『運命のカミサマ』

 青々と輝く月の下、ひときわ暖かな光を灯している街がある。巨大な商業施設や、高層建築から距離を置く、高級住宅街だ。ステラの自宅はその一角にあった。緩やかな曲線を多用したガラス張りの近代建築は、広い庭に囲まれて美しい品格を放っている。


 その二階にある窓が音もなく開かれ、ナイトキャップの先端がのぞいた。周囲を警戒しながら顔を出したのは、パジャマ姿のステラだ。人影がないことを確認すると、バルコニーからロープを垂らす。すぐに階下の何者かが、それを掴んで登ってきた。


「ただいま戻った!」


 バルコニーに顔をのぞかせたのは鷺若丸さぎわかまるだった。息を荒げる彼に、ステラは手を差し出す。


「おかえりなさいませ、鷺若丸さま」


 鷺若丸は平安の世から、千年の時を超えてやってきた。もちろんこの時代に雨風をしのぐための家はない。そんな彼を、ステラは家の自室に匿っていた。親や使用人には内緒で、だ。


 鷺若丸が平安から来た少年だと説明しても、大人たちはまず信じてくれないだろう。ステラの母親は、世界を股にかける資産家だ。そしてステラは、その莫大な財産を一身に浴びながら、蝶よ花よと育てられたお嬢様なのだ。素性も得体も知れない若者を家に泊めたいと言い出したら、母も使用人も、全力で二人を引き離そうとするだろう。だから鷺若丸の存在は、周囲に知られるわけにはいかない。当然、登下校や夕食などのタイミングは別行動。辺りが静かになった頃を見計らい、鷺若丸を誘い込んでいる。


「今日はお父様もお母様も、家を離れておりますわ。その分、使用人の方々がこちらを気にしているかもしれません。くれぐれも音には気を付けてくださいまし」

「承知!」


 鷺若丸は手早くロープを手繰り寄せる。そんな彼に、ステラは声をかける。


「ディナーはちゃんと済ませましたか?」

「うむ。今日は肉の乗りし米を食べてきた。ゆゆしきことぞ、肉がいと柔らかきなり! 米も温かく、肉との調和が、なんかこう……、良し! 忙しそうにしていたため奉公人には聞けずじまいだったが、さぞ名のある方の店なのだろうな」


 はしゃぐ鷺若丸とは対照的に、ステラの表情は複雑だ。


「それは、えっと……庶民向けのファーストフードチェーン店ですわ」

「ふぁぁすとふぅ……よく分からぬが、海の向こうの料理人かしわべなのだな」


 ちなみに、ステラの今晩のディナーは、サイコロステーキだった。海外の三ツ星レストランで修業した経歴を持つ使用人が、腕によりをかけて用意したものだ。デザートには、アイスクリームもついていた。とても美味しかったので、二度のおかわりもしてしまった。罪悪感で思わず小さくなってしまう。


「そ、その、……鷺若丸さまにはご不便をおかけして、申し訳がありません」


 しかし消え入りそうな謝罪を、鷺若丸は笑い飛ばした。


「なにを言う。食べ物の金を出して、服をあつらえ、さらにはこうして雨風をしのげるよう、屋敷にまで泊めてくれているのだ。文句などあるまい!」

「ですが鷺若丸さまに、こうして指名手配犯のような振る舞いをさせてしまっているのが、どうしても気になって。本当なら堂々と家に迎え入れて、おもてなしするべきところなのです」

「そうか? 我は気に入っているぞ。部屋は暖かし、清げに居心地よし。それに……」

「それに?」

「碁盤と碁石がある」


   ○


 間接照明が照らしだす薄暗い部屋の中、時計の針が十二時を指し示す。そろそろ眠りについてもいい時間だ。しかし二人はまだ、碁盤を挟んで対峙していた。


 洋風の部屋の中、小卓の上に置かれた碁盤は、ステラが物心ついた時から部屋にあるものだ。これまでは主に自主練に使われてきたが、最近はもっぱら鷺若丸との主戦場になっている。そう、二人は囲碁部の活動では飽き足らず、毎晩のようにこの盤上で激闘を繰り広げているのだ。


