第8話

 翌朝起きたら予想外にすっきりしていて、改めて昨晩の一幕を思い出す。熱を発すわけもない頬を押さえて、胸を落ち着かせるために数度深呼吸を繰り返した。

 あれが挨拶の抱擁と違うのは、もちろん分かる。でも、その先はどうなのだろう。

 エメリヤの真心は伝わったが、あれは私の抱くものと同じものではないかもしれない。慰めとか励ましとか、多分そういったもので。もし同じだったら……分からない。

 苦笑してベッドを下り、身支度に取り掛かる。留置室での風呂は三日に一度、ほかの日はたらいの湯で清めなければならない。もっとも私は神力で浄化できるから、不要なものだ。解いた髪に手櫛を通し、目を閉じて浄化の祈りを捧げる。隅々まで清められていくのを感じたあと、目を開いた。

 神力は魔力のように個人の身に宿るものではなく、留まることなく神から供給され続けているものだ。だから肉体的な疲労はともかく魔力切れのようなことは起こらないが、導管として不適格になると、十分な神力を流せなくなるらしい。

 今のところはまだ、これまでと変わらない力を感じられている。でも神が私の変化に気づかないわけはないのだ。許されているうちに、どこかで区切りをつけなければ。

 教会から届けられていた新しい服に着替え、編み終えた髪をまとめ上げる。朝食が届くまで、朝の祈りを捧げることにした。


 慌てた様子のイワンが部屋のドアを叩いたのは昼前、いつまでも聴取に呼ばれない状況をいぶかしく思っている時だった。

「何があったのですか」

「実は、次の裁判が延期となりました」

「どれくらいですか」

「不明です」

 特に珍しくもない延期が、一気に特殊なものに変わる。

 イワンは私が差し出した水を一息に飲み干して、グラスを机に置いた。

「教皇聖下がお見えになって、陛下に裁判延期と聖女様の釈放を申し入れられました。聖女様自身に潔白を立証させるようにと」

 聖下が、皇宮に。確かに聖下がこのまま黙っていらっしゃるとは思わなかったが、まさかご自身が動かれるとは思っていなかった。

「でも、そのようなことができるのですか」

「ええ。逃亡や証拠隠滅の可能性のない被疑者なら、我々の監視下ではありますが釈放は可能です。ただ、そうは言っても釈放した途端怖くなって逃げる者もいますから、相応の担保が必要なんです」

 イワンは思い出したように振り向いて、しばらくドアの方の気配を探る。一歩私に近づいて、少し背を屈めた。

「教皇聖下は、印章をお預けになったのではないかと」

 小声で告げられた予想に、思わず目を見開く。

「……なんてこと」

「今回は皇宮で起きた殺人事件ですから、市井で起きたそれとは求められる格が違います。陛下が許可されたところを見るに、おそらくはと」

 そうはいっても、教皇の印章は教皇を「教皇たらしめるもの」だ。それを押せば、どんな文書も教皇が記したものとして通用する。だから、例えば陛下が『教会を解体する』と書面を作ってそれに印章を押せば、それが教皇の意志となってしまうのだ。そんなものを預けるなんて。

「今、検事正が釈放の手続きをしています。終わり次第釈放になりますので、捜査に合流してください。今後の捜査は、我々の監視下で聴取や実況見分を行っている体で続けていただきます。ですので御一人での行動はできませんし、カリュニシン指導専門官の同行も許可できません」

「承知しました」

 兄は心配するだろうが、仕方ない。こんなに離れるのは、私が教会に引き取られた時以来かもしれない。最初は、寂しくて泣いてばかりいた。そんな私を辛抱強く見守り続けてくださったのは、聖下だ。私は、助けられてばかりいる。

「聖下が作ってくださった猶予を、無駄にするわけにはまいりません。必ず、叔父に罪を認めさせねば」

 決意を新たにした時、ドアが開いてエメリヤが姿を現す。一瞬どきりとした胸を治めて、迎え入れた。

「イワン、説明は済んだか」

「はい。今終わったところです」

 エメリヤはイワンへの確認を終えて、私の前に立つ。いつもどおり額はすっきりと出されていて、昨日の夜は目元に滲んでいた疲れも消えていた。表情も冷たさを感じる、いつものものだ。

