『詰碁騒動Ⅰ』
その日の活動は、ステラの提案から始まった。
「
数学棟の廊下端で、ステラは九路盤を用意する。これは言うなれば、初心者向けの小さな碁盤だ。そこへ複雑に石を並べていく。囲碁の問題――すなわち詰碁だ。
詰碁は囲碁の上達に欠かせない、実践的な練習法だ。頭の中だけで先の展開を予測し、最適解を探し出す、「読み」の訓練になるからだ。
ステラはまず、ごくごく初歩的な問題を用意した。一手示すだけで正解になるため、難易度はもっとも低い。基本ルールが頭に入っているか、確認するのが目的だ。
雪花は一度、人差し指と中指で石を持とうとして失敗し、大人しく親指と人差し指で石をつまみ上げた。それを、ぎこちなく盤に置く。着手を見届けたステラが、上ずった声で褒めた。
「流石です、銀木さま!」
すかさず
「いよっ、ナゾノビショージョ!」
雪花は眉根を寄せて、二人を睨んだ。
「いや、これくらい当然でしょ。あたしのやる気を出させたいんだろうけど、無理に褒めなくていいから。そういうの逆にムカつくし」
「うっ!……も、申し訳ありません」
「あなや。……お見通しか」
二人はがっくりと肩を落とす。楽しく囲碁にハマってもらうため、褒め殺しの方針で行こうと打ち合わせをしていたのだが、裏目に出てしまった。
若干、挙動不審になりながらも、ステラは次の問題を準備する。今度は少しだけ難易度を上げる。相手の反撃も読まないといけない。
雪花はこれにも正解を示した。
「流石で――はっ! えっと、いえ、なんでもございません……」
「いよっ――あっ、うむ、失礼した」
「……はぁ」
危うく賞賛を口走りかけた二人が、慌てて目を伏せる。余計なことを言って機嫌を損ねられたら、困ってしまう。そんな二人の態度に居心地の悪さを感じながらも、雪花はその先も問題を的確に解き続けた。
初めのうちは鷺若丸もステラも、さして気にしていなかった。しかし徐々に問題の難易度が上がるにつれ、二人の経験者の目つきが変わり始めた。
十問目の出題。敵の石を殺す問題だ。唯一の正解ルートは、「捨て石」を駆使することで開かれる。一見、自滅としか思えない手を敢えて打つ必要があるのだ。理論上、基本的なルールを応用すれば辿り着ける答えだが、ハードルは高い。本来なら、つい昨日ルールを覚えたばかりの初心者に出すような問題ではない。さすがに雪花の手も凍りついた。
しかし、考え続けること数分。やがて彼女は、
鷺若丸やステラのようなきれいな打ち方はできない。カッコいい音も出ない。しかしその手は、鷺若丸とステラを戦慄させるに足る一手だった。またしても正解だ。
もうステラは我慢できなかった。
「流石ですわ、銀木さま!」
「だからさ、お世辞とかそう言うのは……」
「お世辞なんかではありません!」
ステラは拳を握って熱弁する。
「今の銀木さまは教えたばかりのルールを、完璧に理解されています。その上、吸収した知識から推論を発展させ、まだ教えてもいない実践的な技術に辿り着きました!」
正確な理解力と、非凡な応用力。雪花はその二つの能力を備えていたのだ。
「こんなにすごい初心者、滅多にいませんわ!」
「あたしが、すごいですって……? あんたねぇ……」
褒めそやされた雪花は腕を組んで、ため息を吐き……、それから大いに胸を張った。
「当然でしょ~! あたしにかかればこんなもんよ! だってあたしはすごいから!」
頬は高揚し、鼻息も荒い。雪花は煽てられるのは嫌いだが、褒められること自体は大好きなのだ。それはもう、すっかり有頂天だった。
「よーし、どんな問題もじゃんじゃんかかってきなさい! 片っ端から解いてやるわ!」
賑わいをみせるその空間に客人が現れたのは、ちょうどその時だった。彼女は咳払いで注目を集めてから、声をかけてきた。
「思ったより調子に乗るタイプね。そんなに鼻を高くして、雪女から天狗に転向するつもり?」
「出たわね。なにしに来たのよ」
「ひとまず平安の君に用がある」
「こいつらに話があるなら、まずあたしを通しなさい。殺すわよ」
「何故? 保護者にでもなったつもり?」
二人の睨み合いによって、剣呑な空気が広がり始めた。緊張感に耐え兼ねて、ステラはあわあわと泡を吹き始める。この二人が同じ部に所属し、同じチームのメンバーとして肩を並べる光景が、とても想像できない。そんなことが果たして可能なのだろうか?
