『千年の妄執』

 時をほんの少しだけ遡る。対局が終了するまで何人なんぴとたりとも退出が許されない《夢幻むげんの間》の中、正座したステラは密かにつま先の上下を入れ替えた。対局が始まって、これで何度目だろうか。隣に座る忌弧きこも落ち着かないのか、さっきから何度も扇の持ち方を変えている。


 大会の方はどうなっているだろう。鷺若丸さぎわかまる漆羽うるしば鬼神、それぞれの持ち時間を表す光の砂時計を見る限り、対局開始から二時間以上が経過している。そこから計算すると、現在時刻は十時半くらいだろうか。もう少しすると二回戦が始まる頃合いだ。三回戦の開始時刻は十三時。もう二時間半しかない。果たして間に合うのだろうか。ステラは膝の上で拳を固めた。


 結界内の空気は電気が走っているかのように肌を刺し、ともすれば意識が飛びそうなほど張り詰めている。鷺若丸と漆羽鬼神の戦いは、先刻から苛烈さを増し続けていた。


 対局は布陣を行う序盤戦から、直接的な戦闘が展開される中盤戦へ突入している。戦端を開いたのは鷺若丸だ。漆羽鬼神の作った陣形を、内側から荒らしに行ったのだ。勝負を焦っているかのような強引さだが、巧みな打ち回しで漆羽鬼神の反撃をかわしていく。


――一刻も早く、ステラ殿を解放させる。邪魔立ては無用ッ!

――なるほど、腕を上げたな、鷺若! 素晴らしい石の冴えだ! もし不甲斐ない囲碁を打つようであれば、その場で食い殺してやろうと思っていたが……、その必要はないらしい!


 漆羽鬼神も、どんどんプレッシャーを増していく。暴れ回る鷺若丸の石を、じわじわ押し潰そうとしていた。


――やはり鷺若丸。貴様はこの吾輩が力の差を見せつけ、圧倒するに相応しい碁打ちよ!


 殺しはしない。しかし自由にもさせない。辛うじて死なない程度の空間に鷺若丸を押し込め、漆羽鬼神はその外側に勢力圏を築いた。それはあらゆる戦いが漆羽鬼神にとって有利となる、漆黒のフィールドだ。そしてその漆黒領域は、別の場所にいる鷺若丸の石を射程圏内に収めていた。漆羽鬼神の目がギラリと光りを放つ。


――決めたぞ。今、決めた。この囲碁に勝った時、貴様に要求する吾輩の命令を!……貴様は吾輩のものになれ!

――……!?

――吾輩がこの対局に勝ったところで、勝敗は五百勝五百敗。貴様との力の差を示すには、勝ち星が足りぬ。全く足りぬ。貴様と吾輩はこの先、何局でも打たねばならん。十局でも百局でも千局でも! 吾輩はその全てに勝利し、貴様より上であることを証明するのだ!


 猛攻が始まった。鷺若丸の石は逃げ続けるしかない。


――もう二度と逃がしはせぬ。とりのように繋ぎ、吾輩の白星を産み落とす家畜にしてやる!


 漆羽鬼神の魔の手が、白石の喉元に迫る。鷺若丸は、それを鋭くはじき返した。


――寝言は寝て言え!


 漆羽鬼神が怯んだ一瞬で、素早く体勢を整える。


――ステラ殿の大会を。否、伊那いな高囲碁部の大会を守り抜き、彼女らの道を切り開くこと。それこそが今、なにより重要な我が使命! そなたの妄言は二の次だ!


「……」


 漆羽鬼神の手が止まる。


 盤面を見守っていたステラはおもむろに、自身の心臓が縮み上がっていくのを感じた。


 空気が変わっていく。煮えたぎるような熱が、《夢幻の間》に広がっていた。


 その中心にいるのは……、他でもない、漆羽鬼神だ。全身から闇を立ち昇らせる棘だらけの巨体は、醜悪を極める。


 彼は嗤っていた。その目に映っているのは、ここ千年で見たいくつもの情景だ。


『なにをそれほど嘆いている! なににそれほど怒っている! 猛き妖よ、鎮まり給え!』


 錫杖しゃくじょうを携えた僧侶たちが、必死に呼びかけている。これは千年前、深い絶望から怪異に堕ち、暴れまわっていた時の一場面。山に頭を打ち付け、田畑でのたうつ巨大な怪異を鎮めようと、多くの者たちが勇ましく向かってきた。彼らは幾度、撃退されようとも諦めず、最後には神の社を用意してきた。


