『永年棋譚のその途中』

 この世にあってこの世にない狭間の世界の、深い深い森の奥。一人の童子がこんこんと湧き出る泉を覗き込んでいる。鏡のようなその水面には、紅色の焼け野原が映し出されていた。


 それはまさに地獄絵図だった。立ち上る黒い煙に隠れるようにして、そこかしこにむくろが転がっている。その中の一つは鮮烈な桜色の髪をしていた。


 断続的な地響きの度に、大地が割け、家々が崩れ、血肉が舞う。夜空を目指すように燃え上がる赫赫かくかくたる業火には、怒り狂う漆黒の翼の神と、金毛九尾の狐の影が躍る。


 天狗は傾いた電柱の上に立ち尽くし、殺し合いを見届けることしかできない。その腕に抱えている亡骸は、半人半妖の雪女だった。眼下には、土御門つちみかど家の当代陰陽師だった土塊つちくれが転がる。魂をとどめることもできないほどに崩壊していた。


 それぞれの犠牲を嘆くように、怪物たちは血を流し続ける。気が滅入るような惨状だ。


 しかしどうしたことか、水面に映るその光景は次第に薄れ、消え始めた。陰惨な映像を塗り替えるように現れたのは、それとは似ても似つかない、あまりに平和な情景だった。


   ○


「おのれおのれおのれ、うぉおおおのれおのれおのれ!」

「悔しい悔しい悔じぃ悔じぃ悔じぃいい!」


 月曜日の透き通った朝空に、怒りの叫び声と、嗚咽交じりの叫び声が響き渡る。それは漆羽うるしば神社の石畳で地団太を踏む、漆羽鬼神と雪花せっかのものだった。


「あの時、あの攻防で後手を引いたのが間違いであった! 勝てる戦を……、ぐぬううう!」

「あっちもこっちもそっちもどっちも、序盤、中盤、終盤、全部酷かったけど! 悔じい!」


 少し離れた場所から様子を見守っていた仙足坊せんそくぼうは、口元を歪めて苦言を呈す。


「また、ですか。お二方とも、あれからもう丸一日経つのですよ? いい加減、落ち着いたらいかがです。せっかくの清々しい朝が台無しですよ」

「馬鹿者が! 負けて悔しいのは当たり前であろう!」


 怒鳴る漆羽鬼神は、怪獣のようだ。


「こうなったら特訓だ。次こそはあの憎き小僧を叩き潰す。おい、小娘!」

「はい!」


 雪花はすぐに飛び起きる。彼女は白と蒼の巫女服を身にまとっていた。都会の量販店で自ら買ってきた、コスプレ用の品だ。先の騒動の後、灰谷はいたに聖導せいどう女子の星薪ほしまきいのりは、新しい巫女にはならなかった。代わりに雪花が、再び漆羽神社へと迎えられたのだ。今度は正式な巫女として。


「貴様に巫女としての最初の仕事を言いつける。下界から囲碁の教本を持ってこい」

「お任せください!」

「それから、たまに貴様へ囲碁の指南をつけてやるから、もっと腕を上げろ。吾輩の巫女が三流の碁打ちでは、格好がつかぬ」

「本当ですか!? であれば、部活のない火、水、土、日にお願いします!」

「え? 待つのだ、それは流石に多すぎる。吾輩の囲碁の勉強にも差し支える」


 漆羽鬼神は難色を示す。すると雪花はゆっくりと笑顔になり、両手の指を組んだ。


「……漆羽様。あたしから漆羽様への忠義に、変わりはありません。こうして再びとりたててくださったことにも、感謝の念は絶えません。そもそも、あたしを山から追放したのも、土御門との戦いに巻き込まないように、という計らいだったのですよね?」

「ふん、さてな」

「ですが……」


 雪花の目が光る。五月の青々とした木々が突然、霜をまとい始めた。


「今回の漆羽様の蛮行の数々、目に余ります」


 ステラを拉致し、伊那いな高の大会を滅茶苦茶にしたこと。いのりに【黄金棋眼鏡おうごんきがんきょう】を渡し、その対局を台無しにしたこと。どれも容易く許すことのできない悪行だった。


