『《石の声》』

 山中の校舎群を抜けた鷺若丸さぎわかまるは、山を下るアスファルト舗装の坂道に、天涅あまねの背中を見つけた。早足でその隣に並ぶ。


「質問してもよいか?」

「ダメって言ったらどうするの?」


 歩調を落として、後ろに戻る。


 質問はできなかったが、少しだけ表情を見ることができた。いつも通りの無表情だ。無理に取り繕っているというわけでもない。負けて悔しがっているわけではないらしい。


 もう一度、隣に出る。


「質問するぞ」

「……なに?」

「そなた、この前に会った天涅殿とは、別の天涅殿か?」

「同一人物だけど?」

「ううむ……。ならば、さっきの囲碁はいかなることなりや……」


 天涅の囲碁は、昨日とまるきり別人のようだった。鷺若丸と渡り合えるだけの力量があるにしては、不甲斐ない一局だったと言わざるを得ない。なにか理由があるはずだ。


「【黄金棋眼鏡おうごんきがんきょう】を奪われたから」


 天涅はぶっきらぼうにそう答えた。あの片眼鏡のことを言っているのだ。


「あれは視力矯正器具じゃない。次の一手を見せてくれるまじないの道具」

「次の一手を……見せる?」


 鷺若丸の疑問に対して、鞄のぬいぐるみが破裂し、白い煙を吐く。現れた忌弧きこが、皮肉っぽく頬を歪ませた。


「《夢幻むげんの間》は、互いの生殺与奪を賭けた勝負の術。ならば確固たる勝算が必要じゃろう? 当然、《夢幻の間》の開発と同時に、対局を優位に進めるための呪具も用意してある」


 それが【黄金棋眼鏡】なのだ。


「あれは江戸の世に名を馳せたとある碁打ちの脳を材料に、部分的にその思考を再現したもの……おおよそそういう代物じゃ。あの片眼鏡をかけると、その碁打ちが選ぶであろう着手点が即座にシミュレートされ、盤の上に浮かんで見えるのじゃ」

「つまり、わたしはその通りに打つだけでいい」


 あっさりと言い放つ天涅に、鷺若丸は驚きを隠せない。


「すなわち、眼鏡なしに打った今の囲碁こそ、そなた元来の囲碁……?」


 彼女が妖怪を相手に無双していたというのも、鷺若丸と互角に渡り合ったのも、すべてはチートアイテムの恩恵に過ぎなかった。本物の彼女は、決してずば抜けた力の持ち主というわけではないのだ。


 鷺若丸の足が止まる。彼は数歩先の天涅たちを見下ろし、言った。


「そうか。ようよう理解できた。あの対局で、そなたの石から声が聴こえなかった理由が」

「……声?」


 天涅と忌弧は振り返り、そろって四十五度ほど首を傾げた。


   ○


 三週間前。鷺若丸とステラがはじめて出会った日のこと。


 あの時、お互いの言葉はなに一つ通じなかった。千年の時の隔たりは、避けて通ることのできない大きな壁だ。ステラは鷺若丸の必死さを感じ取りながらも、意思の疎通に苦しんだ。


 その状況を変えたのは、ステラのスマホへの着信だった。電話自体は、友人からの他愛ない連絡だったので、すぐに切ることができた。だがその際、誤って囲碁のアプリを起動させた。魔法の道具としか思えない謎の板に碁盤が映し出されて、鷺若丸が喰いつかない道理はない。その反応でステラも気が付いた。


「あなたさまはもしかして、囲碁をおやりになるのですか?」


 言葉も伝わらず、互いの正体も分からない。それでもそこに碁盤と碁石があるなら、やることは一つだ。鷺若丸とステラは打った。腹が減るのも忘れ、日が暮れるのも気にせず、公園のベンチで頭を寄せ合い、手のひらほどの小さな碁盤にのめり込んだ。


「そしてその盤上で、わたくしたちはお互いの《石の声》を聴いたのですわ」

「声ぇ?」


 ステラの話を聞かされていた雪花せっかは、突拍子もない話に怪訝な顔をしてしまう。盤上に残された石を片付けながら、ステラは説明した。


「囲碁には打ち手の人となりが表れるんです。一手一手の石に、打ち手の魂がこもるから。そしてそれは当然、盤を挟んだ向かい側の相手にも伝わります。これが《石の声》ですわ」


 ステラは人差し指と中指に石を挟むと、まっさらになった碁盤の中心へと打ち下ろした。しなやかで鋭い手つきだ。音が広がり、消えて、また静寂が戻ってくる。雪花がふざけて指を立てた。


「分かったわ。今日の晩御飯は唐揚げがいいな、って言った!」

「どちらかというと、ローストビーフをいただきたい気分ですわ。って、そうではなく……」


 ステラは、盤のど真ん中に打った石を指差した。


「普通、一局の打ち始めは、隅っこのあたりから着手するのがセオリーですわ。盤のふちを使って効率よく地を作れますから。にもかかわらず、このように相手がいきなり盤のど真ん中に打って来たら? なにかしらの意図があると分かるでしょう?」


