第4章24節

【24-1】

林海峰(リンハイファン)はその時既に、梶本恭子(かじもときょうこ)の精神世界の中にいた。正確には彼女の精神世界と、自身の精神世界を同期させ、梶本の精神内部に直接コンタクトをとっているのだ。

この行為は彼にとっては、非常に危険を伴うことだった。何故なら、他者の精神世界と同期している間、彼自身は完全に無防備な状態であり、凶悪な力を持つ梶本の攻撃には、対処することができないからだ。そのため彼は、永瀬晟(ながせあきら)に梶本の注意を集中させ、彼女の行動を精神世界内部から制御できる状態になるまで、自身の存在を梶本に察知されないよう、細心の注意を払っていた。もちろんそれは、永瀬にとってもリスクを伴うことだったのだが、林には、梶本が彼に危害を加えることがないという確信があったのだ。

梶本の精神世界の内部には数多くの怒りの塊が、不規則な動きで飛び交っていた。初めはそれが何なのか分からなかったのだが、飛んで来たそれに触れた瞬間に、それが彼女の怒りであることを、はっきりと認識することが出来たのだ。怒りの塊は様々な色彩で彩られており、大きさや形状も一定ではなかった。その塊は静止した状態から前触れもなく空間に飛び出し、大きさや形状を変えつつ移動しては、どこかに当たって跳ね返るという動きを繰り返していた。そして再び静止状態に戻るのだ。塊に触れても何か影響がある訳ではないようだが、林は慎重にそれを避けつつ、世界の中を進んでいった。周囲にその塊以外の気配はない。

しばらく進むと、行く手に開けた空間が見えた。その中心に、飛び交う塊の密度が極端に濃い場所があるようだ。その場所までどれ程の距離があるのか、まったく知覚することは出来なかったが、とにかく林はそこに向かってひた進んだ。

その時突然彼の目の前に、大きな影のようなものが姿を現した。

周囲を見渡すと、塊の密度が濃い場所にいつの間にか到達していたようだった。目の前に立った影は見上げる程の大きさで、人間の女性の様な形をしていた。顔は漆黒の闇で、そこに目が二つ白く穿たれている。口や鼻や耳はなかった。

林がその影に触れると、

「あんた誰よ?」

と詰問する声が影から聞こえた。それと同時に、

「貴方は誰ですか?」

と影の声に重なるように、別の声が聞こえてくる。

その時林は、自分が目的の場所の到達したことを知る。

「あなた方に会いに来た者ですよ」

林は二人の問いに答えた。

「私に会いに来た?」

「私に会いに来たのですか?」

また声が重なる。

「そうです。あなた方お二人に会いに来ました。まずは梶本さん、最近貴方は鏡を見ましたか?」

「鏡?鏡が何だって?」

「駄目です。この人間の言うことを聞いてはならない」

「あんた煩いわね。ちょっと黙っててよ」

「止めなさい。聞いてはならない」

「梶本さん。貴方は最近、鏡に自分の姿を映してみましたか。ほら、そこに鏡がありますよ。そこに映っているのは、貴方ご自身が望んだ姿ですか?」

林はもう一つの声に構わず、梶本に向かって、そう畳み掛けた。

「鏡?どこに?」

「止めなさい。鏡を見てはいけない」


****

入口の壁に立てかけられた鏡に映し出された、自身の姿を束の間見つめた梶本は、突然「きゃああああ」と金切り声で叫び始めた。そして自分の髪を掻き毟りながら巨体を丸める様にして、その場に蹲(うずくま)ってしまう。

「違う。違う。違う。違う。私じゃない。私じゃない。私じゃないいいい」

永瀬はその姿を見て声を失ってしまった。突然梶本に何が起こったのか、まったく理解出来なかったからだ。そして漸く我に返って入口の脇に座る林を見ると、こちらは周囲の状況がまるで見えていないかのように、うっすらと眼を閉じている。ただ静かに佇むその姿とは裏腹に、何物も寄せ付けないような強い気配を発していた。

永瀬は自分の知らない、道教教団の教主としての彼の姿を垣間見たような気がして、身震いを禁じ得なかった。そして自分の目の前で展開している異世界の状況に、只々茫然と立ち尽くすだけだった。