『漆羽鬼神様、漆羽鬼神様、どうか我らを見守っていてください。かしこみかしこみ……』


 神になってからは、多くの民が神社に訪れた。土地の守り神として祀られ、多くの人々から崇められた。信仰が集まれば集まるほど、落ち着きと安らぎが手に入った。まさか元盗人の無法者が、人々を守護する存在に生まれ変わるとは。そう皮肉に思わないでもなかったが、人の暮らしに目を配る日々は、それからも長きに渡って続いていった。


『へぇ、あんたが漆羽鬼神? 噂には聞いてるわ。良ければしばらく、軒先を貸してもらえないかしら? 最近、日差しがきつくてねェ。このままじゃ雪だるまみたいに溶けちゃうよ』


 神として力をつけるにつれ、日本各地から多くの怪異が流れ着いてきた。たとえ無礼な連中でも、使えそうなものは傍にいることを許した。皆、愉快な連中ばかりだったが、特に天狗と雪女はお気に入りだった。二人は優秀で誇り高く、そして誠実だった。


「……」


 千年。その膨大な歳月の中で巡り会った、多くの顔が浮かんでは消えていく。


 神として過ごした時間は、悪くない心地だった。それは確かだ。信仰を捧げる人間たちや、慕ってくれる妖たちのお陰で、生前からは考えられないほど穏やかな歳月を過ごすことができた。


 だがしかし。それでも、その時間の中には、存在しないのだ。決着をつけるべき、あの男の姿が。


 その事実は彼の根底に、暗い影を落とし続けた。それは宿敵に勝利し、力の差を見せつけるまで決して消えることのない虚。千年を経て未だにくすぶり続ける勝利への渇望だ。


 行き場のない執念は、やがて一つの計画を生み出した。


『時間を遡り、過去に行きたい、……と? ははは、我が主よ、なにを言い出すかと思えば。それはまさしく夢物語、空中楼閣と言う他ありませんな。……。……え。まさか、本気なのですか?』


 あれは何百年前だったか。なにかのはずみで、仙足坊せんそくぼうに心の内を打ち明けた。聡明な彼が随分と困惑していたのを覚えている。


 それでも仙足坊は、具体的な道筋を用意してくれた。現実と異なる時が流れる狭界きょうかいを掌握し、時間遡行の実験を繰り返せばいい、と。


 それからは計画の準備に邁進する日々だった。道のりは、「順調」という言葉とは全く無縁のものだった。力を蓄えるどころか、信仰の減少により、存在を保つことさえ危うい有様に陥ってしまったのだ。


 それでも計画だけは手放さなかった。なんとしても鷺若丸と、もう一度相まみえるために。千年に及ぶ未練へ決着を付けるために……!


 にもかかわらず、一方の鷺若丸はどうしていただろう。この時代にやってくるなり他人の事情へ首を突っ込み、漆羽鬼神に及びもつかないような腕の女たちと戯れていた。そして今も、彼女たちのために戦っている。鷺若丸は、この対局以上に伊那高囲碁部の大会の方が大事なのだ。


 共に〈囲碁のきわみ〉への道のりを競い、決闘を繰り返したあの日々は、全て嘘だったのだろうか。体中が煮えたぎるような思いだ。


「……認めん」


 漆羽鬼神のくちばしから、小さな声がこぼれる。骨の手が盤上を這い、次の石を打ち下ろした。


 それは戦火の外にいた石への襲撃。血生臭い戦場を、更に拡大する一手だ。


――この時代に来てから、貴様は道草ばかり食っていたようだな。囲碁部とやらの指南役になり、半人半妖の頼みを聞いて命を救い、挙句その敵対者の穢れた陰陽師にまで力を貸す! なんという無軌道、なんという軽佻浮薄! 貴様の足跡には筋がない!


 次々に打ち込まれる黒石、その一つ一つに怒りがこもっている。


――大方この小娘に誑かされたのだろう! 愚かな人間めが! 断じて赦せぬ!


 巨大な鳥の目が、ステラを射る。ステラは輪郭が三重になるほど震えあがった!


 漆羽鬼神の怒りは尚も激しさを増していく。彼は遠く離れた仙足坊へと念を送った。


(予定変更だ、仙足坊。この女どもに確実な敗北を与えろ。貴様に預けた、あれを使え!)

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