「よく反省してください」

「……」

「では、あたしはそろそろ学校があるので、失礼します。指南は部活のない火、水、土、日にお願いしますね」


 雪花は颯爽と踵を返した。漆羽鬼神は、仙足坊の方にボソッと呟く。


「あれの母親に似てきたか?」


 思わず噴き出した仙足坊は、主に一礼だけして、雪花の後を追った。


「もしお節介でなければ、拙僧が学校まで送って差し上げましょう」

「本当? 助かるわ、仙足坊」


 仙足坊に連れられ、雪花が飛び立っていく。漆羽鬼神は、その影を見送った。


「まったく、たかが一月で随分と見違えたものだ」


 人の子はあっという間に成長するものだが、今回はよほど大きな転機があったらしい。


「囲碁部の大会とやらは、そんなに刺激的なものなのか?」


 人をやめ、神になってしまった漆羽鬼神が、その答えを知ることはない。


 彼はくちばしを鳴らしながら本殿へと姿を消した。


   ○


 上空を横切った強い妖力が、伊那高のある浅見あさみ丘陵に向かっていく。自転車に乗って信号を待っていた天涅あまねは、いつも通りの無表情でそれを見上げた。ボストンバッグにぶら下がる狐のぬいぐるみが、不機嫌そうに吐き捨てる。


「まったく、朝っぱらからご機嫌な奴らじゃ。やはりお咎めなしはぬる過ぎはせんか?」

「いいんじゃない? 必要なものは取り戻したし。向こうも、もう騒ぎを起こす理由がないでしょ」


 奪われた【黄金棋眼鏡】は、いのりから直接回収した。大まかな事情を話すと、いのりはすんなり納得し、片眼鏡を手放してくれた。決勝戦で負ったダメージには治療を施しておいたので、おそらく数日で回復することだろう。


 問題の漆羽鬼神も、鷺若丸さぎわかまるがこの時代にいることが分かった以上、過去に遡る動機はなくなった。鷺若丸と再戦したがっているため、むしろ余計なトラブルは避けるようになるはずだ。