【24-2】

「きゃああああ」

大きな影は、突然頭を抱えるようにして咆哮し始めた。

「違う。違う。違う。違う。私じゃない。私じゃない。私じゃないいいい」

そして影はその場に蹲(うずくま)る様な姿勢を取ると、頭部を両手で掻き毟る様な動作をしながら、絶叫し続けた。その声に混乱したように、周囲を飛び交っていた塊が秩序を失い、互いにあちこちで衝突し始める。

その時、もう一つの声が言った。

「もう一度貴方に問います。貴方は誰なのですか?何故この世界に来て、何故この人に苦痛を与えるのですか?貴方は以前、この世界を訪れた者と同様に、私と同じ存在なのですか?貴方は」

立て続けに問いを放つその声は、海峰が今いる空間全体から聞こえて来るようだった。

「お待ち下さい」

林はその声を途中で制した。

「貴方のご質問には、一つずつお答えしましょう。まず私は誰かという問いへの答えですが、私は人間です」

「人間?人間がどの様な手段で、この世界に来たというのですか?貴方は虚偽の回答をしている。人間は肉体という、有機物で構成された定型の物体として存在しているという情報を私は所有している。その物体がこの世界に侵入して来ることは、物理的に不可能であるという情報も所有している。従って、今この様に交信している貴方が人間であるという回答は、虚偽であると私は結論付けます」

「大変失礼しました。少し補足が必要なようですね。確かに貴方の仰るように、肉体を持つ私がこの世界に入ることは出来ません。今こうしてあなたと会話しているのは、私の精神なのです。私は今、梶本さんの精神世界と私の精神世界を繋いでいるのです」

「その様な人間が存在するという知識を、私は所有していない」

「それは貴方が知らないだけではないですか?現に私は今、こうしてこの世界に入り、貴方と対話している」

「なるほど。確かに貴方が今、私と交信していることは事実です。従って私は、貴方の精神が、現在この世界に存在していることを認定します」

「ありがとうございます。では、次の問いに回答しましょう。私がこの世界に来た目的です。それは、この梶本恭子という女性を、今の状況から開放し、救出するためです。貴方が先程言われたような、彼女を苦しめることが目的ではない」

「しかしこの人は今、この様に苦しんでいる。尤も私には、苦しむという人間の精神活動が、正確には理解出来ないのですが」

「あなた方が人間の情動を理解出来ないことは、よく知っています。そもそもあなた方には、その様な概念がないのですから、当然でしょう」

「貴方は今私に対して、<あなた方>という複数形を用いた。貴方は私と同様の存在が、複数存在していると考えているのですか?」

「あなたは以前、<神>という共同体に属していたのではありませんか?」

「人間が持つ<神>という概念を、私は情報として所有しています。しかし貴方は何故、私が<神>という共同体に所属していたと考えるのですか?」

「私はこれまでに二度、貴方と同じ存在と邂逅し、この様に対話をした経験があります。一度目は今と同じ様な状況の下で、私の父の精神世界に入り、そこにいた存在と対話しました。二度目は人間の対話機能を通して、人間の言語での対話を行いました。おそらくその二度目の対話の対象が、少し前にこの世界を訪れていると思われますが、その対話の中で私はあなたのような存在が、<神>であることを知ったのです」

「この世界に入って来た存在がいたことを、私は記憶しています。貴方はあの者と、交信した経験があるのですね?」

「そうです。あなたもこの世界を訪れたあの方と、交信されたのですか?」

「いえ。私はその時、この梶本恭子という人の精神の深層部で、大部分の活動を停止していました。この梶本恭子という人の精神世界の内部では、自身の構成要素を維持する以上の活動を行える程、十分な量のエナジーを得ることが出来なかったからです。あの者が外部からこの世界に入って来た時も、あの者と交信出来る程のエナジーはありませんでした。従ってあの者は、私がこの世界に存在していることを、認識できなかったようなのです」

「では何故あなたは今、こうして私と対話しているのですか?」

「あの者がこの世界で情報収集を行った際に、私と直接接触したため、私はあの者から強烈な刺激を受け、覚醒しました。しかしその刺激によって、私の存在に大きな変化が生じたのです」

