第10話

 エメリヤはイワンと共に、調書を手に魔鉱晶の記録を確かめているところだった。一旦作業を止めて私達からの報告を聞いたあと、腕を組んで考え込む。

「魔術に使われる薬草なんて、珍しいものに絞っても相当あるだろ。一種類に絞り込むなんてできるのか?」

「まずは候補を絞るところから始めればと思うのですが、私の魔術の知識も決して卓越しているわけではありません。魔術に詳しい方に聞くのが最適だと思いますが」

 言葉を濁して、向かいのエメリヤを見る。エメリヤは頷いて、溜め息をついた。

「ツァナフは、あの事件以来魔女の入国を許可していないからな。魔術の地位も低いから、専門家も存在していないはずだ。それこそ、検死室の連中の知識が一番頼れるくらいじゃないか」

「そうですね。では、検死室で一番詳しい方に聞きましょう。どなたですか」

「マルク検死官ですね」

 エメリヤの隣にいたイワンが、調書を置きながら答える。やっぱりそうか。確かにマルクは群を抜いて優秀だが、今は頼んでいることがある。

「マルク検死官には、あちらの方に集中していただきたいので無理ですね。ほかには」

 ふと思い浮かんだ人物に、溜め息をつく。人間性に問題があるのはさておき、神力研究の第一人者がいる。魔法と魔術の知識も、相当なもののはずだ。

「あの、司教長官もかなり詳しい」

「だめだ、ほかの奴にしろ」

 遮って却下したエメリヤに、項垂れる。予想していた反応ではあるが、優先順位はこちらが上だ。

「そのようなことを言っている場合ですか」

「なら俺が聞きに行けばいい」

「あなたは恨まれているではありませんか」

「とにかくだめだ。ほかの策を考えろ」

 エメリヤは冷ややかに言い返して腰を上げ、会議室を出て行く。頑固者、と思いはしたが、その理由は分かっている。私だって心配を掛けたいわけではない。それでも。

「あの、司法長官は教皇聖下の親族なんですよね? 聖下にお願いすることはできないんですか?」

 イワンの問いはもっともだが、うまくいかない事情がある。平和の礎たるべき宗教の場で対立が起こるのは情けないが、これが人間の罪なのだろう。どこでも、争いは発生する。

「聖下は司法長官の伯父なので、できないわけではありません。ただ教会内の政治において、二人は対立関係にあります。聖下は、今も皇宮と教会は対等の関係であるとお考えです。そのため、国からの圧には屈さない姿勢をお取りになっています。一方の司法長官は教会は皇宮に下るべしとの考えで、だからこそ教皇庁の長にも選ばれました。聖下の直下にいる私の失脚は、追い風になります。私を救う情報をすんなり渡すとは思えません」

 もちろん、私が頼んだところでそれは変わらないだろう。ここぞとばかりに自分に「鞍替え」するよう要求するのは分かっている。だから、ほかの策があるのならそれが一番なのだが。

「教会内部も、火種が燻っている状態なんですね」

「お恥ずかしい話ですが、そのとおりです。神のお膝元なのに、情けないことです」

 世界がどんなに荒れていても教会だけは清廉で平和であるべきなのだが、現状は決して褒められたものではない。ノルヴィリエフ家内では、聖下の後釜を狙う者達が神力を得ようと試行錯誤しているらしい。権力のために神力を欲しがる者に、与えられるはずもないのに。