 この日も、「寝る前に一局だけ」の一言から、戦いの火ぶたが切って落とされた。


 座り心地のいいゆったりとした椅子に胡坐をかき、鷺若丸は笑顔で必殺の一手を放つ。えげつない攻撃が、ステラの陣形をあっという間に瓦解させた。今日何度目かの手痛い敗北を喫したステラは、涙目になって悶絶する。声を押し殺して、鷺若丸に詰め寄った。


「こ、こんなヘチョヘチョの囲碁で終わるわけには! もう一局! もう一局、お願いします! 次こそ最後ですわ」

「ふっ、何局でも!」


 泣きの一回は、既に三回に及んでいた。二人は飽きる様子もなく、再び次の戦いに身を投じる。


 ステラは果敢に攻めかかるが、やはり鷺若丸の方が一枚も二枚も上手だ。常に彼女の想定を超える応手を用意していて、鮮やかに立ち回り続けている。ステラも部分的には戦果を上げるのだが、不思議と形勢は鷺若丸に傾いていく。鷺若丸がステラを真っ向から受け止め、その上で悠然と先を行っているのだ。


 勝負が半ばまで進んだところで、ふいにステラが呟いた。


「鷺若丸さまには、いくら感謝しても、し足りませんね。あなたさまのおかげで、団体戦のチームを組むことが出来ました」

「構わぬ。我はただ、ステラ殿への恩を返しただけ。我の方こそ楽しんでいたほどだ。ああ、本当に楽しかった」


 ふいに鷺若丸の手が止まった。長考するような盤面ではない。ステラが不審に思って顔を上げると、彼は握った石をじっと見つめているところだった。


「だが、このようなことばかりしているようでは、あいつに怒られるな……」

「……? えっと? それはもしかして、千年前に残してきた宿敵さま、でしょうか?」


 鷺若丸は首肯する。


「奴と決着をつけるため、千年前に戻る方法を一番に探すべきなのに、我はつい、目の前のことに首を突き入れてしまう。先日も、千年前に戻ることを後回しに……」


 結果的に土御門つちみかどの協力を確約してもらえたとは言え、時間遡行の研究が鷺若丸の生きている間に終わる保証はない。天涅あまねの口ぶりを思えば、むしろ全て失敗に終わる結末の方が現実的なのだろう。それを思うと、囲碁部を見守り、現代で囲碁を楽しんでいる一瞬一瞬に、不安が湧いてくる。こんなことをしていていいのか。そんな場合じゃないだろう、と心が騒ぐ。


 窓の外では、大きな月が雲に隠れようとしていた。


「やはり、どうしても千年前に戻りたいのですか?」


 ステラが不安げに聞くと、鷺若丸は静かに答えた。


「我が〈囲碁のきわみ〉に辿り着くためには、奴と決着を付けねばならぬ。のような気がするのだ」


 根拠はない。しかし奇妙な確信があった。


「奴とは、もう一度会う必要がある。絶対に。だが……やはり時を戻すことはいと難しきことらしい。当分、帰ることはできぬであろうな……」

「やったぁ!」

「やった?」


 鷺若丸が顔を上げる。ステラは握った拳を慌てて体の後ろに隠した。


「や、やってないですわ!」

「……」

「……」


 しばしの沈黙の後、ステラは観念して頭を垂れた。


「も、もも、申し訳ありません。つい咄嗟に喜んでしまいましたぁ……!」


 自分が生まれ育った時代を離れ、右も左も分からない未知の時代に取り残されることが、いったいどれだけ心細いか……、ステラにだって想像くらいできる。それでも鷺若丸がまだこの時代にいてくれると分かって、最初に浮かんだ感情は喜びだった。


「わ、わたくしにとって鷺若丸さまは、それだけ大きな存在なんです」

「我が?」


 なんとかして自分の気持ちを説明しようと、ステラは必死で言葉を探す。


「えっと、わたくしが何故、囲碁の団体戦に出たいと思うようになったのか、お話したことはありましたでしょうか?」

「仲間と一緒に戦うと、囲碁がより楽しくなるから……、であったか?」

「……昔はわたくし、団体戦なんかに興味はなかったんです。それどころか囲碁そのものから離れていて、囲碁部にも入ってなくて」

「え……?」


 鷺若丸は驚く。これだけ囲碁を愛している彼女が、囲碁に触れずに過ごしている姿など、まったく想像できなかった。


「去年の部長さまに声をかけられなければ、今もずっと無縁のままだったかもしれません。男子団体戦のチームを鍛えてくれ、と頼まれたんです」


 ステラの棋力きりょくは、アマチュアとしては最高レベルだ。男子のチームには加われないが、指南役としての適性は相当に高い。それを見込まれたのだ。


「最初は渋々でした。けど、チームの皆さまがあまりに楽しそうだったから、次第に羨ましくなってしまって。だから、彼らが卒業した後も、一人で囲碁部に残りました。わたくしも、あんなふうに仲間を作って、大会に出たいって、憧れて……」