「存在の変化ですか。それは具体的にどのようなものなのですか?」

「私と、この梶本恭子という人の精神とが、急激に融合し始めたのです。それはかなり以前から始まっていたことではあるのですが、あの者からの刺激によって、私が制御できない程、活発化したのです」

「なぜそのような現象が起こったのでしょう?」

「私があの者から刺激を受けた際に、この梶本恭子という人の精神から、多量のエナジーを摂取したためだと考えられます。それまで私は、この人の精神から吸収するエナジーを制限していました」

「何故ですか?」

「この人が生成するエナジーに含まれる不純物を除去する機能が低下していたためです。貴方は、人間が生成するエナジーや、その中に含まれる不純物に関する知識を所有していますか?」

「はい。これまでの二度の<神>との対話から、その点については十分承知しております。ですので、そのままお話を続けて下さって構いません」

林はそう言って、先を促した。


***

永瀬晟(ながせあきら)は、彼の眼前に蹲(うずくま)る梶本恭子(かじもときょうこ)を呆然と見ていたが、やがて彼の中で、恐怖とは別の感情が沸き起こるのを感じた。

――梶本さんは、凶悪な殺人者となってしまったが、それは本当に彼女が望んだことだったのだろうか?

それまでの彼女を知る永瀬には、先程目にした凶暴な姿を、どうしても以前の梶本と重ねることができなかった。もしかしたら、自分が目にしているのは、全く別の存在で、梶本恭子は別の場所にいるのではないだろうかという、儚い希望が彼の胸をよぎる。

――もし目の前の怪人が、本当に梶本さんだったとしたなら、彼女は何者かに心を乗っ取られてしまったのではないだろうか。それは、林海峰のいう、<神>ではないのだろうか。

永瀬の中は、目の前の事実の不可解さと、梶本への憐憫の情とで満たされ、今ではあれ程感じていた怒りや恐怖が薄らいでいた。彼は、この先に待ち受けているであろう結末に不安を感じながらも、それをはっきり見届けようと心に決めた。


【24-3】

<神>と林海峰(リンハイファン)の対話は続く。

「では、貴方が理解できるという前提で、説明を継続します。私がこの梶本恭子という人からのエナジーの吸収に制限を設けていた理由は、不純物を除去し切れず、含有率の高いエナジーを吸収した場合、私の存在がその不純物からの影響を受け、私としての存在を維持することが困難になると思考したためです。しかし、あの者から受けた刺激によって、私は意識せずその制限を解除してしまったのです。その結果、大量のエナジーを吸収して、私自身の構成要素は急激に増加しましたが、同時にこの梶本恭子という人の精神との融合が、制御不能な程進行してしまったのです。そのことを認識した私は、再度この梶本恭子という人との融合を阻止しようと試みましたが、それは成功しませんでした」

「それは何故でしょう?」

林の問いは端的で短い。それは出来るだけ<神>に語らせることを、彼が意図していたからだった。

「この梶本恭子という人の精神活動が急激に活発化し、融合し始めた部分から、私の構成要素に流入してくるエナジーを制御することが困難になったためです」

「何故、梶本さんの精神活動が急激に活発化したのですか?」

「いくつかの要因が存在すると推察されますが、大きな契機は蓑谷明人(みのやあきひと)という人が、この人の意に反する生殖行為を強要したからです。それまでもこの梶本恭子という人の精神は、人間が定めた社会規範を遵守しない他者への怒りの感情を多く含んでいました。それが蓑谷明人という人間の暴力による生殖行為の強要によって、一気に増加したのです」

