『それぞれの戦い』

 境内に展開された《夢幻むげんの間》の中、漆羽うるしば鬼神の一手から対局が始まる。


 初動は互いに〈二連星にれんせい〉と呼ばれる構え。黒石と白石、鏡写しのようにまったく同じ布陣が、盤の左右で睨み合った。


 漆羽鬼神の口元がかすかに開く。この出だしは、あの頃にもよく打った。実に懐かしい布石だ。


 二人合わせて、たったの四手。盤上に置かれた、そのたった四つの石が、雄弁に声を発している。


――あれからもう千年になるのか。懐かしいものよのう、鷺若さぎわか

――随分と遅くなったが、今日こそ決着をつけてやる、九郎!


 鷺若丸と九郎。二人は宿敵同士だが、そのルビに「とも」の二音を振れるような間柄では決してなかった。


 盗賊として平気で人の命を奪おうとする九郎を、鷺若丸は許さなかったし、都の貴族として生まれておきながら、その恵まれた生い立ちを顧みず、あまつさえ行儀見習いの寺から抜け出す鷺若丸を、九郎は認められなかった。


 そこにたまたまあったのが、囲碁という決闘の手段だ。互いの棋力きりょくが拮抗していると知ってしまった時には、二人とも後戻りのできない泥沼にはまっていた。ここで大人に報告したり、暴力で事態を解決しようとしたら、勝負から逃げたことになってしまう。相手を跪かせる手段はただ一つ。囲碁で力の差を示すこと。それだけだったのだ。


 しかし千局目の決闘を前に、鷺若丸は姿を消した。漆羽鬼神の脳裏に、当時の鮮明な記憶が蘇ってくる。あの時、九郎は碁盤の前に座し、ひたすらに宿敵の到着を待ち続けた。


 最初の晩には、「奴め、腹でも下したか」と、嘲笑った。


 三度目の晩には、爪の先と一緒に苛立ちを噛み殺しながら、浴びせてやる罵倒を考え続けていた。


 しかし七度目の晩には、嫌な考えばかりが湧き上がってくるようになり……


 そして月の満ち欠けが一周した頃、空腹と頭痛に苛まれながら、悟った。鷺若丸がこの碁盤の前にやって来ることはもうないのだと。それは人生で初めて知った、底なしの絶望だった。


――もう二度と……、もう二度と貴様を屈服させることができないかと思ったわ!

――それで怪異と成り果て、人様に迷惑をかけたのか、悪人め。千年前に貴様との力の差を示すことができなかったことは、我が生涯、最大の汚点だ!

――黙れ! 千年だ、千年待ったのだ! 今日こそ貴様を圧倒し、力の差を見せつけてくれる! 行くぞ!


 漆羽鬼神の放った五手目は〈三々さんさん〉。それはあらゆる段取りを吹っ飛ばし、いきなり鷺若丸の布陣へ潜り込む、強襲の一手。超電撃的な初動策だ。


「……ッ!」


 鷺若丸の手が、初めて止まる。こんな戦法、千年前には打たれたことがない。これほどの最序盤で敵の懐に入り込むなど、あまりに過激すぎる!


 この瞬間に、はっきりした。漆羽鬼神も長い時の中で、腕を上げ続けてきたのだ。出だしこそ千年前と同じだったが、今日の囲碁はより高次元での戦いになる。確実に!


「……」


 少し間を置いてから、鷺若丸は敵の石をいなすことに決めた。ひとまず、無難な展開ワカレに持ち込む。しかし、その直後……


 彼は不敵に笑って、正反対の方向へ手を伸ばした。繰り出したのは〈〉。そう、漆羽鬼神にやられたことを、そっくりそのままやり返したのだ!


――この対局を待ちわびたのが、そなただけだと思ってくれるなよ!


