『色づくモノクローム』
――我は千年前から囲碁が好きだ。
――明日使う布石を思い描き、気付けば空が白み始めていた時の、透き通った空気が好きだ。知恵を振り絞り、策をぶつけ合う時の、息詰まる心地が好きだ。
囲碁を愛する理由はいくらでもある。しかしこの時代に来て、それがまた一つ増えた。
――囲碁を通して、新しい縁が繋がっていくのが好きだ!
――ほざけ! 貴様と吾輩の因縁を繋いでしまったのも、他ならぬ囲碁だ!
ありったけの怒りを込めて、漆羽鬼神は捨て身の攻撃を繰り出した。
――この因縁に決着をつけ、貴様と吾輩の格を示す。そのための一局だ。雑魚どもの囲碁に余所見している場合か!
鷺若丸を殺すことが目的ではない。巧みに圧力をかけ、思い通りの形に委縮させようという魂胆だ。強欲な技巧が凝らされた、渾身の勝負手だった。
――貴様は吾輩を……
しかしその瞬間、鷺若丸はその一手から距離をとった。
石を運んだ先は、その戦場とはまったく違う場所。盤の中央だ。漆羽鬼神は一瞬、その一手が強烈に光り輝き、盤上を照らしたように錯覚した。
これは防御の一手だ。中央周辺の石がこれ以上攻められないよう、体勢を整えている。
だが、それだけではない。
この石は、盤面全体を見渡していた。相手の陣形へ侵略を狙うと同時に、その尖兵に牽制をかけ、味方の陣形に目を配りつつ、現在の戦場に支援を送っている。文字通り、すべての石に繋がる一手だ!
石は叫んでいる。
――ステラ殿が教えてくれた。我の旅路に、なに一つ無駄などない。すべての縁が、我の縁。すべての縁が、我の囲碁だ!
漆羽鬼神は戦慄くしかない。
――な、なん、なんだとぉ!? この期に及んで……このッ! これでも喰らえ!
動揺を振り払い、無視されてしまった攻撃を続行する。しかし、どこまで行っても鷺若丸の想定内だ。
――我は悟った。我とそなたの間にある強力な縁でさえ、大いなる運命を前にしては、まったくの無力だと。千年の時間で、あっさりと引き裂かれてしまうのだと。
――しかし、今こうして我々は戦っているではないか!
――そうだ。だがそれは、ステラ殿や雪花殿、天涅殿らとの縁のお陰だ。すべての縁は繋がっているのだと、何故分からぬ!
ステラと出会えたから、部室を訪れた雪花に出会えた。雪花と出会えたから、天涅に出会えた。彼女らをまとめ、共に大会を目指したから、鷺若丸はこうして今この山にいるのだ。そして付け加えると、そもそも九郎との縁がなければ、彼女らとの縁を紡ぐこともなかった。
全ての石に意味があるように、すべての縁にも意味がある。どんなにバラバラでフラフラしているように見えたとしても、同じ盤上にある石同士のように、影響を与え合っている。
そうやってより合わさった縁は、鷺若丸自身の魂を、鷺若丸の囲碁を変えていく。
――縁が縁を呼び、その度、白と黒しかない我が囲碁が彩られていく。そうやって我の囲碁は進化し、〈囲碁の
鷺若丸の隣に、彼以外の人影が浮かんでいるように見えて、漆羽鬼神は目を拭った。局面に口を出すわけでもなく、ただ隣にいるだけの彼女たちが、何故か鷺若丸の力になっている。鷺若丸という人間が紡いできたすべての縁が、盤を挟んで漆羽鬼神と相対していた。
――こんな……、こんな莫迦げた話で、この吾輩が圧されるなど……。ぬううっ!
――ステラ殿の囲碁は既に我が囲碁の一部! それをないがしろにされてたまるものか!
(鷺若丸さま……!)
激しい石のせめぎ合いを、傍らでじっと見守っていたステラは、つい呼吸を忘れていた。石を通して、鷺若丸の想いがビリビリ伝わってくる。
ここで《石の声》を聴いていると、現在進行形で仲間達に迷惑をかけているにもかかわらず、こう思わずにはいられない。この対局を目撃できて良かった、と。
この一局は、剥き出しの魂での殴り合いだ。軽蔑と敬意が複雑に絡まり合ったその石の模様は、彼女に一つの実感をもたらしていた。時の流れというものは良縁も悪縁も区別せず、すべてを巻き込んで血肉にしていくのだ、と。そしてその先に紡ぎ出された混沌とした未来に、この名局は生まれたのだ。千年前に、いったい誰がこれを予想できただろう。
一介の人間が、未来を見通すことは困難だ。勝利の先に泥をなめることもあれば、敗北の先に悟りを得ることもある。ならばステラが勝利を恐れ、真剣勝負から逃げたことに、はたしてどれだけの意味があったのだろう? 本気でぶつかり合うことを放棄することは、相手に対しても、囲碁に対しても、ただただ失礼なだけだったのではないか?
彼女はこれまで、漠然と「楽しい囲碁」を取り戻そうとしてきた。そして取り戻せたと思っていた。しかしそれはただの独りよがりではなかったか? 鷺若丸の囲碁が楽しいのは、彼が盤上でちゃんと相手と向き合っているからではないか?
(ああ、そういうことだったのですね)
ステラはようやく気が付いた。恐れるのではなく、鷺若丸のように正面から相手を受け止めること。その上で自分の囲碁をぶつけること。多分、それこそが自分に必要なことだったのだ。
鷺若丸の強打が、漆羽鬼神を追い詰めていく。しかし漆羽鬼神もまだまだ粘る。
ここからはいよいよ終盤戦、大詰めの段階だ。いよいよ終局が見えてきた。細かい勝負になりそうだ。
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