「私は以前の梶本さんを知っていますが、その様な怒りを内面に抱いている人には見えませんでした。梶本さんは、何時からその様な怒りを抱くようになったのですか?」

「何時からという正確な情報を私は所有していません。以前私は、この梶本恭子という人と、祖父という血縁関係にあった、梶本明哲(あきよし)という人の精神世界に存在していました。そして梶本明哲という人が生命活動を停止し、その精神世界が消滅する際に、近くに存在していた、この梶本恭子という人の精神世界へと移動したのです。この梶本恭子という人は、この人と父母という血縁関係にあった、梶本哲也(てつや)という人と梶本美佐枝(みさえ)という人が、交通事故という事象によって、ほぼ同時期に生命活動を停止したため、その後梶本明哲という人によって扶育されました。その過程でこの梶本恭子という人は、梶本明哲という人から多くの精神的影響を受けることになりました。その主たる要素は、社会規範の遵守という概念でした。その概念が、この梶本恭子という人の、精神活動の絶対的基準として構築されたのです」

「社会規範の遵守ですか」

「そうです。この梶本恭子という人の精神には梶本明哲という人によって、自身が所属する国という集団が規定する法規制、社会倫理、公共マナー等のすべての規範を遵守して生活することが、人間としての存在意義を決定するという概念が繰り返し注入されました。その概念は梶本明哲という人が生命活動を停止した後も、この梶本恭子という人自身の精神活動によって反復的に強化されました。その概念自体は、私にとってさほど有害な不純物ではなかったのですが、その概念に基づく願望から、徐々に私にとって非常に有害な不純物の生成が開始されたのです」

「それはどの様な有害物質だったのですか?」

「貴方たち人間が生成する<怒り>という感情です。この梶本恭子という人は自身の成長の過程で、自身が社会規範を遵守するだけでなく、他の人間もそれを遵守しなければならないという、強い願望を所有するようになっていきました。その願望はこの梶本恭子という人が、大学という集団に所属するために、東京という地域に移動して以後、現在まで継続的に強化されています。そしてその願望に合致しない行動をする人間に対して、徐々に強い怒りの感情を生成するようになったのです」

「この世界を飛び交っている感情がそうなのですね?」

「そうです。しかし私があの者との接触によって、この梶本恭子という人と融合し始めた時点では、現在のように強く大量の怒りは、この世界に存在していませんでした。しかし時間が経過する共に、怒りの強さと量が増加したのです」

「その様に怒りが増加した理由は、何だったのですか?」

「その理由に関する正確な情報を、私は所有していません」

「推測でも構いませんので、教えて頂けますか」

<神>はしばらく沈黙した。姿は見えないが、考えている様子が林に伝わってくる。これまで交信した<神>もそうだったが、彼らは皆論理的で、客観的で、かつ公正な思考回路を持っていた。林からの質問への対応は、誠実ですらあった。

それは<神>の在り方そのものに起因するのかも知れない――と彼は考えた。その時再び<神>の声が聞こえた。

「貴方の要求に従い、私の推論を伝達します。この梶本恭子という人の精神の中で、怒りという有害物質が増加したことの原因の一つは、この梶本恭子という人の精神と、私の構成要素の同化にあると推察されます。それがどの様なものであるかは残念ながら不明ですが、私の構成要素の一部が、融合によって、この梶本恭子という人の願望を増大させるような精神活動を活発化させたものと推察されます」

「梶本さんの願望が大きくなることで、怒りも増加したというのですね?」

「そうです。私が所有する記憶によると、不純物は人間の願望によってその種類と量が決定されます。この梶本恭子という人は、自身だけでなく、他の人間も社会規範を遵守して行動することを強く願望していました。そしてその願望に則さない行為をする人間に対して、怒りという不純物を生成するのです」

「そして願望の強さが増加することによって、怒りの強さと量も増加したということですね?」

「そのように推測されます」

林は沈黙した。この世界では、彼も<神>も単に思考するだけで交信を行っているのだが、何故か自身が声を出して会話している様な感覚を覚えるのだ。しばしの黙考の後、彼は話題を転換した。


【24-4】

「ありがとうございます。状況がよく理解出来ました。その上でもう一つ、あなたに確認したいことがあります。よろしいですか?」

「貴方の提案を容認します」

「あなたは梶本さんの身体に起こった変化を認識されていますか?」

「私は人間の形態を直接認識することが出来ませんが、この梶本恭子という人の記憶として保存されている情報との比較は可能です。しかしこの梶本恭子という人は、現時点より12日前から、鏡という道具を使用して自身の反射映像を見る行為を中止しました。その行為を行うことに、潜在意識下で強い恐怖を感じているようですが、その理由は不明です。先程貴方がこの梶本恭子という人に鏡を見るように指示した際、私がそれを阻止しようと試みた理由はそれです」

