第15話

 アリューツカからの使者が皇宮に到着したのは、それから十日ほど経ってからだった。今頃は、陛下に理不尽な要求を言い連ねている頃だろう。

「叔父は、相変わらず黙秘ですか」

「ああ。弁護士とは面会するが、捜査に協力する気は一切ないらしい。無実の証明はそっちのけで、法廷劇場の台本書きに必死だ」

 向かいのエメリヤは調書を机に投げて椅子に凭れ、行儀悪く脚を組む。今日も朝から、取調室で聴取という名の捜査中だ。

「証拠さえ掴めば、外患誘致罪で一気に叩き潰せるしアリューツカも牽制できるんだがな」

 悔しそうに零して、腹立たしげに息を吐く。

 外患誘致罪とは、国外の国家や団体などと結託して国内に戦を呼び込む罪のことだ。まさに叔父が今、為していることなのだが。

 今のところ、こちら側で叔父の罪を把握しているのは私と陛下だけだ。あの日カリュニシン邸で見つけた日記の手掛かりは、「捻くれた息子に親としての限界を感じて書いたもの」と処理してある。

 動機を明らかにすれば裁判でも有利になるだろうが、その代わりツァナフは再び内側から崩壊する。

 あと三年は生きられない陛下、クーデターの筆頭であった先帝が教皇派との間に子を成していた事実、第一皇子となるはずだったユーリ皇子を毒殺した皇后、そして、まだ幼いセルゲイ皇子。

 これだけの不安要素に耐えられるほど、この国は強くないのだ。そしてアリューツカは、それを分かっている。陛下は譲歩できるところで要求を飲み、使節団の派遣を提案する予定だ。そこに、私も含まれる。

「戦争を未然に防ぐことができれば、叔父の目的は潰せます。外患誘致罪など成立しないものとして扱えば、むしろ歯噛みして悔しがるでしょうね」

 ただ、追い詰められた叔父は法廷で全ての真実を口にするだろう。それを、どうすれば防げるのか。

「使節団に、加わる予定なんだろう」

「はい。アリューツカなら聖女の威厳が通用しますし、向こうも悪い気はしないでしょうから。誰があの魔術を掛けたのか、叔父と結託しているのかを突き止めてきます」

 崩した姿勢から私を眺めるエメリヤに、決意を伝える。今更、止めるつもりはないだろう。本当はついて来て……いや、だめだ。

「本当は俺がついていきたいところだが、難しいからイワンを同行させる。ああ見えて剣の腕は立つから、何かあれば頼ればいい」

 さらりと流れた言葉に揺れる胸を治め、表情を整えて頷く。

「ありがとうございます。兄は、さすがに東方へは連れていけませんので」

 東方で忌み嫌われる狼を連れて行けば、まとまるものもまとまらなくなってしまう。今回は留守番だが、まだ伝えられていない。予想できる反応に先延ばしにしていたが、いい加減、ちゃんと話さなくてはならない。

「東方に向かう前に、兄と話せる時間をください」

「分かった。問題なければ、今夜でもいいぞ」

「今夜は……いえ、そうですね。早く、ちゃんと話さないと」

 往生際の悪い自分に苦笑した。逃げるように東方へ向かうのは、本意ではない。心配を掛けるのは分かっているが、それでもきちんと話さなくては。

「私がいない間、兄をよろしくお願いします。きっと落ち込んでうろうろしていると思いますから」

「そうだな。置いて行かれたもの同士で酒でも飲む」

「兄はあまり強い方ではないので、飲ませ過ぎないようにしてくださいね。重石のように動かなくなってしまいますから」

 ワインなら、小さめのボウルに半分くらいで酔っぱらってしまう。酔っても寝るだけだがら周りに迷惑を掛けることはないが、その場で動かなくなってしまうのだ。そうなるともう、押しても引いても、乗っても起きない。

 そうだな、と答えてエメリヤは小さく笑ったあと、長い息を吐いた。

「なかなか、割り切れないものだな。どのような道を選んでも、何もなかったように過ごせると思っていたんだが……いや、こうして面と向かって口にするのも良くないのだろうな。すまない」

「そんな、謝られる必要はありません! 私も」

 ぼそりと詫びたエメリヤに、慌てて返す。未だ引きずる私と違ってエメリヤには少しも変わった様子がないから、とっくに「元に戻れた」ものだと思っていた。

 「私も」と口に出してしまったからには、白状しなければならないだろう。

「……私も、どのようにすればいいのかまだ、分からないのです。寄せられる苦しみの声には『時が癒します』『思い煩いは神に預けましょう』と、したり顔で伝えていたのに。これほど胸を締めつけ続けるものだとは、思わなくて」

 想像は、想像に過ぎない。現実の痛みは、もっと鋭くて深くて……そしてどこか、甘やかだった。だからきっと、簡単には手放せないのだろう。

 エメリヤは頷いたあと、髪を掻き上げる。額に零れ落ちた髪が、薄い影を作った。

「一時の感情に振り回されて理性を失くし、最後にはそれに縋りついて命を落とす。俺だけは同じ道を歩まないと誓ったはずが、血は争えないものだな。ふとした瞬間に、引きずり込まれそうになる」

