『陣保山の結界』
橙色に燃える空を背に、彼女は一律の歩調で山を登る。アスファルトで舗装された道は、別の山の採石場に続いているが、時間が時間ということもあって、車の通りは皆無だ。もちろん、他の歩行者などいるはずもない。
一帯の雑木林にはほとんど人の手が入っておらず、原生林の様相を呈していた。路傍の標識も茶色の錆に侵食され、頼りない。
天涅は懐中電灯代わりの光る
「……先刻の調査では、半妖の鞄の中に【
天涅は口に出して現状を確認する。
「もちろん昨日の家探しでも、【黄金棋眼鏡】は見つかっていない。既に手放したという彼女の発言には、ある程度の信憑性があると判断できる。なら、考えられる片眼鏡の行く先は……」
ボストンバッグのぬいぐるみから、妖しい煙が湧きだした。姿を現わした
「片眼鏡の行く先は、
「わたしたちは、その神から【黄金棋眼鏡】を奪い返さなければいけない」
ここは標高五百メートルを超える
「問題は、どうやって品を回収するか……じゃのう」
少なくとも、取引は成立しないだろう。片眼鏡は天涅たちにとって、漆羽鬼神と戦うための強力な武器だ。それを当の漆羽鬼神が、むざむざ返却するとも思えない。騙し討ちや、力づくが通じる相手ならまだいいのだが……
天涅は静かに目を細める。
「でも……、もしかしたらそれ以前に、どうやって辿り着くか、の方が問題かも」
「……ふむぅ。天涅や。山を登り始めて、どれほどになる?」
かれこれ数十分以上も登山を続けている。しかし一向に神社が見えてこない。
天涅は歩調を緩めず、周囲を見回した。ガードレールの奥に、白い車の残骸が転がっている。さっきも同じ物を見たばかりだ。
「同じ場所をぐるぐる回ってるみたい」
標識を横目に、忌弧が唸る。進入禁止の標識が不自然に多く立っている。
「漆羽鬼神め、山を閉じよったな。空間が歪んでおる」
「これじゃ千年この道を進んだところで、どこにもたどり着けない」
「まったく! 千年どころか一時間歩くだけでも、太ももがパッツパツになるというのに!」
「……あなた元妖怪の式神じゃない。筋肉痛とかあるの?」
「ある。……運動の三日後にくる」
再び白い車が出現した。ループする度にいろいろな呪符を試しているが、どれも効果は無さそうだ。山全体が、漆羽鬼神の関係者以外を拒む空間になっている。ある種の結界だ。
しかし陰陽師にとって、結界技術は専門分野の一つ。攻略法については知見があった。
考えられる手段は、大まかに三つ。
一番分かりやすいのが、「結界自体を解体する方法」だ。破壊は難しいとしても、電気柵から電気を取り除くように、結界を形成する力さえ散らしてしまえば、付け入る隙も生まれてくる。さっきからあれこれ試しているのは、この方法だ。しかし現状、目立った成果はない。
続いて検討できるのは、「主自ら結界を台無しにしてもらう方法」だ。正体を偽ることで結界の中まで招いてもらったり、逆に関心を惹きつけて結界の外へ誘い出したり。このようなだまし討ちは神話の時代にもいくつか成功例が残されている。……とはいえ、あまり現実的なやり口ではない。
と言うわけで、最有力候補は自然と三つ目の攻略法になるのだが、これにもネックはある。準備と計画が必要不可欠で、どうしても時間がかかるのだ。
「……!」
どうしたものかと思案していたその時、天涅たちの前に突然、強い風が吹き込んできた。道の正面に、天狗面の筋肉男が舞い降りてきたのだ。天涅の目が細くなる。
「……おまえ、漆羽鬼神の手下ね?」
「いかにも。拙僧は漆羽様の右腕を務める、
仙足坊は慇懃な態度で一礼してみせる。
「貴女のことはもちろん存じておりますよ。土御門の当代にして、穢れの象徴たる紛い物。こうして直接お目にかかると、ますますおぞましい存在ですね」
嫌味を隠しもしない、攻撃的な姿勢だ。青筋を浮かべた忌弧が、天涅に代わって進み出た。
「わざわざご挨拶に出向いてくれるとは、痛みいるのう。ついでに、このせせこましい結界を解いて顔を見せるよう、おぬしの主にも伝えてもらえんかのう?」
「伝えるのは結構ですが、主が貴女方と会うことはないでしょう」
「ククク、おぬしは風を操れるようじゃが、主の臆病風は取り去ってやれん、と?」
「取り去るどころか、むしろ少しは臆病風に吹かれてほしい、と思っているくらいですよ」
仙足坊は忌弧の挑発を受けても、まるで動じない。
「我が主は常に空中楼閣を求めて止まないお方。そこに至る道がどれほど危険か忠告しても、ちっとも聞き入れてくれないのです。いやはや、頭が痛い」
「ではちょうどいい、妾らを山の中へ案内せい。おぬしに代わって、ちょちょいと灸を据えてやろうぞ」
「貴女方が?」
仙足坊がわざとらしく噴き出した。鳥の羽を束ねた扇で、上品に口元を隠す。
「失礼。カンニング眼鏡も使えないくせに、我が主と渡り合える気でいるのが些か滑稽で、つい」
「キエーッ、こんのハナタレ天狗めがッ……! 主もろともぶちのめしてくれるわ!」
偉そうに天涅の代役を買って出た忌弧だったが、この場の誰より沸点が低いのは彼女だ。今にも飛びかかりそうな勢いで、ギザギザの歯を鳴らす。それでも仙足坊の余裕は揺らがない。
「ふふ、得意の囲碁で勝てないなら、力でねじ伏せようというわけですな? しかしお止しなさい、それも無駄なことです」