「それでも問題を起こすなら、こちらには鷺若丸がいる」

「そうは言うが、あやつの腕もどこまで信用してよいやら。あの対局、どちらが勝ってもおかしくない勝負じゃったぞ。見ていて本当にハラハラさせられたわい……」


 ハラハラしすぎて、実は途中から白目を剥いて気絶していた。終盤あたりの記憶はまったく残っていない。心なしかげっそりとしているぬいぐるみに、天涅は淡々と言った。


「大丈夫。彼、まだまだ強くなる気でいるから。今度は、部長の伝手つてを使って、プロの研究会にも顔を出すって」

「はぁ、貪欲と言うか、なんと言うか……。囲碁とは、そんなに楽しいものかのう?」

「ああ、そうそう。彼も、いつまでも部長の家に泊まりっぱなしというわけにはいかないでしょうし、うちに来てもらうのもいいかもね。今度提案してみる?」

「なんじゃとォ!? ならぬ、ならぬ! だいたい、あやつはだな――!」


 忌弧きこの反対を聞き流し、天涅は自転車を発進させる。


 今日の放課後は囲碁部の活動日だ。


   ○


 放課後、鷺若丸とステラはいつものように、数学棟一階の廊下端にいた。


 碁盤を挟んで向かい合っているが、対局しているわけではない。鷺若丸が漆羽鬼神との囲碁を並べ直しているところだ。


 ステラは鷺若丸の名局を褒めたたえる。


「鷺若丸さまの強いところが出た、素晴らしい戦いでしたわ。この一局に立ち会えたおかげでわたくし、なんだか少し吹っ切れた気持ちになれました」

「善きかな。……我も、不思議といつもより、特に楽しき碁であった。ステラ殿の大会がかかっていたのに……」


 申し訳なさそうに笑う鷺若丸の方へ、ステラは椅子の距離を詰める。


「後ろめたく思う必要はありません。それは当然のことですわ」


 鷺若丸は困惑しつつ、彼女の瞳に続きを求めた。ステラはニッと微笑む。


「だってあれは、紛れもなくわたくしたち伊那高囲碁部の、団体戦の一局でしたから」


 お互いの対局に口を出すわけでもなく、ただ並んで囲碁を打つだけ。しかし、ただそれだけのことが、囲碁に特別な面白さを与えてくれる。それが団体戦だ。


「団体戦……。そうか、あれも団体戦か。……ふふ、さてもさても!」


 勝利の味が、格別なわけだ。鷺若丸は得心して、破顔した。


 とは言え、この世に完璧な一局はない。どんな一局にも、どこかに反省点は生まれるものだ。漆羽鬼神との千局目も、例外ではない。あれはどちらに転んでもおかしくない勝負だった。


 鷺若丸は、力強く石を打つ。


「我はこれより、なお強くなる。志すは〈囲碁のきわみ〉だ!」


 ただ強くなるだけで、〈囲碁の極〉に辿り着くことはできない。しかし強くならなければ、やはり〈囲碁の極〉には辿り着けない。囲碁のすべてを知り、極めるという道ははてしないのだ。


 だから鷺若丸は、この一勝に満足して、足を止めたりはしない。ステラが楽しい囲碁を、雪花が宿敵を超えるための囲碁を、そして天涅が情動を揺さぶる囲碁を追い求めるように、鷺若丸はその総てを繋ぐ、極へと至る囲碁を探し続けるのだ。


 そんな彼を見守りながら、ステラは微笑む。


「その旅路に、どうかわたくしも協力させてください。これでもプロ棋士の娘ですから、強い碁打ちとの縁を紹介するくらいはできるはずですわ!」

「囲碁部の特訓もある。すは、忙しくなるな!」


 その時、反響する二人分の足音が、競い合うように近づいてきた。見なくても足音の主が分かる。雪花と天涅だ。


「はい、あたしの方が早かった。あたしの勝ち! あたしが三番、あんたがビリね!」

「違う、わたしの方がつま先の分だけ早かった。ビリはそっち」

「ああ~ん?」

「ふん……」


 大会が終わっても、二人の調子は相変わらずだ。もうステラも、このくらいのことで慌てふためいたりはしない。彼女は胸を張って立ち上がった。


「皆さん、先日の大会、改めてお疲れさまでした。でも、うかうかしてはいられませんよ。またひと月後に、今度は関東大会があるのですから。きっと強敵たちが待ち受けています!」


 雪花と天涅は、諍いをやめてステラの言葉に耳を傾けている。鷺若丸は頬を緩めて、彼女らの様子を見守った。


「それでも、苦難を乗り越えたこのチームでなら、勝ち抜けると、わたくしは信じます。さあ、今日も囲碁を楽しみましょう!」


   ○


 時にたった一手、たった一人の存在が、大いなる運命の流れを変えてしまうことがある。


 千年を超えて放たれた奇手は、編みこまれた惨劇を解き、これをまったく新しい形に縫い直したのだ。


 ここから先は、新たな縁が、新たな未来を縫い合わせていく。あるいはそこに、〈囲碁の極〉が門を開くこともあるのだろうか。答えは誰にも分からない。だとしても、鷺若丸はひた走るだろう。迷い込んだ現代で東に西に飛び回り、数えきれないほどの縁を繋ぎ、至高の領域を目指すのだ。


 童子は泉から顔を上げると、クスクス笑って、森の奥へと姿を消していく。


 生い茂る木々の間、どこからともなく聞こえてくる涼やかな碁石の音が、反響を続けていた。


 いつまでも。いつまでも。




終局

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千年●○(モノクローム) 空一海 @shirokuro361

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