肆:蒼銀
『登校中の一幕』
朝食の準備をする前に、神棚に向かって手を合わせる。
放置された神社に入り浸り、かれこれ五年。雪花は境内の掃除や社の修理など、神職の真似事を続けてきた。誰に頼まれたわけでもない。漆羽鬼神への心酔がそうさせた。漆羽鬼神が御神札に力を籠めてくれたのは、その強い忠誠を労ってのことだ。雪花にとっては、自分の働きが認められた証に他ならない。だからそれに手を合わせると、自信と勇気が湧いてくる。
しかしここ一週間は、様子が違っていた。神棚に向かう彼女の表情は、いつも浮かばない。それもそのはず、彼女は漆羽鬼神に追放されたあの日から、一度も山に入れていないのだ。
(漆羽様のお考えは分からない。それでも、あたしは諦めない……)
「よし!」
フルーツ・グラノーラで簡素な朝食を採り、身支度を済ませて家を出るのが八時過ぎ。二本の足で田んぼに囲まれた道をガシガシ歩き、二十分ほどかけて学校に向かう。気持ちのいい時間だ。都会とは違って、空気が透明感を帯びている。
彼女が進学先に
勉強は楽しかった。学べば学ぶだけ、成績に結び付く。人生と違って、理不尽がないと思った。合格通知をもらった時は、順当な結果だとすまし顔をしながらも、内心では大喜びしたものだ。
そうまでして入った学校だが、入学早々、雪花は無断欠席の常習犯になっていた。それまでほとんど眠りについていた漆羽鬼神がいきなり活動的になり、おまけに「大いなる計画」とやらに取り掛かり始めたからだ。
雪花は計画の詳細を聞かされなかったが、それでも彼の力になりたいと考えた。漆羽鬼神が贄を欲していると知れば、獲物になりそうな大物の怪異を探して回り、
精力的な活動は、人としての生活にしわ寄せをもたらした。だが雪花は気にしなかった。このまま学校を中退してもいいという覚悟だったし、なんだったらこの機に人としての生活も捨ててしまおうか、とさえ考えていたのだ。
「それがまさか、囲碁部なんてところに引きずりこまれるとはね」
思わず独り言がこぼれてしまう。人生とは本当に、なにがどう転ぶか分からないものだ。
「……今日も囲碁部があるんだっけ」
暖かさと冷たさが入り混じる空気を鼻腔に溜め、視線を上に向ける。空は青いが、少し雲が目立つ。夕方頃から、雨が降るらしい。鞄に常備している折り畳み傘の出番かもしれない。
囲碁部の活動は、正直ちょっと面倒だ。だけど部員たちのことは嫌いじゃない。
ステラの方も悪い人間じゃない。やはり世間ずれしているところはあるものの、なんだか一生懸命だし、応援したくなるタイプだ。
(ただ、二人とも……どーにも危なっかしいのよね)
囲碁は強いのだろうが、他のことはてんで駄目。なにより、平和ボケしきっているのが心配だ。誰かが見守っていないと、妙なところで惨事に巻き込まれそうで気が気じゃない。雪花としてはこの際、自分がその「誰か」になることも、やぶさかではなかった。
(あの部に気に入らない点があるとしたら、一つだけ……)
そう、土御門だ。あの女が三人目のチームメンバーとして加わってくるなんて、最悪中の最悪だ。同じ息を吸うことさえ不愉快だ。
幸いなのは、
(それでも万が一、あの女が部に入ってくるつもりなら……)
雪花は無意識に指を曲げ、その手の中に強い冷気を集める。
(その時は、実力行使しかないかもしれない)
正直、勝算は微妙なところだ。奇襲前提で、
雪花は、深刻な顔つきで、大きな交差点の赤信号を睨みつける。その隣に、後ろからやって来た自転車が停まった。
何気なく視線を向けた雪花は、思わず「げっ!」と声を上げた。土御門天涅が無言で視線を向けていたからだ。大慌てで身構える。
「な、なによ、クソ陰陽師? 言いたいことがあるなら、言いなさいよ」
天涅は少し間を開けて、こう切り出した。
「実は囲碁部に勧誘されている件だけど……、前向きに検討してる」
「はあっ!? な、なによそれ!」
度肝を抜かれた。「万が一」があまりに早すぎる! 雪花は、音を立てて崩れていく希望的観測にすがりつき、とにかく難癖を投げつけた。
「そもそもあんた、本当にうちの学生なの? なんで陰陽師が学業してんのよ!」
「少し前から
「その星って、鷺若丸? あいつが来たのって、最近なんでしょ? あんた入試はどうしたの?」
「受けてない。忌弧が手を回した」
「不正入学じゃない!」
雪花はひとしきり怒った後で、気付く。
「まさか、あんたが今も学校に残ってるのは、鷺若丸が目的? あいつをどうするつもりよ」
「……おまえと関係ある? 他人でしょ?」
「た、他人じゃないわよ。一応はあたしの命の恩人だし、気にして当然でしょ! 仁義よ、仁義。とにかく、あんたが囲碁部に来るなんて絶対に許さないから。覚えときなさいよ!」
「やはりそうなるか……。となると……」
「となると、なんなのよ?」
「気になる?」
もちろん気になる。しかし天涅は問いに応えず、自転車を発進させた。いつの間にか信号が青に変わっていた。
「あ! このアマ! 言えー! となると、なんなのよ! クソがーッ!」
天涅の背中はみるみる小さくなり、すぐに罵声も届かなくなってしまった。
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