第4章23節

【23-1】

気がついたとき永瀬晟(ながせあきら)は足が地に着いていない、頼りない感覚に襲われた。

そして漸く意識がはっきりしてくると、自分が何かに抱えられていることに気づく。目を開けると、色白で小振りな女の顔が、息がかかりそうな程の至近距離から永瀬を覗き込んでいる。極端に大きく見開かれたその目は、今にも眼窩から飛び出してきそうだった。虹彩の周囲は、充血して血走っている。

「永瀬先生。大丈夫ですか?」

女は、どこかで聞き覚えのある声で永瀬の名を呼んだ。

梶本恭子(かじもときょうこ)だった。

顔の表情が自分の知っている温和な彼女とは、あまりにも違っていたので、すぐには分からなったが、それは紛れもなく行方不明の梶本恭子だった。

「梶本さん?君は、梶本さん?」

「嫌だわ、先生ったら。一、二週間会わなかっただけで、もう私の顔を忘れてしまったの?梶本ですよ」

永瀬が思わず聞くと、そう言って笑ったような表情を浮かべた梶本は、永瀬を覗きこんでいた顔を後ろに引いた。すると、彼女の上半身の全体像が永瀬の眼に飛び込んで来た。

彼女は裸だった。そして巨大な瘤のようなものが、でこぼこといびつな形で全身を覆っている。小柄で華奢な体形は影を潜め、男性ボディービルダーの倍以上もありそうな、巨大な筋肉が、体のあちこちから盛り上がっているのだ。

特に異様だったのは、梶本の顔を、左へ押しのけるようにして盛り上がった、右肩の筋肉だった。永瀬はそこからもう一つ、別の首が生えているような錯覚を覚えた。

「先生、私寂しかったんですよ。先生とお会い出来なくて。今日はせっかくいらしたんですから、ゆっくりお話ししましょうね。な・が・せ・せ・ん・せ・い」

その姿とは凡そそぐわない言葉が、怪物の口から発せられる。

「君はどうして…」

「私の部屋でゆっくりお話しましょう」

梶本は永瀬を遮ってそう言うと、彼を脇に抱え、のそりと廊下を歩き始めた。

永瀬は抵抗しようとしたが、凄まじい怪力で抱えられているため、身動きが取れない。

「そうそう、一緒にいらしたあの中国人、確か林とかいう人でしたわね。彼はどうなさったの?」

永瀬を抱えたまま、悠々とした足取りで階段を上りながら梶本が訊く。

「き、君はどうしてそれを…」

「だってぇ、私、先生たちがこのビルに入るのを、ずっと上から見ていたんですよ。あ、そうか!私たちに遠慮して先に帰ったのね」

「か、彼は――」

三階に――と言いかけて永瀬は口をつぐんだ。

「まぁ、どっちでも構いませんけど。私たちの邪魔をするようなら、引き裂いてやるから」

梶本の口から、突然恐ろしい言葉が発せられた。しかしそう言いながら永瀬を見る目は、どうやら笑っているようだ。それは今まで彼が見た人間の表情中で、最も恐ろしい表情だった。そして極限状況では悲鳴すら出ないことを、彼はその時初めて知った。

気がつくと彼は、四階の一室に連れてこられていた。中には強烈な香辛料の匂いが充満している。どうやらここが、インド系料理のレストランがあった場所のようだ。薄暗い室内灯の明りに室内の様子が見て取れる。テーブルや椅子は壁際に寄せられていて、室内はガランとしていたが、奥には厨房らしい設備が残されているようだ。

「さあ永瀬先生、ここが私の部屋よ」

薄暗い部屋の隅に置かれたソファの上に、無造作に永瀬を放り出した梶本は、顔を近づけて目を見開き、じっと彼の顔を見つめる。その顔に怯えながら、永瀬は梶本の背後に目をやった。部屋中に何かが散乱していることに気づいたからだ。よく見るとそれは、壊れた人形のようだった。しかし、さらに目を凝らして見ると、それは人形などではなく、人間だった。


【23-2】

永瀬は床のあちこちに横たわったその様子に、大きな違和感を覚えた。恐怖と共に、抑えようのない嫌悪感が湧き起こってくる。

「ああ、あれ?」

永瀬の視線に気づいた梶本は、ソファを離れるとその中の一体に近づいた。そして無造作に腕らしき部分を掴むと、それを永瀬の前に引きずって来る。永瀬は恐怖のあまり眼を背けることも出来ず、梶本が引きずってきたものを凝視した。それは梶本が床に置いた途端に、後頭部が踵につく、ありえない姿勢で折れ曲がった。