言い出しっぺの鷺若丸を振り返ると、彼は一歩下がったところから二人をじっと分析していた。
彼の目から見ても、雪女と陰陽師の相性の悪さは相当なものだった。以前ステラが教えてくれた「水と油」という表現さえ、物足りないと感じる。
とはいえ、天涅は諦めるには惜しい人材だ。片眼鏡がない状態ではステラに一方的な試合展開を押し付けられていたが、それでもアマチュア中段――いや、ひょっとするとアマチュア高段が相手でも通用する程度の力量はある。十分、即戦力だ。なんとしても引き入れて、この三人でチームにしたい。
「そのためにはまづ、この二人の反発をいかでかすべし、か……」
そこで鷺若丸は睨み合う二人の間に割って入り、突拍子もない提案をした。
「二人とも。詰碁勝負をやれ」
「はあ?」
「はい?」
「二人同時に、詰碁を解く。そして先に三つ解答した方を、勝者とす。否や?」
雪花が慌てた。
「ちょっと待ってよ。そんなの、初心者のあたしが絶対に不利じゃん!」
「問題はステラ殿がそれぞれの
これにはステラが目を丸くした。
「へげっ。わ、わたくしがですか?」
天涅と対局したことがあって、雪花を指導中の彼女なら、両者のレベルを把握できている。出題者として、言うことなしだ。
「なるほど、それなら一応は平等、ね」
雪花はひとまず納得する。一方の天涅は、あまり乗り気ではない様子だ。
「興味ない。勝負に乗る理由がない」
すると、雪花がニヤニヤ笑いながら言った。
「へぇ。土御門の陰陽師は、あたしに負けるのが怖くて、逃げるんだ? いつも偉そうなこと言ってるけど、威勢がいいのは口だけってわけね」
「……。わたしは感情無き対怪異装置。見え透いた挑発は、まったく無意味な行為だ。おまえなんて全然、怖くない。全然、腹も立ってない。しかし……」
天涅は既に席へ着いていた。
「ここで引いては土御門の名に泥が付く。相手してやる」
心なしか、眉毛の角度がいつもよりきつい。彼女は雪花を睨みつけて言い放った。
「まず、負けた方に背負わせるペナルティを決めましょう」
「は? ペ、ペナルティ?」
突然の提案に、雪花が怯む。すかさず天涅は追撃した。
「まさかとは思うけど、怖いの?」
意趣返しの挑発は、効果てきめんだった。雪花は目を三角にして吠えた。
「ほぉー、言ったわね。いいわ、望むところよ。吐いたツバ飲むなよ、土御門ォ!」
早速、司会進行を求めて、二人の視線がステラに集まる。
ステラはガクガクと震えながら、手を振った。
「ぶ、ぶぶ、物騒なのはやめにしませんか? あまりやりすぎると、先生たちにバレて、問題になるかも。最悪、部活動の停止とかだって……」
しかし既に火のついてしまった二人は、強情だ。
「そこの半妖に、身の程をわきまえさせるだけの罰が必要」
「そこの奢り昂ったファッキン陰陽師に、屈辱を与えないと気が済まない!」
ステラは押し切られる形で、ペナルティを提案するしかなくなった。
「で、では……三問先取されたら、なにか恥ずかしい秘密などを暴露する、というのはいかがでしょう? ほら、実はおしりにホクロがあるとか、実は留年しそうになって先生に泣きついた、とか……。あっ、い、今のは別に、わたくしの話というわけではありませんからね? 嘘じゃないですからね? ね!?」
自爆したステラが赤面する。しかし彼女の提案自体は悪くない。定番の罰ゲームだ。それでも二人の怒りに応えるには、やや力不足だった。
「甘い、甘いと言う他ない」
「そうよ、温すぎるわ! もっとエグいやつを!」
ステラは頭を抱えた。
「それ、それなら、ええっと……、先ほどの罰ゲームに加えて、今日一日、語尾をピョンにして過ごす、というところでいかがでしょう……」
辱めを与えるには十分な罰とみて、犬猿の二人は無言の承諾を交わした。まつげがくっつくほどの距離でメンチを切り合う。
「この世に生まれたことを後悔しろ、半妖め」
「ほざきなさいよ、クソチビが。地獄見せてやるわ」
可哀想なステラは、すがるように鷺若丸に尋ねる。
「大丈夫なのでしょうか? 本当に大丈夫なのでしょうか!?」
「……い、祈ろう」
仕掛け人の癖に頼りない彼の返事は、ステラをさらに深い不安の谷底へと突き落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます