第13話

 聖下は私の予想どおり、入れ替え犯の遺体持ち帰りを許可してくれていた。周りは大慌てだったらしいのも、予想どおりだ。

 普段はどんな理由であれ、荒野に捨てた遺体を連れ戻すことはない。誤って自死と判断されて捨てられたとしても、真実を知っている神が見捨てるはずはないからだ。同様に、自死と判断して遺体を捨てた者達の罪も赦される。だから「間違えた」としても、連れ戻して再び葬儀を行う必要も祈りを捧げる理由もない。「自死であるかもしれない」遺体に関わる方が、教会内ではよほど罪が重いのだ。

 印章を担保として陛下に預けたらしい話はまだ教会内に広がってはいなかったが、どちらも足元を危うくさせる行為なのは間違いない。高齢を理由に引退させられる可能性だって、ないわけではないのだ。まあ今はそちらより、こちらに集中しなくては。ハーブの選定から検証の準備まで丸一日掛かったのに、ここで失敗するわけにはいかない。

 一息ついて手を止め、乳鉢の中を確かめたあと振り向く。

 検証を行うことになった一室は、教会の離れにある狭く古びた一室だ。そこに待機中の兄とエメリヤ達、そして荒野から連れ戻した遺体が詰め込まれている。本来ならもっとちゃんとした部屋で行うべきだが、職員達が神の怒りを恐れて教会内に遺体を運び入れるのを許さなかったのだから、致し方ない。

「では、続いて五番目のハーブです」

 すり潰したハーブの入った乳鉢を鼻先に近くへ持って行くと、兄は鼻をひくひくさせて匂いを嗅ぐ。

 御者と襲撃犯は既に検証済みで、最後が入れ替え犯の遺体だ。気候のせいで腐敗は進んでいないが、死臭は隠しようがない。もっとも、兄の鼻はこんなものでごまかされるものではない。兄は頷いて踵を返し、遺体の傍へと向かう。豊かな尻尾を緩やかに数度振ったあと、遺体の周りを回って臭いを探った。

「……ある。同じ匂いがする」

 兄の言葉に、エメリヤ達がすぐさま答えを書きつける。

「オリナ、順番を綴った用紙をくれ」

 エメリヤの要求に、傍らに置いていた封書を差し出す。エメリヤは封を破り取り、中の用紙を確かめ始めた。

 五種類のハーブを試して、三回とも兄は二つの匂いを嗅ぎ取った。

 検証用に使用した五種類のハーブはどれも東方にしかない、「非常に珍しいもの」と「比較的珍しいもの」だ。三回の結果が全てが一致していれば、魔術による操作が行われている可能性が非常に高くなる。ツァナフの魔術検査に引っ掛からない薬が使われたのは、ほぼ間違いないだろう。

「一回目の結果をくれ」

「二番と三番です」

「二回目は」

「一番と三番でした」

「三回目は」

「二番と五番です」

 エメリヤは、検事達から寄せられる検証結果とそれぞれの順番を照らし合わせる。一息ついて、私を見た。どうだったのだろう。

「完全に一致した。魔術の関与を疑うに十分な証拠だ」

 願っていた報告に、ほう、と安堵の息を吐く。傍にいた兄を抱き締めて、ようやくほぐれた緊張を確かめた。ブラトの話では、御者はほかの職員達と同じようにフェンネルを嗜んでいたらしい。併せれば、強固な証拠となる。これでまた少しだけ、先に進める。

「ありがとう、お兄様。お兄様のおかげよ」

「お前の役に立てたのなら、何よりだ」

 満足そうな兄の声に頷いて、豊かな毛並みに埋もれる。兄を助けるためのものが、こんなところで役に立つとは思わなかった。こんな風に、兄の呪いも解くことができれば。

 ……そうか、この薬を調合できるほどの人物なら。

 浮かんだ可能性に、毛並みから体を起こす。

「お兄様を助けられる方法を、見つけたかもしれないわ」

 小さく伝えた私に、兄の金色の丸い瞳が少し見開かれる。オリナ、と窘めるように呼んだ時、古びた扉を叩く音が響いた。

「取り急ぎ、ご報告します。アリューツカに動きあり、宣戦布告の書状を携えた使者が国を出ました」

 検察部の職員だろう。不穏な報告は、むしろ今は予想どおりのものだった。

「これで、一気に答え合わせが進んだな」

 驚きもせず受け入れたエメリヤに、検事達も表情を険しくして頷く。もちろん使者とは交渉できるが、決裂すれば即開戦だ。内乱を終えて五年、ツァナフの民はまだあの苦しみを忘れていない。

「被告人の目的はおそらく、カリュニシン家の奪取ではない。ツァナフの滅亡だ。背後には、アリューツカの連中も関わっている」

 エメリヤが、ひときわ表情を硬くして叔父の目的に言及する。戦争は軍の仕事だが、戦況によっては皇宮からも多くの人間が赴くことになるだろう。独立機関とはいえ、皇宮法務局も他人事ではない。

「裁判が続く限りは、これを軸に被告人に追求する。あとは動機だな」

 口にされた言葉に、内心どきりとする。既にイワンから「何もなかった」と報告されているはずだから、私に聞かれることはないだろうが。

「アリューツカの王を煽ってまで、ツァナフを滅亡させたい理由はなんだ? カリュニシンの色を持たないのを一握りの連中に馬鹿にされたからだとしても、それだけで外患誘致までやってのけるか?」