 神は、どのような思いでこの地をご覧になっているのだろう。

「では、ほかの詳しそうな者に当たりをつけて話を」

 ブラトが落としどころを口にした時、勢いよくドアが開く。

「分かった、鼻だ、鼻を使え!」

 戻ってきたエメリヤの指先には室内厳禁の煙草が挟まれて、煙をくゆらせていた。

「煙草を吸っていて気づいたんだ。薬草には、特有の香りがあるはずだ。それを嗅ぎ分けられれば、絞り込める」

 思い出したように煙草を携帯灰皿にねじ込みながら、元いた席にどさりと座る。

 ああ、そうか。

 脳裏に浮かんだのは白く輝く豊かな毛並みを湛えた、立派な姿の兄だった。

「確かに、こちらには嗅覚に優れた素晴らしい味方がいましたね」

 ブラトとイワンも、納得した様子で頷く。狼は人間よりもかなり嗅覚が優れている。兄なら、嗅ぎ分けることができるだろう。ただ、問題がないわけではない。

「ですが、襲撃犯と御者はともかく、入れ替え犯の手掛かりは僅かな血液しかありません。血中成分を嗅ぎ分けるのは、さすがの兄でも困難ではないでしょうか」

 芳香は、毛穴から立ち上るものだ。血に混じり込んだ成分とそれを結びつけるのは、至難の業だろう。

「荒野に捨てられた遺体を持ってくればいい」

「さすがにそれは」

「じゃあ、ほかに方法はあるか?」

 エメリヤはイワンの反応を即座に塞ぐが、さすがにそれを見逃すことはできない。教会のためではなく、エメリヤのためだ。

「なかったとしても、勝手にそのようなことをすれば教会全てが敵になります。あなたを『悪魔』にしたくはありません」

 まっすぐに見据えて反対した私に、エメリヤは皮肉げな笑みを口の端に浮かべて鼻で笑った。

「今更だ。『穢れた血』が何をしようが、神は気にも留めない」

「神がお許しにならない前に……私が、耐えられません」

 呟くように本音をこぼして、俯く。膝の上で、両手が固く拳を作った。

 教会が「悪魔」と決めれば、教会だけでなく信徒全てがその命を狙う。悪魔は滅すべきものだから、大抵は無残な姿で発見される。そして、ろくに捜査もされない。死体は当然葬儀も埋葬もなく、野晒しで朽ちていく。……そんなもの、耐えられるわけがない。

 不意に腰を上げた隣のブラトに、気づいて顔を上げる。向かいではイワンも腰を上げ、ブラトと揃って会議室を出て行った。

 残されたエメリヤは、一息ついて机の上で手を組んだ。

「俺は三兄弟で、母はオルジロフ傍系の娘だった。ただその母親である祖母は平民で、しかも娼婦だった。祖父は彼女を愛していたが、家に許されず迎え入れられないでいるうちに内乱に巻き込まれ、彼女と娘と生き別れてしまった。見つけた時には、祖母だけでなく母も客を取っていたと聞いている。祖父は改めて祖母と母を招き入れ、母にはオルジロフ姓を名乗らせた」

 大人しい声で語られ始めたのは、「穢れた血」の理由だろう。

 もっとも教会では、娼婦は決して忌避される存在ではない。まあそれも男達が教義を作ったからなのかもしれないが、娼婦は市井に必要な存在として認められ、礼拝にも受け入れられている。娼婦を蔑むのは、「高貴な血」を引き継ぐ貴族達だ。

「ただ、平民だった二人が窮屈な暮らしと差別や侮蔑に耐えられるわけもない。祖母は首を吊り、母は書庫に閉じこもった。そして、書庫の本を読み尽くした。出てきた時には凄まじい量の知識を身につけていたらしい」

「以前、オルジロフ家に博識を極めた才女がいたと聞いたことがあります。あなたのお母様のことだったのでしょうか」

 でもその話の結末は、決して幸せなものではなかった。

――家庭教師と駆け落ちして、心中したんですよ。だから葬儀は行われず、教会の墓地にも入れなかったんです。

 皇帝派で常日頃は無信仰を貫き教会に足を向けない者達も、死に際から死に至る過程ではほぼ教会を頼る。神を信じない者でも、安らかな死と死後の安寧は欲しいらしい。だから、教会が忌避する行為はできる限り避けようとする。それは、自死だ。