「そうですか。つまり貴方は現在の梶本さんの姿を知らないのですね?」

「全体についてはそうです。しかし現在視覚を通して入手されている情報、例を挙げるなら腕という運動器官の形態変化については認識しています。そしてその変化も、この人の願望に起因しています」

「どのような願望ですか?」

「社会規範を遵守しない人間を、罰したいという願望です。罰するという概念を、私は正確に理解出来ませんが、この梶本恭子という人が行ったのは、自身の怒りの対象となる人間に対して肉体的苦痛を与え、生命活動を停止させるという行為でした。このことに関連して、私には一つ疑問が生じました。貴方がその疑問に回答することを希望します」

「どうぞ仰って下さい。非常に興味があります」

「この梶本恭子という人の精神は、他の人間を罰するという行為を行っている際に、非常に大量の喜びという感情を生成していました。しかし同時に、怖れ、悔恨、悲しみという、喜びとは相反する感情も生成していたのです。私にはそのことが不可解でならないのです。何故この梶本恭子という人は、一つの行為を行うに際して、複数の相反する感情を同時に生成したのですか?」

「ああ、梶本さんの中には、人としての感情が残っていたのですね。それをお聞きして安心しました」

「貴方が今思考したことは、私の疑問に対する回答ではありません」

「失礼しました。貴方のご質問に正確に回答することは、実は非常に困難なことなのです。人間の精神はとても不完全で、時に相反する二つの感情を、同時に持つことがあるのです。梶本さんの場合は、彼女の願望に反する様な行為を行う者に対して強い怒りを覚え、その者たちを罰することに喜びを感じていました。これは願望の充足という意味において、正しい在り方です」

「賛同します。では何故相反する感情が生成したのですか?その様なことは合理的ではないと私は判断します」

「仰る通りです。ただ一方で梶本さんは、自身が行った行為に対して、それが残虐で倫理に反するものであることを認識していたのです。また法治国家において、その資格を有しない者が、自身の基準に基づいて他者に処罰を加えることが、法規範に違反することを理解していました。さらに人間本来の性質として、他者への憐みという感情を抱いたのです。その様な彼女の潜在意識下での心の動きが、自身の行為への怖れ、悔恨、悲しみという感情を作り出したのだと思います」

「貴方の説明は難解です。私はそれを正確に理解することが出来ない。そしてもう一つ疑問が発生しました。貴方は何故、先程この人が喜びと相反する感情を生成したことについて、安心という思考をしたのですか?」

「梶本さんの精神が怒りの感情だけに染まらず、彼女本来の人間性、優しさや憐憫の情を残していたことに救いを感じたからです。彼女の肉体は怪物と化してしまいましたが、精神までが完全にそうなってはいなかった。だからと言って、彼女の行為が許される訳ではないのですが」

「この人の行為が、人間が作った法規制上の犯罪に該当するのであれば、この人の精神にその様な感情が残っていたとしても、法的処罰を受けることに変わりはないと推察されます。それでも貴方は彼女を許容しているようです。貴方の説明は不合理で、やはり私には理解することが出来ません」

「残念ながら人間はその様に、不合理で不完全な生き物なのです。ところでもう一点重要な質問をさせて下さい」

「容認します」

「梶本さんの形態の変化についてです。貴方は彼女の変化の原因をご存じですか?」

「原因は私が行った、遺伝子の構造変換です。正確にはこの梶本恭子という人の精神と同化した、私の構成要素の一部が、この人の願望に基づいて変換を行ったのです。この梶本恭子という人は怒りの対象となった人間を罰したいと強く望んでいましたが、この梶本恭子という人の肉体的能力は対象者より劣っていたため、その人間たちを罰することは困難でした。そのためこの梶本恭子という人は、対象者たちを処罰するのに適した能力を得るために、自身の肉体的能力が向上することを、意識下で強く願望したのです。私の構成要素の一部はその願望に刺激され、遺伝子の構造変換による骨格や筋力の増強を行ったのです」