 ぶつぶつと思考を言葉にしながら、エメリヤは考え込む。エメリヤのことだから、私が黙っていてもそこへ辿り着くかもしれない。でも今は、それを願えなかった。

「まあ宣戦布告の件もあるし、ひとまずは検察部に戻ろう。遺体の後始末は俺とオリナでするから、お前達は先に帰って検証結果を提出できるようにしといてくれ」

 突然の指示に戸惑う私に、隣の兄が鼻先をこすりつける。

「俺も、行かなくては」

 ああ、と気づいて抱き締め、惜しむように毛に埋もれた。

「オリナ。頼むから危ないことはしないでくれ。俺は、お前さえ無事ならそれでいいんだ」

 耳元で諭す声に、視線を落とす。兄は、私が聖女になったきっかけを知らない。知れば、きっと誰よりも悲しむだろう。それでも、どうしても……その願いだけは聞けない。

「私は大丈夫よ、お兄様」

 胸の決意を新たにして、兄から離れる。兄はじっと私を見据えたあと、検事達に促されて共に出て行った。

 残されたのはエメリヤと私と、遺体だ。

「魔術に操られた自死である可能性が高まったことを、聖下に報告いたしましょう。このようなことは初めてですが、後を引き受けてくださるはずです」

「そうだな。不信心な俺の助言は必要ないだろう」

 エメリヤは鼻で笑いながら私の前に来ると、手袋を引き抜く。当たり前のように頬へ触れた手は温かく、私に熱を与えた。

「寝てないんだろう。無理をさせて、すまなかった」

「気になさらないでください。急がねば遺体の香りは消えていたかもしれませんし、これで真実に少し近づけたのですから」

 小さく頭を横に振り、視線を落とす。誠実な心遣いが今は心苦しい。

「必ず助ける。もう少しだけ、耐えてくれ」

 優しい言葉と熱に、胸が痛む。一歩退いて手から離れると、エメリヤが小さく私を呼んだ。

「ありがとうございます。でも、『このようなこと』は、よくありません」

「誰かに、何か言われたのか」

「そうではありません。ただ」

 一息ついて、胸のペンダントを握る。許されないのは分かっているのだ。それなら、傷は浅い方がいい。

「私は、聖女なのです。神に娶られた身で、これ以上あなたを受け入れることは許されません。神は決して、罪をお見逃しにはならない。あなたをこれ以上、傷つけたくありません」

 じわりと、胸に鈍い痛みが拡がっていく。初めて知る恋の痛みに、唇を噛んだ。

 同じ苦しみを、これまで何度となく聞いてきた。恋が叶わない痛み、恋を失った痛み、失ってもなお消せない苦しみを。怪我や病のそれと違うのは、恋慕の情が絡まっているからだ。恋い慕う気持ちは、そう簡単に消せるものではない。きっと、私も。

「分かった。じゃあ、一つだけ答えてくれ」

 少しの間を置いて、エメリヤが大人しい声で求める。おずおずと視線を合わせた私に、寂しげな笑みを浮かべた。

「聖女でなければ、神ではなく俺を選んでいたか?」

 続いた問いに、エメリヤをじっと見据える。もし、私が聖女でなかったのなら。

「……はい。ずっとあなたの傍にいられるよう、願っていたはずです」

 歪む視界を閉じると、涙が頬を伝い落ちていく。薄く開くと、目の前に見慣れた胸があった。抗うことなく腕の中に収まり、きっとこれが最後になるであろう熱を受け入れる。

「神は、よほど穢れた血がお嫌いらしい」

「そのようなことを言わないでください。あなたの罪ではありません。あなたは、喪い続けてきただけではないですか。その悲しみや痛みを、かつて自分が抱いた愛情を、そのような言葉で軽んじなくとも良いのです」

 自分まで、自分の気持ちを蔑ろにする必要はない。自分が抱いた愛情を、他人の言葉に踏みにじらせなくてもいいのだ。

 エメリヤは、そうだな、と呟くように言って体を起こす。見下ろす視線が穏やかで、安堵した。祈りがなくとも、時が祈りのように悲しみを癒してくれるはずだ。私が、傍にいなくても。

 再び頬に触れた温かな手に、自分の手を重ねる。冷えた肌に沁み込むこの熱を、忘れることはないだろう。

「私には、これからしなければならないことがあります。私にしか、できないことです」

 こうして束の間の幸せに酔っている間にも、戦乱の影は拡がっていく。民の生活を覆う前に、止めなければ。

「止められないのは分かっている。全てを話せないことも。こういうのは苦手だから、どう言えばいいのか分からないが」

 エメリヤは苦笑して、次の言葉を迷うようにまた間を置く。

「止められずとも、話されずとも、それでも、大切に思っている。もし東方へ向かうのなら」

 気づいていたのか。

 予想外の言葉に驚くと、一瞬その表情が苦しげに歪む。再び抱き締められたのは、それを隠すためなのかもしれない。

「俺の心を連れていけ。慰めくらいには、なるはずだ」

 苦しげに力を込め直す腕に、小さく頷く。長い息を吐いて心を決め、腕の中からゆっくりと離れた。

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