「そうだ。俺達の家庭教師と道ならぬ恋に落ちて駆け落ちし、川に飛び込んで心中したがな。祖母に続き母も自死して神に嫌われ、死体は荒野に捨てられ朽ちた。その頃にはもう『穢れた血』呼ばわりも定着していたが、これだけでは終わらなかった」

 まだ、何かあったのか。皇帝派ということもあって、オルジロフ家の噂はそれほど聞いたことがない。入ってくるとしたらカリュニシン家の話ばかりで、私を追い出そうとしているだの、兄にカリュニシンを名乗らせるべきではないだの、そんな文句だらけだった。

 今回の事件に傍系の人間が関わっていることを考えても、彼らの「願い」は今も変わっていないのだろう。だから叔父に力を貸したのかもしれない。叔父はともかく、跡継ぎは「御しやすい」キリムだ。

「兄には婚約者がいたが、それとは別に恋焦がれた女がいた。ただ、性質の悪い女でな。兄の持ち分だった家の財産のほとんどを吸い上げたあと、兄を捨てた。でも兄はそれを受け入れられず、悲劇の恋に陶酔したまま命を絶った。神ではなくその女の元へ行くと言い残して」

 エメリヤの視線は話し始めてからずっと、机の一点に注がれたまま揺るがない。祖母に続き母、そして兄。三世代に渡っての自死は、確かに家門の恥となるだろう。

「弟はろくでもない恋とは無縁だったが、六歳で病死した。あの時ほど真面目に祈ったことはなかった。一日中、弟のベッドの傍で祈り続けた。欲しいものがあるのならなんでも、俺の命でも差し出すと祈ったが、拒まれた。神は、俺から弟を取り上げた」

 淡々と語る口調に、初めて熱がこもった。エメリヤが神を憎んでいるのはきっと、自死した彼女達を受け入れなかったからではないのだろう。神が、幼い弟に神力では癒せない病をお与えになったからだ。為す術なく幼い命を見送るのは、今も慣れない。

「だから、今更だ、オリナ」

 ようやく視線をもたげたエメリヤが、諦めたように笑む。

「俺が石打ちで死んだところで、誰もがふさわしい死だと納得するだろう。それでこのふざけた事件が解決してオリナを助けられるのなら、本望だ」

「そのような」

「陛下も、お喜びになる」

 突然の「陛下」に驚いて、前のめりになったまま固まった。なぜここで、陛下が出てくるのだ。

「なぜ、陛下なのです」

「陛下の寵を受けているのだろう」

 予想もしなかった答えに、慌てて頭を横に振る。寵など、一度たりとも受けたことはない。

「それは、誤解です。確かに父を友と思ってくださった方ですので、お心遣いはいただいてはおりましたが」

「『お心遣い』で、夜の留置室に訪問を?」

 返された問いに、前のめりになっていた体を席に落ち着ける。急に素っ気なくなったのは、それが理由だったのか。でも、真実を明かすわけにはいかない。たとえエメリヤであっても、同じことだ。聖女としてカリュニシンの血を引くものとして、この秘密は決して明かしてはならないものなのだ。誤解してくれているのなら、このままでいた方が都合がいい。それは、分かっている。……でも。

「理由は申し上げられませんが、寵は受けておりません。嘘ではありません。私は、嘘をつけないのです」

 耐えられず零れ落ちた苦しい訴えに、エメリヤは間を置く。こう言えば、気づかないわけはないだろう。エメリヤなら、もう気づいていてもおかしくなかったことだ。

「……ああ、そうか。そういうことか」

 やがて腑に落ちた声がして、視線を落とす。安堵とともに湧き上がる罪の意識が、胸を暗くしていく。私はきっと、神の火に焼かれるだろう。聖女としては死ねない。

「本当は、このようにして明かすのも許されぬことですが……あなたに、そのように思われるのは、耐えられませんでした」

「それは、どういう」

 力なく答えた私にエメリヤが問い掛けた時、背後のドアが勢いよく開いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る