「先生。こいつはね、毎朝毎朝電車の中でジャカジャカ音楽を鳴らして、周りに迷惑を掛けていた馬鹿男なの。一度注意したら、逆切れして私に食って掛かってきたの。生意気でしょう?馬鹿のくせに。だから、たまたま帰りの電車が一緒になったときに後をつけて行って、住んでいる所を確かめたの。そしたら、このビルのすぐ近くだったのよ。だから夜に帰ってくるところを待ち伏せて、捕まえて、体をへし折ってやったわ。ほら、こいつ座椅子みたいに折れ曲がってるでしょう。こうすると伸びるのよ。ほんと、座椅子みたい。あはははは」

梶本は笑いながら、両手でつかんだその死体を折り曲げては戻している。しばらくそうしていたが、やがて飽きてしまったのかその死体を放り出すと、また隅から別の二体を引きずってきた。片方は制服を着た女子高生らしきもので、もう片方は派手なシャツを着た男のようだった。男の下半身は裸のようだ。

「こいつはね、見たまんまの馬鹿女子高生なの。大人に養ってもらってる餓鬼のくせに、私を見て笑ったのよ。頭に来るでしょう?だからこいつも待ち伏せて、捕まえて、顎を引き抜いた後、首を捻じ折ってやったわ。糞小便垂れ流して、汚いったらありゃしない」

永瀬の目の前にぶら下げられた死体は、文字通り首が180度捻じ曲がっている。

「それから、こいつはね」

梶本はもう片方の手にぶら下げた死体を永瀬の目の前に突き出した。その顔は原形を止めない程粉砕されている。

「この馬鹿女の男らしいのよ。こいつを捕まえる時に邪魔しようとしたから、ぶん殴って一緒に捕まえてきたの。それでね、あんまりぎゃあぎゃあ騒ぐから」

それ以上は聞きたくなかったが、梶本は永瀬の耳に口を寄せて、囁いた。

「ペニスを睾丸ごと引き抜いてやったわ。その後顔を踏み潰してやったの。あははは」

梶本は狂ったように哄笑しながら、二人の死体を棒きれの様に振りまわす。凄まじい膂力(りょりょく)だ。永瀬には、もはや言葉もない。

「あ、そうそう」

梶本は二人をまた、無造作に放り投げると、部屋の隅に横たわった死体に近づき、長い髪を片手で無造作につかんでぶら下げ、永瀬の前に戻ってくる。ぶら下げられた死体は首が異常な長さに伸びていた。

「先生、こいつのことはよく知ってるでしょう?」

目の前に突きつけられた顔は、恐怖と苦痛で無残に歪んでいるが、紛れもなく永瀬の知る本間雪絵(ほんまゆきえ)の顔だった。

「本間君…」

「そうよ、うちの研究室の馬鹿学生の本間。こいつ研究室の世話になってるくせに、私に反抗するのよ。そして私の陰口を散々言いふらして、笑いものにしていたのよ。その上、私がここにはいるところを、こいつが見ていたの。鬱陶しいでしょう?こいつが一番ムカついたから、首を5回くらい捻ってやったわ。そしたらほら、頚骨が外れたみたいで、ぶら下げるとこうやって首が伸びるの。面白いでしょう?あははは」

そう言って再び哄笑する梶本を見上げる、永瀬の心の奥底から、急速に激しい感情が湧き上がってきた。それは梶本が成した行為への怒りでも、殺された本間たちへの同情でもなかった。況してや、自分が今置かれている状況への恐怖でもなかった。

それは彼女が、体も心も怪物と化してしまったことへの、抑えがたい同情と悲しみだったのかも知れない。

「梶本君!」

永瀬は湧き起こる激情を抑えきれなかった。

「君は何でこんなことをしたんだ?君はこんなことをする人じゃないだろう。もっと優しくて、穏やかで、謙虚で」

そう叫ぶ永瀬を、梶本が凄まじい形相で睨みつけた。

そして腰をかがめると、永瀬の顔に息が吹きかかる程の距離まで顔を近づけ、それまで見開いていた目を細めて言った。

「先生は、私のやったことが間違っていると仰るんですか?」

その口調は、それまでとは打って変わって、元の梶本のものに戻っていた。顔からは一切の表情が消えている。その表情の方が、先程笑いながら死体を弄んでいた時よりも遥かに恐ろしいと、永瀬は思った。