「手続きが済んだから、これでひとまず釈放だ。表向きは、陛下が告発を受けて再捜査を指示されたことにより裁判延期が決まり、それを知った聖下の申し入れで釈放が決まったことになっている。イワンから聞いただろうが、被疑者に捜査協力させるわけにはいかないから『捜査の延長上で取り調べを受けている』形でいく。おそらくは弁護士や向こう側の邪魔が入るから、十分注意してくれ」

「あの弁護士、勝つためなら手段を選ばないとこがありますしね」

 渋い顔をしたイワンが、エメリヤの背後で溜め息をつく。

「前回は証人を買収されて負けましたし、その前は証拠を力技で不採用にされて」

「もういいから黙れ」

 エメリヤは不穏な歴史を遮ると、肩で息をして私をじっと見下ろす。昨日、泣き出した私のことをどう思ったのだろう。腕はずっと温かくて、優しいままだった。

「俺が負けた二件の相手は、あいつだ。でも今回は負けないから、心配するな」

 エメリヤは苦笑で継いだあと、振り向く。

「じゃあ、あとは頼む」

「承知しました」

 イワンの答えに頷くと、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 もちろんこの状況で昨日の話をするとは思っていなかったが、なんとなく薄い壁ができたような気がする。近づいたような気がしたのは、私だけだったのかもしれない。

「大丈夫ですよ。多分、捜査に集中したいんだと思います」

「いえ、そういうわけでは、ないのですが」

 イワンの配慮に慌てて答えたあと、勝手な期待を抱いていた自分に反省する。そうだ、こんなことにかかずらっている場合ではない。気を引き締めなくては。

「では、私も取り掛かりましょう」

「あ、でもその前に客室へご案内しますね。今日からは、皇宮へ移っていただきますので」

 予想外の移動先に驚いてイワンを見上げる。

「皇宮、ですか」

「はい。陛下のご指示です」

 多分、秘密を明かさない私への心遣いなのだろう。それでも。

 胸に蟠るものはひとまず無視して、荷物を詰め込んだ鞄を閉じる。長丁場になると予想してか、教会から差し入れられた着替えの枚数は多い。でも皇宮なら、教会からの使者を待たずとも侍女がその都度洗ってくれるだろう。

 準備を終えて戸口へ向かうと、イワンは私から鞄を受け取ってドアを開けた。

「陛下は、この事件の真相が解明されても良いと、本当にお考えなのでしょうか。お望みにならない真実が、明らかになるかもしれないのに」

 廊下に誰もいないことを確かめて、胸の内に留まっていた疑問を吐き出す。

「最初の時点で捜査の中止を命じられなかったのは、民と教皇派の反応を気に掛けてでしょう。でも、今回は聖下の申し入れを受け入れる必要はなかったはずです」

 こんなところでしていい話ではないのは分かっているが、検事達皆に聞いてほしいわけでもない。ただ捜査に向かう前に、胸の内にあるものを整えておきたいだけだ。

「陛下のお考えを一官吏の私が理解できるわけではありませんが」

 少し前を歩いていたイワンは歩を遅くして私の隣に並び、私と同じほど声を潜めた。

「陛下は、悔いてらっしゃるのかもしれませんね。ユーリ皇子殿下がお亡くなりになった時に、捜査中止をお命じになったことを。あの時に真実を明らかにしていれば今回の事件は起きなかったのかもしれないと、私でも思うくらいですから」

「それなら、もし『あの方』に罪があるのなら、今回はお認めになるのでしょうか」

 更に小さくして呟いた私に、イワンは間を置いた。

 もし皇后の罪を明らかにしても、陛下が認めないのなら全ては無意味になってしまう。皇宮法務局は独立機関とはいえ、これまで陛下の命を退けて正義を貫き通せたことはないのだ。

 陛下を信用していないわけではないが、信じ切っているわけでもない。決定打を突きつけても認めないのなら、ウルミナは死してなお救われない。

「近頃は、ご病気であったとしても目に余る言動がおありです。このままでは、『次の世』に影響が出るとお考えなのかもしれません」

「明らかにした上で、それなりの対処をなさるおつもりなのかもしれませんね」

 心の病を理由に罪を認めさせて幽閉する、くらいか。セルゲイの即位になるべく影響が出ないようにと考えているのなら、確かに今回が最後の機会なのかもしれない。

「では、私達は遠慮なく真実を明らかにいたしましょう」

 はい、と答えたイワンと共に、検察部の重いドアをくぐった。

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