「……」

「でもわたくし、自分ではちっとも局面を変えられませんでした。上手に人を誘うこともできなくて、一人も部員を増やせずじまい……。そんな時に現れてくれたのが鷺若丸さまなんです! そしてその鷺若丸さまが、囲碁を通して、銀木しろきさまや土御門さまを連れてきてくれた」


 ステラは身を乗り出して、まくし立てる。


「鷺若丸さまがいなかったら、わたくしたちがどうなっていたか、考えたことはありますか? 銀木さまはきっと、土御門さまの不思議な囲碁の術で殺されていた。土御門さまは今も仕事一辺倒で、囲碁そのものには興味がなくて。わたくしは碁盤の前に、ひとりぼっち」


 鷺若丸というたった一人の人間が、バラバラだった三人の運命を捻じ曲げ、一つのチームに繋いだのだ。


「わたくし、鷺若丸さまがこの時代に来たのは、まるで……、まるで運命のカミサマが、局面を変えるために打った一手みたいだ、って思うんです」

「運命のカミサマ……?」


 それは少し奇妙な考え方に聞こえた。だが、ストンと腑に落ちるような感覚がある。


「そのカミサマは、我を宿敵と引き裂いてまで、いったいなにをさせたいのだ?」

「決まってます!」


 ステラは少し得意げな顔で、堂々と断言した。


「わたくしたちの縁を繋げるためですわ」

「……縁」


 鷺若丸は考える。ステラの言う通り、鷺若丸がこの時代にやってきたことには、きっとなにか意味がある。ここで為さねばならないことがあるのだ。それが縁を繋ぐことだというのなら、今やっていることもきっと無駄などではないはずだ。


 それに、たとえ千年前に戻れないとしても、自分から囲碁が無くなるわけじゃない。


「……ふっ」


 どんな時でも冷えた頭で盤面を見渡し、それが思った通りの形勢でなくともじっと耐え忍び、勝利への道筋を探し続ける。それが強い碁打ちの在り方だ。


「さても、さても。対局中に弱音など、我らしからぬ無礼であったな」


 鷺若丸は苦笑し、碁笥ごけの石を拾い上げ、盤に放つ。ステラの急所を絶妙にえぐる妙手だ。その一手は暗がりの中でも、まるで月のように光輝いていた。


「ああっ!」


 悲鳴を上げる彼女に、鷺若丸はお構いなしで笑いかけた。


「ステラ殿。ひと月後の大会、必ず勝ち抜こう! 雪花せっか殿と天涅あまね殿を全力で磨く!」


 残された期間で一でも、一もくでも彼女たちを強くする。それが鷺若丸の今やるべきことだ。


「は、はい! わたくしも、頑張ります!」


 ステラは苦しい盤面にあえぎながらも、踊り出したい心地に膝を揺すった。


 鷺若丸のお陰でまとまった囲碁部だ。彼がいてくれれば、チームはこの先もどんどん成長していくだろう。もしかしたら、県予選の優勝……いや、それどころか全国大会への出場だって狙えるほどに。


(それに……)


 それにもう一つ。楽しみなことが他にもある。それは鷺若丸の変化だ。


 世界でステラだけが知っている。この時代に来た当初、彼の囲碁は少しピリピリと張り詰めていた。それが最近では、石から余裕を感じられるようになってきていた。決して切れ味が鈍ったわけではない。戦略の幅が広がり、懐が深くなったとでも言おうか。


 この先も、彼の囲碁は変遷していくのだろう。ステラはそれを、まだまだ見守ることができるのだ。彼女にとっては、たまらない喜びだった。なにせ初めて会ったあの日から、彼女は鷺若丸の囲碁の熱烈なファンなのだ。

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