『千年の因縁』
ステラは、自分が固い床の上に寝かされていることに気が付いた。ぼんやりとする意識を奮い立たせ、周囲を観察する。広い空間のようだが、蝋燭以外に光源がなく、うっすらと肌寒い。なにより、胸を締め付けるような異様な気配が満ちていた。
ゆっくりと振り返った先にいたのは、巨大な黒い怪物だった。どことなく鳥のようにも見えるが、無数に飛び出した
「この状況で熟睡とは。随分と寝不足のようだな、客人」
ステラは再び気絶し、数分後、復活した。
「きゃーっ! お、おば、おばばばば――」
必死に後ずさりする。
「お化けではない。神だ!」
「えっ、うあっ、あ! まさか、漆羽――、あっ!」
咄嗟に逃げ道を探る。異様に広大な空間に対して、出口と思しき扉はたった一つだけしか見つからない。あそこまで走れば出られるだろうか……。
しかしそんな考えは、しっかりと見抜かれていた。
「逃げようなどという気は、起こすだけ無駄なことだ」
漆羽鬼神が手を振ると、部屋全体がゴムのように伸びた。出口が果てしなく遠くへ離れていく。この建物は彼の領域。すべてが彼の支配下にあるのだ。
ステラは手を震わせる。自分なんか、この神の気紛れ一つで消されてしまう風の前の塵なのだと、心で理解したのだ。
彼女は素早く低頭し、袖の内側から一万円札を差し出した。
「こ、これでお家に返してください!」
「……何故、袖に金を?」
「いつ誰に怒られても許しを請えるように、です!」
ステラは逆の袖からもう一枚、万札を追加する。
「これでも足りませんか?」
それをちゃっかり懐に収めながらも、漆羽鬼神は良い返事をしなかった。
「いくら積まれても、貴様を返すことはない。貴様がここに連れてこられたのは、とある小娘の願いを叶えるためだ。今日の大会で貴様らに負けたくないのだそうだ」
ステラは困惑した。
「いったい誰がそのような?」
「どうでもよい。吾輩はその願いを叶えてやるだけだ。貴様は一日ここで過ごせ」
「そ、それじゃダメです! わたくしは大会に出たいんです!」
相手が神であることも忘れ、思わず顔を上げる。
「どうかここから帰していただけませんか?」
漆羽鬼神は喉の奥で笑った。
「ならば吾輩と一局、打て。貴様が勝てたら帰してやってもいい」
漆羽鬼神は翼の陰から、ボロボロの碁盤を押し出す。真っ二つに割れた盤を、ガムテープでぐるぐる巻きにした代物だ。ステラは顔をほころばせ、反射的に一歩踏み出す。
「……分かりました。打ちましょう」
「ただし! 貴様が負けたら、その時は吾輩が貴様を喰らう」
「やっぱりやめましょう」
ステラは慌てて身を引いた。自分より上がいくらでもいることを、彼女はよく弁えていた。
踏み込んだ足を元の場所に戻すその姿を見て、漆羽鬼神は溜め息をこぼす。
「賢明だな。そうでなくては、貴様を助けに来る者たちも、甲斐が無かろう」
「……?」
漆羽鬼神は大儀そうに立ち上がった。彼の眼窩は、戸口に向けられている。
「そうら、来たぞ。不本意だが、迎えてやろうではないか」
漆羽鬼神が手をかざすと、今度は部屋全体の奥行が急激に収縮した。目の前に近づいてきた扉が、耳障りな音で軋みながら、外側に向けて開け放たれる。
扉の向こうは、神社の境内だった。すぐ真正面に
「ステラ、無事ね!」
「は、はい、
ステラは立ち上がろうとするが、その行く手にどこからともなく風が吹き込んできた。
「想定よりも早く結界を抜けてきましたねぇ。この短時間で、腕を上げましたか?」
「……別に。強すぎる縁が、そこの鳥のところまで道案内してくれただけ」
漆羽鬼神が唸り、雪花を一瞥する。
「……ふん。銀木雪花を利用したというわけか」
「いいえ、使った縁はそっちじゃない。千年の時を超える、古い因縁の方」
「なに?」
遅れてやってきた、一匹の妖狐と一人の若者が鳥居をくぐる。狐姿の
「よう、久しいな。この
「貴様……貴様は!」
漆羽鬼神の様子が一変する。戸口の枠が壊れるのも構わず、身を乗り出した。震える五本の指先が、宙を彷徨う。やがて嘴から放たれたのは、怒号だった。
「鷺若ぁあああ!」
神の圧力が社を軋ませ、木々を仰け反らせる。しかし鷺若丸は、びくともしない。両の足を石畳に踏ん張り、顔面の御札をはがしながら叫び返す。
「九郎ぉおおお!」
いつもの穏やかな表情は鳴りを潜めていた。ありったけの闘争心がみなぎっている。鷺若丸が今まで一度も見せたことのない姿に、ステラや雪花はもちろん、天涅でさえ虚を突かれた。
彼女らだけではない。仙足坊もまた、異様に昂る主に困惑を隠せないでいた。