 浮かんだ僅かな自嘲の笑みを、じっと見つめる。エメリヤが恋を遠ざけていたのは、致し方のないことだろう。恋の喜びではなく、悲劇を味わい続けてきたのだ。

 私ではなく「普通の」令嬢となら、と思った胸が小さく痛む。その理由はもちろん、もう分かっている。恋には喜びと悲劇だけでなく、嫉妬もつきまとう。

 神は、神の道の正しさを示すために、世に無数の悪を撒かれた。光の中では神の手は見えないが、悪の中ならよく見えるからだ。それでも、その手を握り続けられる人間がどれだけいるのだろう。人は、聖女となった私でさえ、これほどまでに弱い。

「それもいいかと思いそうになる、己の弱さが恨めしい」

 苦しげに零すエメリヤに触れたくなったが、それは許されないのだろう。今の私は、聖女として触れることができないのだ。……ああ、そうか。だから、聖女は恋をしてはならないのか。

「ごめんなさい、エメリヤ検事正」

 小さく詫びて、視線を落とす。膝の上には、いつもどおり白い手袋に包まれた手が行儀よく置かれていた。目の前にある苦痛に、伸ばせなくなった手だ。

「本当なら、こんな時には触れてその痛みと苦しみを慰めるのが私の、聖女としての務めなのです。でも私はもう、あなたに触れることができません。あなたのためには、もう何もできないのです」

 私が、恋などしなければ。じわりと滲む視界に、唇を噛み締める。オリナ、と呼ぶ大人しい声に視線をやると、傍らでエメリヤが膝を突いた。

「聖女としてでなくていいから、触れてくれないか。俺は、神の力に癒されたいわけじゃない。神の祈りにも。ただ」

 エメリヤは一旦口を噤んで、間を置く。なんとなく、顔が赤らんだように見えた。

「オリナには、祈ってほしいとは、思う」

 ぎこちなく続いた願いに、胸を占める悔いが穏やかに解けていく。頷いて手袋を外し、初めてエメリヤの頬に触れた。指先に伝わっていく熱に、どうしようもなく幸せを感じてしまう。私の全ては神のものであるとしても、心だけは私自身のものだと信じたい。

「オリナとして祈ります。いつでも、何度でもあなたの幸せを」

 頷いて笑むと、涙が頬を伝う。再びはっきりと映るようになった視界に、穏やかに目元を緩めるエメリヤがいた。こみ上げる愛おしさにもう片手も伸ばして包むように触れる。

「あなたの痛みが癒されて」

 そこまで口にした時、轟音と共に建物が大きく揺れた。

 何が、起きたのか。

「オリナ!」

 エメリヤはすぐさま腰を上げて、私を守るように抱き締めた。みしみしと建物の軋む音を聞きながら、ペンダントを握り締めて保護の祈りを捧げる。少しずつ祈りが私の周囲に行き渡っていくのを感じながら、神力の流れを阻害するものを探り出す。一瞬、昏く重いものが引っ掛かったが、すぐに消えた。今のは、なんだ。

「検事正!」

 勢いよく開いたドアの向こうから現れたのは、ブラトだった。

「何があった!」

「爆発です。検死室がやられました」

 ……検死室。そこにはもちろんマルクや検死官達、そして警備を担当していた検事達がいる。今日は、イワンと兄もいたはずだ。

「皆は、皆は大丈夫なのですか!」

 エメリヤの腕の中から体を起こして尋ねた私に、ブラドは苦しげに頭を横に振る。

「分かりません。天井が崩れ落ちて、今なお危険な状態です。ここも危ないので、ひとまず避難してください」

「いえ、私はここから祈りで被害を食い止めます。ほかの方達を避難させてください。それと」

 今は、丁寧にその正体を探っている余裕はない。間違いだったのなら、捕まえたあとに謝れば済むことだ。

「先ほど北西の方向に昏く重いものを感じました。もしかしたら、恨みを抱いた者が爆発物を抱えて移動しているのかもしれません。次の被害を防がなければ」

 私の訴えに、エメリヤとブラトが頷く。

「皇宮か」

「アリューツカの使者を狙っているのかもしれません。急ぎます!」

 ブラトは言い残すと、すぐに部屋を出て行った。そちらはもう、任せるしかない。私はここで、できることをしなければ。

「エメリヤ検事正、私はこれから全力で保護と治癒の祈りを捧げます。力尽きたあとはおそらく、意識を保つことすらできません。あとを、お願いできますか」

「分かったが、大丈夫なのか」

「ええ。私は、死にませんから」

 力尽きた体に神力が行き渡れば、目を覚ますだろう。神が再び神力を注いでくださるのなら、だが。

「またあなたを苦しめてしまいますが、どうかお許しください。これは、私にしかできないことなのです」

 願いを込めて触れた手を、エメリヤは握って頷く。握られて初めて小さく震えていることに気づいたが、やめるわけにはいかない。全てを守る力はなくても、祈らない理由にはならない。私は守る方法を「知っている」のだ。

 一息ついて守られていた手を離れ、ペンダントを握り締める。目を閉じ深い息を吐いて、全てを祈りに捧げた。


                               (第二部 終)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

聖女は謎と恋に揺れる【第二部】 魚崎 依知子 @uosakiichiko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