『攻略法』

 いよいよ三回戦が始まる。優勝を争う二校が盤を挟んで向かい合った。


 依然、伊那いな高側の大将の椅子は空いている。対局開始から十五分間が経過しても対局者が現れない場合、三回目の不戦敗が確定してしまう。


 不在の大将に代わり、天涅あまねがシノブと〈ニギリ〉を行い、先手番・後手番を決める。これによって伊那高側の大将が、白番(後手番)に決まった。


 団体戦の手番は、大将戦を基準に以下、交互になるよう自動で決まる。つまり副将戦の天涅は黒番(先手番)で、三将戦の雪花せっかは白番(後手番)だ。


 副将戦。天涅と相対するいのりが、白石の入った碁笥ごけを引き寄せる。彼女は大きく深呼吸して、【黄金棋眼鏡おうごんきがんきょう】をかけた。その瞬間、彼女の右目が震え始める。呪文を口にしたわけでもないのに、道具が起動している。仙足坊せんそくぼうあたりがなにか細工を施したに違いなかった。


 斜向はすむかいでその様子を見ていた雪花は、表情を曇らせる。自分が奪い取り、漆羽うるしば鬼神に献上した道具が、こんな形で自分たちを苦しめているのだから当然だ。天涅とて、この巡り合わせには思うところがある。


 会場に集う全チームの準備が整ったタイミングで、司会進行役がマイクをとった。


「それでは皆様、三回戦を始めてください」


 声を合図に、若き碁打ち達が一斉に頭を下げる。


「お願いします」


 たちまち、会場が碁石の音に包まれた。


 そんな中、天涅はしばらく石に触れようとしなかった。じっと盤を見下ろして、呼吸を数える。彼女は自分の内にある感情を、じっくりと味わっているのだ。


 死体に魂を縛り付けて造られた天涅にとって、「自分」とは高いところから俯瞰して認識するもの。すべての実感、すべての感情が魂から遠く離れた場所にある。


 しかし今、そんな彼女の胸中に、一つの強烈な感情が湧き上がっていた。同じ揺らぎは、以前にも感じたことがある。忘れもしない、鷺若丸さぎわかまると初めて会った夜の記憶だ。


 あの日、天涅は【黄金棋眼鏡】を使っていたにもかかわらず、なすすべなく倒された。自分の棋力きりょく以上の手を打つことはできず、取り返しのつかない一手一手から逃げることもできず、打開の可能性をどこにも見出せないまま、敗北へとひた走っていく感覚。あの時、味わったものの正体が、ようやく分かった。あれはまさしく「恐怖」というものに違いなかった。


 そして今、彼女の胸には、あの時と同じ恐怖が去来している。負けてはいけない戦いなのに、やり直しがきかず、しかも相手は上手うわて――その上【黄金棋眼鏡】を使っているときた。状況は最悪、絶体絶命だ。


 まともにやっても勝てっこない。あれだけ大口を叩いておきながら、天涅は役割を果たすこともできず、無様に敗北するしかないのだ。その未来を想像すると、乾いた肌が泡立ち、硬い肉が震える。ピクリともしないはずの心臓が、まるで脈打っているかのようだ。


 しかし、そんな恐怖も感情であることに変わりはない。……つまり、天涅の魂は飛びつかずにはいられない!


(嗚呼)


 瞳が拡大する。呼吸が荒ぶる。溢れるよだれが止まらない!


(……たまらなぁい!)


 重たい恐怖を堪能しながら、天涅は衝動に任せて第一手を繰り出した。


 そこからは、お互いに長考なく、手が進んだ。


 わずか数手打っただけでも、相手との実力差は肌で分かった。五年間ずっと【黄金棋眼鏡】のレンズ越しに見てきたあの正確無比な手が、今まさに天涅自身へと刃を向けている。


 それでも勝たねばならない。そのためにはまず、【黄金棋眼鏡】という結界に閉じこもってしまった「いのりの囲碁」を引きずり出すことが必要だ。それができて初めて、同じ勝負の土俵に立てる。


 では、その方法は? 陰陽師の力をもってすれば、すぐ目の前にある片眼鏡を破壊することくらいは造作もない。だがそんなやり方では、騒ぎになることを避けられない。それはダメだ。


 となれば、いのり自身の意志で片眼鏡を外させるしかない。


 際どい道になるが、対局前から考えている作戦があった。いや、作戦とも言えない、ただの思い付きのようなものだ。しかしこれしかない、という確信もあった。


「へ、へへ、えへへへへぇ……!」


 ひりつく空気に酔いしれながら、天涅はこれまで以上に、石を強く握りしめる。


 鍵となるのは《石の声》だ。ある程度の棋力きりょくを備え、尚且つ心から囲碁を愛する者にのみ聴こえるというその声を、天涅はまだ一度も耳にしたことがない。この先も、まだ当分は聴くことができないだろう。


 だが、星薪ほしまきいのりならどうだ?


 神との契約に手を出してまで囲碁の大会にこだわった彼女なら、あるいは天涅の声を聴き取ってくれるかもしれない。どれだけ肉体と調和していない魂でも、碁石を通せば声を伝えることはできる。それは鷺若丸に教えてもらったことだ。


――さあ、聴きとってみろ。わたしの《石の声》を!


 天涅はありったけを注ぎ込んだ黒石を、敵陣深くに叩き込んだ。

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