「なァにを~ゥ?」
「この山に立ち込める空気でお分かりいただけませんか? 我が主はアホほど強くなっておりますよ。拙僧がせっせと集めた贄を喰らい、力を取り戻しつつあるのです」
天涅がわずかに身構える。
「やっぱり、昨日今日と近隣の神気が一斉に消えているのは、おまえたちの仕業ね」
神や妖といった怪異は、自分以外のモノを喰らうことで、強くなる。取り込んだ力を、自分のものにできるのだ。
「でも何故? 今になってこんな真似をする目的は?」
漆羽鬼神は過去にこの地で大暴れして、初めて人々に認知された怪異だ。その後、この地に祀られ、神に変質させられた。これは「人と怪異の共存」、その典型的モデルケースだが、つまるところ人の側から管理しやすい存在にされてしまったということだ。土地に縛り付けられた上、信仰なしでは在り方を保てなくなったのだ。
実際、漆羽鬼神は時代の流れの中、どんどん弱体化してきた。五年前のある一件で土御門の陰陽師と一戦を交えた直後に至っては、風前の灯も同然の有様だった。
しかし静かに消失を待つ状態だった漆羽鬼神が、半月前、突如として力を増し始めた。もちろん天涅たちは警戒しながら、これを見守った。漆羽鬼神がなにかを企んでいるようなら、直ちに対処し、場合によっては調伏しなくてはならない。それが土御門の御役目だ。ところが雪花によって【黄金棋眼鏡】を奪われ、その隙を突かれる形で怒涛の展開を許してしまった。既に彼らは大規模な結界が張れるまでに、力を取り戻している。
「今更また、破壊の限りでも尽くすつもり? それともなにか欲しいものがあるの?」
「ふふふ……」
仙足坊は肝心な部分を語らない。意味深に肩を揺らすばかりだ。
「我々がなにを企んでいようと、もはや貴女にできることはありませんよ。貴女のような、出来損ないの陰陽師にできることは、ね。どうか大人しく引っ込んでいていただきたい。でないと……貴女もただでは済みませんよ」
「……、漆羽鬼神に殺された、土御門の先代当主と同じように?」
「……」
「……」
「……」
無言のまま、両陣営は攻撃的な視線を交差させる。やがて、仙足坊が沈黙を破った。
「話は以上です。……では、途中まで送りましょう」
その言葉と同時に、突風が吹き荒れた。天涅と忌弧は共に防御姿勢をとる。
風が収まった時、仙足坊は姿を消し、二人は陣保山の麓に戻されていた。忌弧が爪を噛む。
「いかん、いかんぞ、これは! もはや【黄金棋眼鏡】云々の問題ではない! なにを企んでいるかは知らんが、どうせ碌なことではない。奴らがしでかす前に、潰してしまわねば!」
「でも、あの天狗の言うことは正しい。今のわたしたちじゃ、とても歯が立たない」
漆羽鬼神の力は、天涅の想定を超えていた。乱れた髪を整えながら、彼女は提案する。
「中央に助けを求めるのも、ありだと思うけど?」
「中央」は政府の裏機関、「
しかし忌弧は眼球と歯茎を剥きだして、この提案を拒絶した。
「ここ一帯は土御門家に与えられた管轄じゃ。余所者の力など借りてなるものか!」
怪異に対するスタンスや宗教形態がそれぞれ異なっているためか、対怪異稼業の一族同士は不仲なことが多い。家同士のナワバリ意識が異常に強いのだ。式神として、長い時を土御門に捧げてきた忌弧にも、その感覚がしっかり刷り込まれていた。
とは言え、あまり悠長なことを言っていられる状況とも思えない。
「……じゃあ、どうするの?」
そんな天涅の疑問はもっともだ。忌弧はしばらく爪を噛んでいたが、ふいに指を鳴らした。
「そうじゃ、平安から来た小童が使える! 奴の脳を、新しい【黄金棋眼鏡】に加工しよう」
土御門が開発した【黄金棋眼鏡】は、碁打ちの思考回路を再現する呪具だが、その材料は人間の脳だ。鷺若丸から作る新しい片眼鏡は、さらに強力な代物になるだろう。ただし当たり前だが、脳を取り出された鷺若丸は死ぬ。
天涅はこの提案を、きっぱりと拒絶した。
「新しい【黄金棋眼鏡】は必要ない。協力を取り付ければ、生かしたままでも戦力になる」
だが忌弧は納得できない。
「甘いことを! 生かしておいては、憂いが残る。気まぐれを起こす程度なら可愛いものじゃが、万が一にでも敵方へ付かれたらどうする。現にあやつは一度、半妖の小娘に手を貸しておる」
忌弧の考えは悪辣だが、合理的ではある。殺して片眼鏡にしてしまえば、裏切りの心配はしなくていい。相手の機嫌をうかがったり、頭を下げたりする必要もない。
それでも天涅は頑なに、首を縦には振らなかった。
「忌弧、くどい。あの男に生きていてもらわないと、わたしが困る」
「何故じゃ!」
「……別に」
忌弧は目を丸くした。
「天涅や、おぬしもしや……あの“イゴイゴ”鳴く哺乳類に惚れたか!? 惚れたのか!?」
天涅は無表情かつ、無反応だ。天涅の誕生から常に傍にいた忌弧にさえ、彼女の真意は読み取れない。確かなことは、彼女に鷺若丸を殺す気がまったくないということだった。
「とにかく、また今度、囲碁部に顔を出しましょう」
天涅は踵を返し、変わらぬ口調でこう続ける。
「あの部には利用価値がある。ええ。平安の彼にも、あの雪女にも。せいぜい、わたしたちのために働いてもらいましょう」
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