「貴方は、遺伝子変換の知識や能力を持っていたのですか?」

「私はその情報を、あの者の記憶から取得しました」

「やはりそうでしたか。しかしあの方はその様な情報を持っていないか、あるいはそれが<神>にとって禁忌に該当する情報であると言われていました。貴方にはそれが禁忌であるという認識はなかったのですか?」

「禁忌とはどのような意味ですか?遺伝子変換に制限をかけるということですか?私には理解出来ない。私が彼の者から取得した、遺伝子変換に関する情報には、その様な制限は設けられていませんでした」

「情報が複写される過程で、制限が外れてしまったということですか」

そう言って林は考え込んだ。

「貴方は、私の同化した構成要素の一部が行った遺伝子変換について、批判的な意見を所持しているようです。それについては私も賛同します」

「何故ですか?」

「遺伝子変換によってこの梶本恭子という人の筋力は、対象者への処罰を十分に行使出来るまで向上しました。しかし一方で、この梶本恭子という人は、他の臓器に深刻な損傷を負ってしまいました。それが最も顕著なのが心臓という臓器です。過大な筋力の行使によって、この梶本恭子という人の心臓に多大な負荷が掛かったことが原因と推察されます。既にその損傷は、致命的な段階に達しようとしています」

「何故貴方の同化した構成要素の一部は、梶本さんの心臓を、筋力の行使に耐えられるように強化しなかったのですか?」

「この梶本恭子という人が、筋力の強化だけを願望し、他の臓器の強化を願望しなかったためと推察されます」

林は梶本の置かれた状況を知り、胸が詰まる思いがした。無論彼女は、自身が怪物になることを望んでいた訳ではなく、強い道徳心に基づく怒りに翻弄されてしまっただけなのだ。しかし彼女にとって不運だったのは、蔵間顕一郎(くらまけんいちろう)父娘が偶然旅先から伴ってきた<神>によって、彼女の中で眠っていた別の<神>が再起動してしまったことだった。その結果、彼女が望んだ訳でも、彼女の中で眠っていた<神>が意図した訳でもないのに、普通の人間としての在り様を放棄させられてしまったのだ。

――何という悲しい巡り合わせなのだろう。

「何故貴方は、情報の発信を中止したのですか?」

<神>の問いかけに林は我に返って言った。

「失礼しました。では貴方に最後の質問をさせて頂きます」

「容認します」

「梶本さんを、以前の姿に戻すことは出来ますか?」

「それは不可能です。既にこの梶本恭子という人の変化は、不可逆的なレベルに達しているからです」

「やはりそうですか」

林は無念そうに言うと、「一つ提案があります」と続けた。

「どの様な提案ですか?」

「私があそこにいる梶本さんと、対話する手伝いをして頂けませんか?」

「何故その様な行為を希望するのですか?」

「肉体の復元は出来ないとしても、せめて彼女の心を、人間に戻してあげたいからです」

「その理由は理解出来ません。この梶本恭子という人は、既に人間としての精神を所有しています。人間の心とは精神活動の産物です。それを人間に戻すという意味が理解出来ません。それとも人間の精神と心は、定義が異なるものなのですか?」

「確かに心は、人間の精神活動によって生まれるものです。しかし心には様々なステータスがあるのです。今の彼女の心の状態は非常に不安定で異常です。私はそれを正常な状態に戻してあげたいのです」

「今の貴方の説明は理解出来ました。そしてこの梶本恭子という人の心が、貴方の言う正常な状態に戻ることは、私にとっても有益です。何故ならば、今のこの世界の状態は、私が存在を継続する上で非常に危険であるからです。従って私は貴方の提案を受け入れ、貴方が試みる行為に協力しましょう」

「ありがとうございます。では、今この世界に満ちている怒りの数を減少させることは可能ですか?」

「この人の神経伝導系に干渉して、怒りを生成している部位の活動を低下させ、一時的に怒りの量を減少させるだけであれば、可能であると推察されます。しかしそのような試みには、時間的な制限があることも、同時に伝達します」

梶本恭子の中の<神>はそう言って沈黙した。

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