「我が主よ、これはいったい……。彼は何者なのです? 何故、貴方の人間時代の名を?」
その問いに答えたのは、天涅だ。
「彼は鷺若丸。
「千年前……。碁打ち……。まさか!」
仙足坊はハッとなる。漆羽鬼神から聞かされていた、ある碁打ちの話を思い出したのだ。
そして雪花もまた、鷺若丸のしてくれた話を思い出し、息を呑む。
「つまりこの少年が、我が主の宿敵!?」
「漆羽様が、鷺若丸の宿敵!?」
そう、鷺若丸と漆羽鬼神。この一人と一柱こそ、互いに互いを意識して止まない、因縁の男たちだったのだ。仙足坊は混乱を顕わにする。
「しかし我が主。確かその者は、常によだれを垂らしながら下卑た笑いを浮かべる、だらしなく太った、なんかムカつく小男……とおっしゃってませんでしたか?」
鷺若丸が青筋を浮かべた。
「盛ったな! 九郎ォ!」
「五月蠅い、五月蠅い! 吾輩の宿敵でありながら、凡庸でいまいちパッとしない貴様が悪い!」
「な、なにを! 莫~迦! 九郎の莫~迦!」
「莫迦って言う方が莫ー迦! そもそも吾輩はもう、九郎などという名ではない! 千局目の戦いを前に阿呆の宿敵にバックレられ……、その怒りで怪異に成り果て、ついには神にまで至ったモノ。漆羽鬼神よ!」
漆羽鬼神が本殿から這い出した。鷺若丸はそれを真っ向から見上げ、啖呵を切る。
「おまえの名など、ど~~~うでもいい。ステラ殿を返せ。今、すぐに!」
漆羽鬼神は邪悪な闇を立ち昇らせながら、巨大化していく。
「千年ぶりに会って、この吾輩に向けて言うことがソレか? 違うであろう!」
誰も立ち入ることのできない静寂が、境内に立ち込める。そこでぶつかり合った闘志が、一人と一柱の意見を無言のままに一致させた。鷺若丸は視線を外さず、仲間の方に指を伸ばす。
「天涅殿、雪花殿。先に会場へ。ステラ殿は我が、囲碁で取り返す」
漆羽鬼神も仙足坊の方に爪を向ける。
「仙足坊。彼女らを送り届けよ。ここに邪魔ものは必要ない」
「しかし我が主……」
「同じことを二度、言わせるなよ。ここに、邪魔ものは、必要ない!」
鷺若丸も漆羽鬼神も、ここが千局目の決戦の場となることを望んでいるのだ。
雪花は唇を噛んだ。崇拝する神と、囲碁部の仲間が今、真っ向から激突しようとしている。彼らに一言、なにかを言いたい。だが自分なんかが、この因縁に口をはさめるのだろうか。
足踏みする彼女と対照的に、天涅はすぐさま踵を返した。雪花は驚く。
「ちょっと、いいの?」
「大会と、漆羽鬼神への対処。両方取るには、これしかない。立会人は忌弧に任せる」
人の姿に戻った忌弧は、「仕方あるまい」と、これを承諾する。もはや鷺若丸と漆羽鬼神の戦いに、水をさせるものはいないのだ。仙足坊でさえ、主の指示に従うしかない。
社からステラが声を上げ、天涅と雪花に呼び掛けた。
「こんなことになってしまって申し訳ありません。こちらは鷺若丸さまが、助けてくれるはずですから。それまで、そちらをお願いします!」
それから彼女は一人一人の目を見る。
「銀木さま、緊張しすぎないで!」
「わ、分かってるわよ!」
「
「……ええ」
「お二方なら大丈夫です。どうか、このひと月の特訓を信じてください!」
それぞれに頷き返した二人は、そのまま仙足坊の風に運ばれ、飛び立っていった。
「さて……、鷺若よ。当然、準備はできているな?」
「ああ、九郎。……囲碁をやるぞ!」
境内の中心に立つ鷺若丸と漆羽鬼神の脇で、忌弧が指先に挟んだ御札を掲げた。
「万物は
光の線はいつもより大きく、決戦の対局場を編み上げる。忌弧はステラが結界の外に出ないよう、尻尾を伸ばして引き寄せた。鷺若丸が口を開く。
「前回の九百九十九局目は我の黒番だったな。今回は、先番を譲ろう。コミはどうする?」
囲碁は、後手番よりも先手番の方が有利とされるゲームだが、その格差を埋めるため、後手側に若干のリードを持たせるルールがある。それがコミだ。千年前には存在しなかった。
漆羽鬼神は即答する。
「六
この闘いを、早碁であっという間に消費してしまうのは、あまりにも無粋だ。
「分かった。決勝が始まるまでの時間を分けよう」
漆羽鬼神が首肯するのを確認し、忌弧が碁盤に手を向けた。
「では、持ち時間は一人二時間半を使い切り、コミは六
「お願いします」
「お願いします」
一人と一柱が頭を下げ、激闘の幕が切って落とされた。
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