【23-3】

「なぜそんなことを仰るんですか?こいつらは社会の屑なんです。生きていても何の役にも立たないんです。役に立たないどころか周りに迷惑を掛けて、社会に害毒を流し続けるだけなんです。だから私が抹殺してやったんです。いわば、社会のために正義を執行したんですよ。それを先生は批判なさるんですか?」

「せ、正義って。この人たちがしたことが、こんな惨い死に方をしなければならない程、悪いことだったというのか?この国は法治国家だ。罪を犯したものを裁くのは、人間じゃなく法律だ。まして、この人たちがしたことは犯罪でもなんでもないじゃないか!」

恐怖と怒りから永瀬は絶叫した。

「犯罪です。こいつらがしたことは歴とした犯罪です。先生には分からないんですか?」

「梶本君、君、もしかして箕谷君まで…」

「あいつの名前は出さないで下さい」

梶本はすっと背筋を伸ばすと、冷徹に言った。

「先生はあの屑男が、私に何をしたかご存じなんですか?あいつは、あの屑は、私を強姦したんですよ。教室の運営について話があるからと言って、私の部屋に無理やり上がり込んで来て、私を襲ったんですよ」

「そ、そんなことが…」

「本当です。あいつは、その後も何回か私の部屋に来て、無理矢理関係を迫って来たんです。だから私は、あの屑の部屋に乗り込んで行って、あの腐った頭を捻ってやったんです」

永瀬はもはや言葉を失っていた。

「そうよ、あの箕谷の奴も含めて、こいつらは極悪人だわ。自分勝手な理由で、他人に一方的に迷惑をかけて、他人をあからさまに馬鹿にして、他人の心を傷つけて。一体何様だって言うの!屑のくせに、屑のくせに、屑のくせにいいいいいい」

ヒステリックに絶叫したかと思うと、梶本は再び永瀬に振り向いた。

「だからこいつらは、殺されて当然の奴らなんです。それが永瀬先生には分・か・ら・な・い・ん・で・す・か?」

梶本の言葉は冷徹さを取り戻していたが、ゆっくりと念を押すように発せられた最後のフレーズが、彼女の怒りの凄まじさを如実に表していた。永瀬は近づいてきた梶本の脇を咄嗟にすり抜け、ドアに向かって突進した。自分のどこに、この様な力が残っていたのかと思える程、俊敏な動きだった。しかしそれも、梶本には通用しなかった。振り向きざまに手を伸ばして永瀬の腕をつかむと、凄まじい膂力で自分の正面に引き寄せ、もう一方の腕をつかんで持ち上げる。

「先生は、先生は、せんせいはああああ、どうして私の気持ちを、分かってくれないんですかああああ」

雄たけびを上げて、再び梶本が激高し始めた。永瀬は間違いなく殺されると思い目を閉じる。その時になって初めて、自分が失禁していることに気づいた。

その時だった。

永瀬を拘束していた力が緩み、永瀬の体は梶本の束縛を逃れて床に落ちた。

「あんた誰よ?」

恐る恐る目を開くと、梶本が怪訝な表情を浮かべてそう言った。

「私に会いに来た?」

もはや永瀬は眼中にないように、そう続ける。しかしここには梶本と永瀬しかいない。

――彼女は誰に向かって話しているんだ?

永瀬には咄嗟にそれが理解出来なかった。

「鏡?鏡が何ですって?あんたは煩いわね。ちょっと黙っててよ」

梶本がまた、誰かに向かって言った。

永瀬が恐る恐る立ち上がり、梶本の肩越しに彼女の背後を見ると、ドアの脇に等身大の立鏡が置かれていた。そしていつの間に部屋に入って来たのか、林海峰の姿がドアを挟んで、鏡の反対側に見える。彼はドアの脇に置いた椅子に腰かけ、目を閉じているようだ。

「鏡?どこに?」

「梶本君、ほら、君の後ろに鏡がある」

永瀬が咄嗟に背後を指差すと、梶本が鏡の方に向かって振り向いた。

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