に打つべき手が見える。


(すっごい眼が冴えてら。これほどの力があれば、あの桜谷敷さくらやしきステラを片手でひねることだってできる……! もしかしたら、プロにだってなれるんじゃ?)


 天にも昇る、いい心地だ。いつの間にか彼女は考慮時間もかけず、ノータイムで石を持つようになっていた。目に見えた手に従って、どんどん石を置いていく。


 その時、対面の天涅あまねから目を引くような一手が飛び出した。反射で石を打ちかけて、ふと躊躇う。頭の中でなにかが疼いた。盤の上まで伸びていた腕が、硬直する。


「……?」


 着手の直前に、自分が悪手を打とうとしていたことに気付くことは、珍しいことではない。碁打ちなら、誰にでも経験があるはずだ。この時もいのりは、そういう直感が働いたのだと思っていた。「失礼しました」と、打ちかけの石を碁笥ごけに戻す。


 彼女はこの対局で初めて手を止め、盤上を分析した。


 彼女の白石は、盤全体へ足早に展開しながら、着実にを囲い込もうとしている。天涅の黒石は、いきなりその陣形の最深部まで飛び込んできたのだ。


 率直に言って、あまりいい手とは思えない。片眼鏡越しに見える手をそのまま打てば、簡単にやり込めることが出来そうだ。にもかかわらず、不思議と天涅の一手が気になってしまう。まるで石から語り掛けられているかのようだ。


 ちらりと相手の顔をうかがう。天涅は飲酒でもしたんじゃないかという恍惚の表情を浮かべて、いのりの顔を見つめていた。目がイッちゃっている。いのりは慌てて顔を伏せた。


(な、なんだこいつ? やっぱりただやりすぎただけの手だったのか?)


 悩みながらも、当初の方針通りに手を進める。それを見越していたかのように、天涅はノータイムで返してきた。打ち込んだ石で居直ろうとするばかりか、逆にいのりの石を狙うような強引な一手だ。そんなバカな、と思った。


 彼女の囲碁は、一回戦の時に少しだけ偵察した。読みの甘さはあるものの、異様に鋭く筋のいい手を打つ選手だった。そんな彼女が、こんな強欲で筋の悪い手を打つものだろうか。


(それとも、この手には他にも狙いがあるってのか?)


 次に打つべき手は見えている。それでもいのりは動けない。天涅の手の意味が分からないからだ。長考しながら、意図を探る。そうしたら薄っすらと、なにかが聴こえた気がした。


――……。……。


 まるで声のようだった。なにを言っているかは分からない。それでもなにかを訴えてきている。そんな気がしてならない。


 頭がおかしくなったか? いや、そう言えば以前、部長が《石の声》の話を口にしていた。ある領域に到達した碁打ちは、石から声を聴くことができるようになるのだと。


 同様の話は、他の機会にも幾度か耳にしたことがあった。てっきりおとぎ話だとばかり思っていたが、まさかこれがそうなのだろうか?


 苦しみ、迷いながらも、やはり見えている通りに次の石を打つ。どう考えても、その手が最良であることは疑いようがない。だが、ならば何故、こんなにもこの一手に抵抗を感じるのだろうか。


 天涅の手はやはりノータイムだ。そしてまた、なにかが伝わってくる。


――……? ……?


 底なしの闇のような天涅の瞳は、相変わらずいのりを見つめていた。いのりは確信した。天涅が選んでいるのは最良の手ではない。すべて、いのりを試すための手だ。


 それに気が付いた時、いのりは冷や水を浴びせられたように、正気を取り戻した。


(この囲碁……なんなんだ?)


 さっきまでは気分がよかったのに、振り返ってみるとどういうことだろう。とても自分で打ったとは思えないような囲碁だ。この盤上には本当に、自分の意志が介在していたのだろうか?


 もしこれが誰かに打たされた囲碁だというのなら、心当たりは一つしかない。この片眼鏡だ。これは棋力きりょくを引き上げる眼鏡なんかじゃない。ただ次に打つべき一手を示すだけの道具だ。


 いのりは片眼鏡に手をかける。しかしそれは顔に吸い付いているかのように、びくともしなかった。仙足坊が施した呪いのせいだと、彼女には分からない。恐怖が湧きあがってきた。


 混乱に溺れそうな彼女を勇気づけたのは、隣でこの囲碁を観ている大将、シノブの眼差しだった。


 去年、いのりが初めて囲碁部に足を踏み入れた時、最初に対局した相手が部長のシノブだった。アマチュアとしてはそこそこの碁打ちだと自惚れていたいのりは、そこでいきなり鼻っ柱をへし折られた。悔しかったが、なによりシノブの人柄と囲碁に圧倒された。


 そんなシノブが率いたにもかかわらず、去年の灰谷はいたに聖導せいどうチームは苦戦を強いられた。結果は関東六位止まり。全国大会には届かなかった。悔しがるいのりの肩を叩き、シノブは言った。


――来年こそ、粋な囲碁を打とうじゃないか。


 その言葉に応えるために一年間、頑張って棋力を上げてきた。にもかかわらず、この体たらくだ。これではなんと顔向けしたらいいか、分からない。


 とにかく右手の五指に、ありったけの力を込める。神経がちぎれるような激痛が走り、思わず苦悶の声が漏れた。チームメイトたちが驚き、視線を向けてくる。それでもいのりは、気合と根性で、強引に片眼鏡を引っぺがしてみせた。


 頬を温かな血が流れ落ちていくのが分かる。右目を開けていられない。頭痛もひどい。囲碁を打っていただけなのに、何故か満身創痍だ。それでもここから先の囲碁は、自分の囲碁だ。


 そう、ここから。ここからが、本当の対局開始だ。片眼鏡をしまったいのりは、血を拭って平然を装うと、石音も高く、自ら選んだ手を放った。

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