 ただの気まぐれであれ、なにかの狙いであれ、そこには打ち手の意志が介在している。


「さらには石を打つ手つき、佇まい、息遣い、視線。そのすべてを併せれば、たとえ言語が通じなくとも、互いの心を知ることができるのですわ」


 石と盤さえあれば、言葉は不要。優れた碁打ち同士は、石を交えるだけで会話することができるのだ。手でかたる――すなわち「手談」。それは数ある囲碁の別称の一つだ。


「この声は、ある程度の棋力きりょくを備え、尚且つ心から囲碁を愛する者にしか聴き取れません。ですが高い境地に至った者なら、より深く相手の内面にまで踏み込むことができるそうです。偉そうなことを言っていますが、わたくしはまだまだ未熟者ですから、声と言うほどはっきり聴こえるわけではなくて。なんとなく、ぼんやりとそれらしいものが感じられる程度なんです。……そんなわたくしでも分かるほど、鷺若丸さまの声はハッキリとしていました」


 どんなに難しい局面でもブレることのない打ち筋は、芯の強さを。


 暗雲立ち込める危険地帯へ躊躇なく飛び込んでいく決断力は、輝く勇気と情熱を。


 そして窮地にあっても揺らぐことのない品格マナーは、誠実さと度量を表していた。


 そこで人間性を知ることができたからこそ、ステラは彼を支援する気になれたのだ。


 話半分の顔つきで聞いていた雪花は、質問する。


「じゃあ聞くけどさ、さっきのクソ陰陽師の囲碁からは、なにが聴き取れたわけ?」

「それは……」


 ステラは口元を引き結んで、つい数分前までの囲碁を思い出す。初手から投了までの一連の手、そのすべてを思い出せる。しかしそこから感じたのは、ただひたすらの……


「虚無、……ですわ」


   ○


 山を下る坂道の只中で、鷺若丸は天涅に向かって話しかける。


の夜、そなたの石より声が聴こえなかった。そなた自身が囲碁を打っていなかったから」


 彼女は一切の思考を放棄して、ただ片眼鏡の指示する通り石を並べていたに過ぎない。それはもはやゲームですらない、ただの作業だ。何手打とうと、盤上に残るのは心が通わない無彩色の石だけ。そんなものには意志も、意図も、意味さえも存在しない。声など聴こえるはずがない。


「そして……自分の力で打った先の碁も、真剣ではなかった」


 天涅の目が鋭くなる。鷺若丸は構わず続けた。


「そなたは幾度もつまらぬ間違いをして、わざと長考もせず、形ばかりの空虚な手を打っていた。盤上を見ているようで、意識は盤の外に向いていた。の時、そなたはずっと、囲碁以外のことをしていた! 違うか?」

「ええ、推察の通り。あの時はこの子に偵察をさせていた」


 天涅は特になんとも思っていないような顔で、あっさりと肯定した。差し出したのは、彼女の腕にしがみつく一枚の人形ひとがただ。


「あの半妖が【黄金棋眼鏡】を隠し持ってないか、調べるにはいい機会だったから」

「対局中だ」


 対局中に別の作業をすることは、礼を失する行為だ。しかし天涅は淡々と言う。


「いい目くらましになった。あの囲碁部部長には感謝している」


 その態度で、鷺若丸はようやく理解した。


「……そうか。そなたにとって囲碁は、仕事の道具でしかないのか」


 だから対局中に無関係な作業ができるし、次の手が見える片眼鏡も平然と使える。それを知って鷺若丸の心に広がったのは、灰色の不満だった。それが顔にも出ていたらしい。


「……? なにか気に障った?」

「つまらなくはないのか?」

「……」


 その問いに、天涅の口が小さく開く。しかし言葉が音となる前に、忌弧が遮った。


「これは土御門つちみかどの御役目の問題じゃ。そこに誇りはあっても、つまる、つまらない、などという戯言はない!」


 それを聞いていた天涅は、喉元まで出かかっていた言葉を呑み込んでしまう。そして底のない穴のような瞳を、瞼の裏に隠してしまった。


「わたしにとって大事なことは、与えられた役割を果たすことだけ。そのためなら、どんなものでも利用する。ずっとそうしてきた。そしてこれからも」

「本心か、それは?」

「……悪いけど、おまえの期待には応えられそうにない」


 誤魔化されても鷺若丸は引き下がらなかった。去っていく背中に向かって呼びかける。


「そなたに大事なものがあるように、我にも譲れぬものがある。やはりどうあっても、そなたには囲碁部の三人目になってもらう」

「……」

「我らはあの場所で待っている。だから……話ならいつでも聞く!」


 天涅はわずかに振り返りかけたが、再びその足が止まることはなかった。済ませるべき仕事が彼女を待っている。彼女は忌弧と連れ立って、学校を去っていった。

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