   ○


 大会会場校の外、高い街路樹の上に直立する仙足坊せんそくぼうは、建物の窓をじっと見つめていた。視線は通らないものの、彼には限定的な千里眼が使える。かつて鍛えた仙術の一種だ。


 大会は早くも二回戦に突入していた。ホワイトボードには、一回戦の勝敗が記録されている。新しい巫女候補、星薪ほしまきいのりが所属する灰谷はいたに聖導せいどう女子は、白星三つで順当に勝利した。だが問題の伊那いな高も、二勝一不戦敗で最初の難関を切り抜けている。


 仙足坊にとって意外だったのは、初心者だったはずの雪花せっかが、安定した立ち上がりを見せたことだった。緊張していた相手のミスに付け込んで、堂々の打ち回しを披露してみせた。よほど勉強をしてきたに違いない。人差し指と中指を使う、碁打ち独特の石の持ち方も様になっている。


「この一か月、ただ遊んでいたわけではないようですね。大したものです。とはいえ……」


 その勢いもここまでか。現在進行中の二局目で、雪花は劣勢に立たされていた。彼女の白の大石たいせきが敵に包囲され、破滅の危機に瀕しているのだ。


 雪花は考える。何故こんな局面になってしまったのか。


 花ノ木はなのき国際高校の三将、赤い髪のクールビューティ、梅辻うめつじジュリアは一回戦の相手と違い、目立ったミスをしなかった。そのせいで雪花の方が焦ってしまい、無理に敵の領地へ踏み込み過ぎてしまったのだ。そこから地獄の逃避行が始まり、出来上がったのがこの盤面だ。


 敵の追撃は激しく、状況は混沌としている。相手のジュリアは、中級者。その実力は雪花よりもやや上だ。乱戦の中でも、雪花の首にかかった縄を着実に絞めてくる。このままでは大石たいせきが死に、雪花は敗色濃厚だ。


 石を握る手がすくむ。思わず亡き母に助けを求めた。


(お母さん……。あたし、また肝心な時になにもできない!)


 囲碁部はせっかく見つけた新しい居場所だ。そこに連れてきてくれた鷺若丸やステラのためにも、期待には応えたい。いや、応えないといけない。ここで勝たねば、顔向けできない。


 強く噛みしめた唇から、冷たい血の味がにじむ。どうにかしてこの一勝が欲しい。どこかに、勝利への道筋はないだろうか?


 その時だ。隣から、終局の挨拶が聞こえてきた。


「ありがとうございました」

「あ、ありがとうございました……」


 驚いて声の方に視線を向けると、天涅あまねがてきぱきと石を片付け始めていた。勝気そうな敵の副将、竹塔たけとうゆみが項垂れている。天涅が勝ったのだ。


 しかし天涅は自分の使った石だけ手早く片付けると、あろうことか雪花の方を一瞥もせず、その場を立ち去っていった。


 雪花の囲碁には、これっぽっちも興味がないとでもいうのだろうか。否、そんなはずはない。信じがたいことだが、天涅はああ見えて彼女なりに、囲碁部のことを考えているらしい。だが、ならばチームの行く末がかかった三将戦を無視することなんて、できるものだろうか?


 答えはノーだ。つまりこれは、天涅からのメッセージであり、挑発に違いなかった。


(わたしはこんな二回戦で転ぶことなんて、まったく考慮してない。当然のようにおまえが勝利するものと考えてる。……まさか負けたりなんてしないでしょ、ねえ?)


 対局を見届ける必要なんてない。彼女は続く灰谷・聖導との優勝争いに備え、とっとと休息をとりに行ったのだ。


「あのクソチビ五歳児が……!」


 雪花は口の中で小さく呟き、片側の頬を引きつらせる。上等だ。


(あたしは半人半妖の雪女で、謎の天才美少女、銀木しろき雪花! クソ陰陽師に好き放題されて、情けなく敗北なんてできるもんですか!)


 ルールを覚えたのはつい最近で、使える武器も多くはない。しかし鷺若丸とステラが鍛えてくれたのだ。ただの鈍ら碁打ちじゃないと、自分を信じる他はない。


 腹をくくった雪花は、素早く状況を整理する。


 この一局を勝つために必要なこと。それは、死にそうになっている自分の石を逃がし切ることだ。石のき死にを問うのなら、要領は詰碁と同じはず。詰碁なら飽きるほどやって来たのだ。自信はある。


(やってやる。やってやるわよ、ド畜生!)


 奮起した雪花はグッと前のめりになり、果ての見えない探求へと漕ぎ出した。 


(これで負けたら、向こう一年、語尾にニャン!)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る